書き留めておかなくては。すぐにでもそうしなければ一日中その風景に囚われ、その世界に閉じこめられてしまいそうな予感がしたのだ。なに、たかが朝方にみた夢だ。夢の中の記憶に過ぎないのだが。
粒子の粗い、カタカタと背後で微かに音が鳴っているような、8mmフィルムの映像。私は誰かを訪ねて知らない土地を彷徨っている。砂丘だ。赤茶けた砂が延々と続いている。赤茶けているというのもおそらく単なる私の観念であって、私は実際に砂丘というものを見たことがなく、夢の中では全体がぼんやりと薄い膜がかかったような掴みどころのない、心細く頼りないばかりの場所であり、ただそこが砂丘だと思えば少しは気がラクだったからそう思っただけに過ぎない。
あてどもなく歩き続けているうちに彼方に何か塔の先端のようなものが見え始め、やがてその下に“楼閣”といった風情の輪郭をもって建物の全体像が現れてきた。私は行き先を確かに捉えたことに安堵しながら、砂上を歩く重い足取りを休めて、その建物を眺めた。まるで逆光に遮られているかのように目を細めて額に手をあて、小高い位置にあるその建物を凝視する。あれは…モン・サン・ミッシェル…そう、そんな雰囲気。海と砂の中に突如として現れる、孤高の僧院のようだ、と私はぼんやりと思っている。思いながらも、そんなことをいつ知ったのだろうかとも思い、しかしすぐに別の私が「これは夢だから」と冷静に呟いた。
不安定な意識がアメーバのように増殖してパニックを起こすことを回避するために、夢の中の自分に「夢だから大丈夫」と言い聞かせることはよくあることだ。そしてそのように思うことによって歩く気力をなんとか取り戻そうとした。何か動いている。ヒラヒラと何かが。手を振っているのか。いや誰かがこちらに向かって、ゆるりと手招きしている。
ああ、あそこだ。再び歩き始める。私は何故か、前より速度を速めたと相手に気づかれぬように、努めて冷静な足運びを心がけている。少しほっとして弾んでいる心の動きを悟られたくないと思っている。というより不安を感じていたことを知られてはならないと思っているのだった。砂に足をとられているこの緩慢な歩き方を無様であるとも思われたくない。慣れたふうに、顔色も変えず、焦りを見せずに。そう、そうだ、慎重に。時折その誰かを確認しながら楼閣を目指すが、揺らめく影はそのうち奥に引っ込んでしまったようだ。
失礼な。呼びつけたのなら見守っているべきじゃないか。呼びつけた?自分はその人物に呼びつけられたのかこんな場所に?そうなのか?
一体今は何時頃なのか、夕暮れ時のような気もするし朝方のような気もする、白夜であるのかもしれない。時のない世界。一瞬そんな思いに囚われ慌てて嗤い飛ばす。嵌められてなるものか。
近づいていくうちに、その建物が思ったよりかなり小さいだけでなく、寂れきったアパート、いや長屋といった印象の建造物の跡地であることがわかってきた。最初に見えた塔などは、荘厳なイメージとは程遠い、痩せこけた給水塔の化石のようだ。モン・サン・ミッシェルだなんて思い浮かべた自分を嘲笑う。勝手にいいように想像して勝手に騙されたと思い込む単なる馬鹿だ。
ここはまるで廃墟だ、廃墟どころか、魔窟の九龍城みたいじゃないか。とたんにまた不安が蔦のように足元から徐々にまとわりつきはじめる。蔦を払う剣はない。剣のかわりに私は身を守るべく怒りの感情を持ち出すのだ。腹を立てていることにする。こんな小汚い所へよくも。私は逢うべき男を探している。男。そう私をここへ呼んだのは男だ。
なんとも心許なく、踏みしめ甲斐のない底なしの砂はやがて、建物のアプローチの存在を足の裏に感じさせる。見上げると砂粒に煙る廃墟は窓の穴だらけの一匹の怪物のようでもある。ゴオオオと穴から穴へ空気が渡る地鳴りのような音がしそうだ。風など1ミリとて吹いていないのだけど。
おそらく私は自分以外の何か動く存在を求めているのだろう。心に畏れを認めるのが怖いのだ。いけない。あの男に見破られてしまう。自分を奮い立たせて歩むしかないのだ。
始めに覗いた一室に、男はいた。一室、とはいっても屋根がない。そこは四方ではなく三方が壁(であったと思われる崩れかけた仕切り)であり、足を踏み入れて仰いだ天のフレームは“過去を回想した場面で使われる擦り切れた空の映像”のようであった。その男は長椅子のようなものにゆったりと腰掛けている。白っぽい、簡素な服。襟ぐりは丸く、長袖の袖口は広い。麻だろうか。着心地の良さそうな軽い素材であるようだ。頭からストンと被ってお終い、といった、まるで丈の長いワンピースのよう。そしてその下から伸びる、骨張ってはいるが屈強な素足。
男の素足というものが、私は苦手だ。苦手ではなく本当は好きだ。例えば男の手の厚み、或いは薄さ、指の長さ、動きといったものに女が性的な魅力を感じることがあるとすれば、素足には表情が乏しいだけに、その人間に隠された素性があからさまに見えてしまうような気がするのだ。何故そう思うのかはわからない。同性の素足には何も感じないのに、何気なく投げ出された男の足を見るたびに私は居たたまれないような羞恥を感じるのだ。その男の素足は、その男の存在感そのものだった。
「ようこそ。」と聞こえたような気がする。微笑んでいる、いや薄笑いだともいえる…イヤな感じだ。でもきっと、この表情をイヤな感じだと受け止める人はいないだろうと私は思っている。おそらく私だけにはそう見えるのだ。きっとこの男は如何なる場所に居ようとも、こういう風情のままで存在できる種類の人間なのだろう。たとえガンジス河の淵で河に死体を投げ入れる人間がすぐ横で悲しみに暮れていようとも、紫煙とアルコールの饐えた匂いが充満する雀荘であろうとも、一日の終わりを途方に暮れた眼差しで見送る人々で溢れかえる地下鉄の車内であろうとも。いつだって沈黙のままに「ようこそ。」といった優雅な面差しでそこにいるのだろう。
私はいつの間にかそういう目で男を見ている自分を卑下している。なんて心の卑しい人間なのだ私は。そしてまだ一言も交わしていないというのに私にそう思わせる男の存在感をひどく憎んでいる。まあそこに座りなさい、という柔らかな表情に促されて、自分の座るべき場所を探そうと足元を見る。そして一面に小さな虫螻どもの蠢きを見、総毛立つ。
私は目覚めてすぐに、今日一日をその夢に支配されそうな暗澹たる気配を感じ、パソコンを立ち上げてメモ帳に書き留めた。
知らない場所へ、知らない奴に呼ばれて辿りついた
部屋には天井が無く途中から砂丘に繋がっている
床は一面紅いダニと灰色のノミに覆い尽くされてた
おれはふわふわした踏み心地の床で地団駄を踏み
紅いダニと灰色のノミを砂丘に追いやるのに必死で
その間中知らない奴はカラカラと嗤っていやがった
おれ、と書いていた。これは私のみた夢ではない。そう思いたかった。その方がいいような気がしたのだ。私じゃない。この夢をみたのは断じて私ではない。他人の夢。いや架空の夢だ。書き終わって私は満足した。何故ならあの男を『奴』呼ばわりして貶めてやったからだ。夢の中では圧倒的な存在感に気圧されていた。その上、私は滑稽にも蠢く小さな無力なる虫螻どもに「うわあああ」などと上っ滑りした声をあげ、ただジタバタとするしかなかったのだから。
これで大丈夫だ、助かった。そう思って、思った瞬間、私はかすかに恐怖を感じた。大丈夫だ?助かった、だって?
いや。もうやめよう。バカらしい。私はほんの少し迷ってから、それに名前をつけて保存し、パソコンの電源を切った。
[2005/9]
2007/11/02
ファミレスで逢いましょう
「お待たせしましたぁこちらココナッツグリーンカレーになりまぁす」
クソ面白くもなさそうにバイトの女子高生は“で?どっちに置けばいいワケ?”とでも言いたげな表情でテーブルを見つめるだけなのだった。俺はちょうどクラッシュアイスと水を口に含んでいて、右下の奥歯に凍みるのがイヤで氷の粒を噛み砕けずに、そっちに置いてと言ってあげたくても喋れない状態。このテーブル担当なのであろうこの子が最初にお冷やのグラスを乱暴に置いた時点で彼女は少し片眉をつり上げていた。私のです、とか、こっちです、とか一言言ってあげさえすればこの場が丸く治まるのはわかっているだろうに、彼女は何故黙っているのだろう。
「あのぉ…ココナッツグリーンカレーになりますがぁ」
テーブルに広げた資料に目を通しながら視線を上げないままで彼女がやっと口を開いた。
「いつよ。」
「はぁ?」
「だからいつココナッツグリーンカレーになるのよ。」
「はぁ?」
「ココナッツグリーンカレーになるんでしょ?なってから持ってきてほしいわね。」
さすがに何を言われているか気づいたのだろう。チェリーピンクのグロスをたっぷりと塗り込めた金魚のクチビルをもつ結構カワイイ女子高生は、ムッとした顔でカレー皿を彼女の前に置いてスタスタと厨房の方へ立ち去った。アイボリーの皿は彼女が見ている資料の上に乗っかっている。俺はとりあえずタバコでも、と尻ポケットを探ろうとしたが、彼女が待っていたこの席が禁煙ブースであったことを思い出して、行き場を失った手で仕方なく首の後ろあたりを意味あなくポリポリ掻いてみるしかない。
「お待たせ致しました。昭和の懐かしライスカレーです。お客様のご注文でございますか」
今度はまたどうしてこんな所で働いているのだろうと思えるほど品の良さそうなパートの奥さんがやって来た。俺の目を見て柔らかな微笑みで確認してから、そっと音を立てないように銀色の楕円の皿を置く。女子高生からヘルプ要請が入ったんだなきっと。
その時彼女がやっと顔を上げた。昔の彼女を彷彿させるような華やいだ微笑みを見て、俺は少し安心した。しかし、仕事の邪魔にならぬよう髪を後ろに引っつめている薄化粧のパートの奥さんに、彼女は丁寧にこう話しかけた。
「ありがとう。美味しそうね。これ見て下さる?」
彼女は資料の上に乗っかったままの皿を指した。
「さっきの女の子がここに置いていったのよ。大事な仕事の資料の上に。」
彼女は微笑んだままだ。
「申しわけございません!」
パートの奥さんは慌ててその皿に手を伸ばしかけたが、彼女は制止した。
「いいの。このままにしておいて。この店の店長を呼んで下さる?」
俺がしたことといったら、噛み砕けないクラッシュアイスが溶けてしまうのを待ちながら昭和の懐かしライスカレーを福神漬けとのバランスを考えながらゆっくり食べたこと。食べながらコトの一部始終を一応聞いていたこと。バイトの子がふて腐れながら店長の横で頭を下げるのを気の毒に思ったこと。店長がドランクドラゴンの塚地に似ていると思ったこと。パートの奥さんが晴れ晴れした顔でその様子をバックヤードの脇から覗いているのが見えてしまい、なんだかゲンナリしてしまったこと。食べ終わってからもまだ氷が残っていたので注意深く上唇で除けながら水を飲んだこと。頼んでもいないのに食後に出されたデザートの洋梨のグラニテっていうやつの飾りのミントの葉を彼女にあげてからグラニテってなんだ?と彼女に聞けないまま、それを口の中の左側でシャリシャリと食べたこと。食べられることのなかったココナッツグリーンカレーの行方はゴミ箱だろうか厨房のバイトの腹の中だろうかと想像したこと。そんな感じかな。どんな感じだよって言われてもそんな感じでしたとしか言いようがない。
彼女は店長からのサービスのキャラメルラテを飲んでいる。その横にはこのチェーンの1000円分の食事券が3枚。
カレー皿の下敷きになった資料を示しつつ、彼女が熱意をもって俺に説明している内容というのは、簡単に言えばどうやら彼女が所属する団体への勧誘らしい。3日前に高校の同級生だった彼女から突然俺の実家に電話があった。上品で丁寧な彼女の話しぶりに好感を持った母親がつい俺の携帯番号を教えてしまったのだ。その知らせに少し怒りながらも彼女からの連絡を待ってオレがついウキウキしてしまったことは事実だ。
まぁなんつうか。カモにされた、って結末らしいな。俺は俺に耳打ちして笑ってしまった。その笑いのタイミングがちょうど彼女の話のどこかに合致していたと気づいたのは、彼女の次のセリフを聞いた後だった。
「ね、綾瀬クンもそう思うでしょ?世界にはね、今この瞬間も食糧難で餓死している子供達が何千万人もいるのよ。私達がこうしている間にも、どこかでたくさんの人々が亡くなっているの。どう?私と一緒に一人でも多くの子供達を救うために頑張ってみない?」
俺は微笑んだ。凄いね。おまえスゲー頑張ってるよ正しいよ。彼女も微笑んだ。ありがとう。綾瀬クンと一緒ならもっと頑張れそうよ私。俺は彼女に手をさしのべた。彼女が頷いて満足げに握手してくれた。相変わらずやっぱりキレイだった。
「今日はさんきゅ。ごちそうさん。これもらってくよ。俺も飢えたガキだからさ」
店を出る時に押した木のドアの上から、カランコロンとのどかな牧場の音がした。店に入る時はきっとこの音に気づかないほどワクワクしてたんだな、と思うとちょっぴり切なくなった。高校時代、陸上部の男はみんな彼女に惚れていたっけ。その頃の彼女の可憐な笑顔を思い出そうとしてみたけどうまくいきそうにもない。3000円分の食事券を握りしめてふと空を仰ぐと、最後の大会の日みたいな澄み渡った青が眩しい。第2駐車場の一番奥を目指して俺は思いっきり走り始めた。
クソ面白くもなさそうにバイトの女子高生は“で?どっちに置けばいいワケ?”とでも言いたげな表情でテーブルを見つめるだけなのだった。俺はちょうどクラッシュアイスと水を口に含んでいて、右下の奥歯に凍みるのがイヤで氷の粒を噛み砕けずに、そっちに置いてと言ってあげたくても喋れない状態。このテーブル担当なのであろうこの子が最初にお冷やのグラスを乱暴に置いた時点で彼女は少し片眉をつり上げていた。私のです、とか、こっちです、とか一言言ってあげさえすればこの場が丸く治まるのはわかっているだろうに、彼女は何故黙っているのだろう。
「あのぉ…ココナッツグリーンカレーになりますがぁ」
テーブルに広げた資料に目を通しながら視線を上げないままで彼女がやっと口を開いた。
「いつよ。」
「はぁ?」
「だからいつココナッツグリーンカレーになるのよ。」
「はぁ?」
「ココナッツグリーンカレーになるんでしょ?なってから持ってきてほしいわね。」
さすがに何を言われているか気づいたのだろう。チェリーピンクのグロスをたっぷりと塗り込めた金魚のクチビルをもつ結構カワイイ女子高生は、ムッとした顔でカレー皿を彼女の前に置いてスタスタと厨房の方へ立ち去った。アイボリーの皿は彼女が見ている資料の上に乗っかっている。俺はとりあえずタバコでも、と尻ポケットを探ろうとしたが、彼女が待っていたこの席が禁煙ブースであったことを思い出して、行き場を失った手で仕方なく首の後ろあたりを意味あなくポリポリ掻いてみるしかない。
「お待たせ致しました。昭和の懐かしライスカレーです。お客様のご注文でございますか」
今度はまたどうしてこんな所で働いているのだろうと思えるほど品の良さそうなパートの奥さんがやって来た。俺の目を見て柔らかな微笑みで確認してから、そっと音を立てないように銀色の楕円の皿を置く。女子高生からヘルプ要請が入ったんだなきっと。
その時彼女がやっと顔を上げた。昔の彼女を彷彿させるような華やいだ微笑みを見て、俺は少し安心した。しかし、仕事の邪魔にならぬよう髪を後ろに引っつめている薄化粧のパートの奥さんに、彼女は丁寧にこう話しかけた。
「ありがとう。美味しそうね。これ見て下さる?」
彼女は資料の上に乗っかったままの皿を指した。
「さっきの女の子がここに置いていったのよ。大事な仕事の資料の上に。」
彼女は微笑んだままだ。
「申しわけございません!」
パートの奥さんは慌ててその皿に手を伸ばしかけたが、彼女は制止した。
「いいの。このままにしておいて。この店の店長を呼んで下さる?」
俺がしたことといったら、噛み砕けないクラッシュアイスが溶けてしまうのを待ちながら昭和の懐かしライスカレーを福神漬けとのバランスを考えながらゆっくり食べたこと。食べながらコトの一部始終を一応聞いていたこと。バイトの子がふて腐れながら店長の横で頭を下げるのを気の毒に思ったこと。店長がドランクドラゴンの塚地に似ていると思ったこと。パートの奥さんが晴れ晴れした顔でその様子をバックヤードの脇から覗いているのが見えてしまい、なんだかゲンナリしてしまったこと。食べ終わってからもまだ氷が残っていたので注意深く上唇で除けながら水を飲んだこと。頼んでもいないのに食後に出されたデザートの洋梨のグラニテっていうやつの飾りのミントの葉を彼女にあげてからグラニテってなんだ?と彼女に聞けないまま、それを口の中の左側でシャリシャリと食べたこと。食べられることのなかったココナッツグリーンカレーの行方はゴミ箱だろうか厨房のバイトの腹の中だろうかと想像したこと。そんな感じかな。どんな感じだよって言われてもそんな感じでしたとしか言いようがない。
彼女は店長からのサービスのキャラメルラテを飲んでいる。その横にはこのチェーンの1000円分の食事券が3枚。
カレー皿の下敷きになった資料を示しつつ、彼女が熱意をもって俺に説明している内容というのは、簡単に言えばどうやら彼女が所属する団体への勧誘らしい。3日前に高校の同級生だった彼女から突然俺の実家に電話があった。上品で丁寧な彼女の話しぶりに好感を持った母親がつい俺の携帯番号を教えてしまったのだ。その知らせに少し怒りながらも彼女からの連絡を待ってオレがついウキウキしてしまったことは事実だ。
まぁなんつうか。カモにされた、って結末らしいな。俺は俺に耳打ちして笑ってしまった。その笑いのタイミングがちょうど彼女の話のどこかに合致していたと気づいたのは、彼女の次のセリフを聞いた後だった。
「ね、綾瀬クンもそう思うでしょ?世界にはね、今この瞬間も食糧難で餓死している子供達が何千万人もいるのよ。私達がこうしている間にも、どこかでたくさんの人々が亡くなっているの。どう?私と一緒に一人でも多くの子供達を救うために頑張ってみない?」
俺は微笑んだ。凄いね。おまえスゲー頑張ってるよ正しいよ。彼女も微笑んだ。ありがとう。綾瀬クンと一緒ならもっと頑張れそうよ私。俺は彼女に手をさしのべた。彼女が頷いて満足げに握手してくれた。相変わらずやっぱりキレイだった。
「今日はさんきゅ。ごちそうさん。これもらってくよ。俺も飢えたガキだからさ」
店を出る時に押した木のドアの上から、カランコロンとのどかな牧場の音がした。店に入る時はきっとこの音に気づかないほどワクワクしてたんだな、と思うとちょっぴり切なくなった。高校時代、陸上部の男はみんな彼女に惚れていたっけ。その頃の彼女の可憐な笑顔を思い出そうとしてみたけどうまくいきそうにもない。3000円分の食事券を握りしめてふと空を仰ぐと、最後の大会の日みたいな澄み渡った青が眩しい。第2駐車場の一番奥を目指して俺は思いっきり走り始めた。
相似形
なあ。なあってばそんな顔してんなよ。悪かったよ遅れてさ。今日はまたモノッ凄い天気いいわ。怖いくらい空が蒼いんだ。そういえばあんた昔っから晴れ男だったんだって?おふくろがよく言ってた。たった一つの取り柄が晴れ男。まるで日本昔話みたいにあんたのこと話してたっけ。
いつから身体悪かったんだ?ここに来た時はもうボロボロだったんだって?あぁさっきあんたの女だっていう人に会って聞いたんだけどさ、言っちゃ悪いけど最悪じゃねぇか?趣味悪すぎだって。あんたもしかして保険でも掛けられてたんじゃねえの?
おふくろなら5年前の春に死んじまったよ。くも膜下出血。倒れてからあっという間だった。最後の言葉も何も救急車で病院行って医者に診てもらってオレが呼ばれた時はもうあの世に逝っちまってた。独りで家戻っておふくろのゲロ片付けながら最後に喰ったのがヤキソバだってわかって、オレ泣けたよ。切りつめて切りつめて暮らしててさ。あ、知ってるかあんた?おふくろスシが大好きだったって。でも金ないからガキの頃のオレの誕生日とクリスマスには、家のメシを酢飯にしてタクアンやら卵焼きやらカマボコをネタにした握り作ってくれたんだよ。スシっぽくて豪勢だぁー!なんて言いながら、ずいぶんと安上がりに盛り上がって食べたっけなぁ。
就職して初めての給料日だったんだその日。オレさ、おふくろにスシ買って帰ったんだよ、特上のやつ。初めて自分の稼いだ金で買って帰って、ただいまーって玄関開けたらおふくろ倒れてたんだ、電話の前で。…わかるか?聞いてんのかよ?なあ?
それでもおふくろ、あんたのこと話す時なんだかいっつも楽しそうだった。おもしろい人だったってな。そうそう、あんたの屁が異様に臭くて、それが一番オレと似てるとこだとか言っててさぁ。もう腹立つやら可笑しいやら憎たらしいやら泣きたいやら泣きたくなんかないやら、わっけわかんねえよ。そうやっていっつもあんたをネタにしてオレたち笑って暮らしてきたんだよ。エライだろおふくろってさ、バカかもしれねえけどよ、バカがつくほど偉いって思うんだよ今は。
オレがまだ小さい頃にあんたいなくなっちまったから、あんまり細かいとこは憶えてないんだけど。あんたにタバコの輪っか作ってもらったのはよく憶えてるんだ。上手だったよなぁ。あんなにうまく輪っか作れるヤツいまだに見たことないよ。
中学の時、隠れてタバコ吸っててさ、ちゃんと部屋の換気したつもりだったんだけど、おふくろが帰ってきていきなり泣くんだよ。それが怒って情けなくてじゃないんだ。あんたの匂いがするって言うんだよ。あんたの懐かしい匂いがするって。そう言って泣くんだよ。オイオイオイオイ泣くんだよ。どうゆんだよそれって。それでさ、オレに「輪っか作れるか?」って聞くんだぜ?ふつー怒るだろ親なら。まいっちゃったよホント。
…まいったよ、まいった、ホントまいった。あんたがどっかで生きてると思ってたから今まで独りで生きてこれたんだ。やられた。今度こそやられたよ。どうすりゃいいんだよまったく。
男は父親を見つめていた。大小2枚の白い布を床に落としたまま、長い時間ただ見つめていた。無言で横たわっている、男によく似た男を、茫然と見つめていた。眉毛の長さと流れ具合。眼孔の落ちくぼみ方。両の目頭の距離。逞しい鼻梁。唇の形。思いの外たっぷりとした耳たぶ。少し後退しているM字の生え際。深く刻まれた額の皺の溝。組まれた指の長さと丸みを帯びた爪。しっかりとした厚みをもち、土踏まずがほとんどない、愛嬌のある足。
声に出すことができなかった言葉達の渦を抱えたまま、男は右の踵で左の靴を押さえて片方脱ぎ、靴下も脱いだ。自分の左の素足を、横たわる男の左足の傍らに乗せ、並べて見つめた。
同じ足が二つ。親指に少し長い毛が生えている。ふと、男は上体を屈めてその本数を数えた。
1,2,3,4,5,6。
自分の足を下ろして、もう一つの、同じ形の、冷たい左足の親指を見つめる。
1,2,3,4,5,6。
扉の向こうには、歳のわりにはどう見ても明るすぎる栗色に髪を染めた中年女がひとり。疲れ切った顔に、それでも厚化粧をほどこして、素っ気のない黒い長椅子に座っている。霊安室の中から漏れ聞こえる嗚咽を遠くに聞きながら、女は途方に暮れていた。葬式代を男の息子に払わせることができるだろうかとぼんやり考え、それから今日が数社のうちの一社の返済日だったと思い出し、パサついた髪の中に両手をうずめて頭を抱えた。
そうだ。見せてやるよ。あんたほどじゃないけどさ、オレもうまいんだ輪っか作んの。霊安室って空気まで死んでて動かないんだな。うまくいきそうだ。
どうだ。うまいだろ。あんたも見せてくれよ、なあ。最後に輪っか作ってみてくれないか。昔みたいにホッペタつついてやってもいい。だからもう一回だけ。
いつの間にか、その抑えた泣き声は止んでいた。女はゆらりと立ち上がり扉を開ける。何故か片方だけ裸足のまま、男の息子が火をつけた煙草を男の口元にあてがっている。
「なにバカなことやってんのよアンタ!」
男の息子が静かに振り向いた。なんて似てるんだろうか、この息子は。とたんに男への憎しみが息子である目の前の男への憎しみへとすり替わる。
「父親の葬式代くらいは払ってくれるんだろうね!」
そう吐き捨てたとたん女は殴り飛ばされた。顔の左側がガンガンガンガン鳴っている。冷たいリノリウムの床に倒れたまま、女は男の息子を睨みつける。
「イイ気なもんだ!同じ顔して殴りやがって!父親そっくりだよ!」
男は父親を振り返った。なんだよスッとぼけた顔してノンキに寝てやがって。もしかして今、笑っただろ。なぁオヤジ。
[2005/9]
いつから身体悪かったんだ?ここに来た時はもうボロボロだったんだって?あぁさっきあんたの女だっていう人に会って聞いたんだけどさ、言っちゃ悪いけど最悪じゃねぇか?趣味悪すぎだって。あんたもしかして保険でも掛けられてたんじゃねえの?
おふくろなら5年前の春に死んじまったよ。くも膜下出血。倒れてからあっという間だった。最後の言葉も何も救急車で病院行って医者に診てもらってオレが呼ばれた時はもうあの世に逝っちまってた。独りで家戻っておふくろのゲロ片付けながら最後に喰ったのがヤキソバだってわかって、オレ泣けたよ。切りつめて切りつめて暮らしててさ。あ、知ってるかあんた?おふくろスシが大好きだったって。でも金ないからガキの頃のオレの誕生日とクリスマスには、家のメシを酢飯にしてタクアンやら卵焼きやらカマボコをネタにした握り作ってくれたんだよ。スシっぽくて豪勢だぁー!なんて言いながら、ずいぶんと安上がりに盛り上がって食べたっけなぁ。
就職して初めての給料日だったんだその日。オレさ、おふくろにスシ買って帰ったんだよ、特上のやつ。初めて自分の稼いだ金で買って帰って、ただいまーって玄関開けたらおふくろ倒れてたんだ、電話の前で。…わかるか?聞いてんのかよ?なあ?
それでもおふくろ、あんたのこと話す時なんだかいっつも楽しそうだった。おもしろい人だったってな。そうそう、あんたの屁が異様に臭くて、それが一番オレと似てるとこだとか言っててさぁ。もう腹立つやら可笑しいやら憎たらしいやら泣きたいやら泣きたくなんかないやら、わっけわかんねえよ。そうやっていっつもあんたをネタにしてオレたち笑って暮らしてきたんだよ。エライだろおふくろってさ、バカかもしれねえけどよ、バカがつくほど偉いって思うんだよ今は。
オレがまだ小さい頃にあんたいなくなっちまったから、あんまり細かいとこは憶えてないんだけど。あんたにタバコの輪っか作ってもらったのはよく憶えてるんだ。上手だったよなぁ。あんなにうまく輪っか作れるヤツいまだに見たことないよ。
中学の時、隠れてタバコ吸っててさ、ちゃんと部屋の換気したつもりだったんだけど、おふくろが帰ってきていきなり泣くんだよ。それが怒って情けなくてじゃないんだ。あんたの匂いがするって言うんだよ。あんたの懐かしい匂いがするって。そう言って泣くんだよ。オイオイオイオイ泣くんだよ。どうゆんだよそれって。それでさ、オレに「輪っか作れるか?」って聞くんだぜ?ふつー怒るだろ親なら。まいっちゃったよホント。
…まいったよ、まいった、ホントまいった。あんたがどっかで生きてると思ってたから今まで独りで生きてこれたんだ。やられた。今度こそやられたよ。どうすりゃいいんだよまったく。
男は父親を見つめていた。大小2枚の白い布を床に落としたまま、長い時間ただ見つめていた。無言で横たわっている、男によく似た男を、茫然と見つめていた。眉毛の長さと流れ具合。眼孔の落ちくぼみ方。両の目頭の距離。逞しい鼻梁。唇の形。思いの外たっぷりとした耳たぶ。少し後退しているM字の生え際。深く刻まれた額の皺の溝。組まれた指の長さと丸みを帯びた爪。しっかりとした厚みをもち、土踏まずがほとんどない、愛嬌のある足。
声に出すことができなかった言葉達の渦を抱えたまま、男は右の踵で左の靴を押さえて片方脱ぎ、靴下も脱いだ。自分の左の素足を、横たわる男の左足の傍らに乗せ、並べて見つめた。
同じ足が二つ。親指に少し長い毛が生えている。ふと、男は上体を屈めてその本数を数えた。
1,2,3,4,5,6。
自分の足を下ろして、もう一つの、同じ形の、冷たい左足の親指を見つめる。
1,2,3,4,5,6。
扉の向こうには、歳のわりにはどう見ても明るすぎる栗色に髪を染めた中年女がひとり。疲れ切った顔に、それでも厚化粧をほどこして、素っ気のない黒い長椅子に座っている。霊安室の中から漏れ聞こえる嗚咽を遠くに聞きながら、女は途方に暮れていた。葬式代を男の息子に払わせることができるだろうかとぼんやり考え、それから今日が数社のうちの一社の返済日だったと思い出し、パサついた髪の中に両手をうずめて頭を抱えた。
そうだ。見せてやるよ。あんたほどじゃないけどさ、オレもうまいんだ輪っか作んの。霊安室って空気まで死んでて動かないんだな。うまくいきそうだ。
どうだ。うまいだろ。あんたも見せてくれよ、なあ。最後に輪っか作ってみてくれないか。昔みたいにホッペタつついてやってもいい。だからもう一回だけ。
いつの間にか、その抑えた泣き声は止んでいた。女はゆらりと立ち上がり扉を開ける。何故か片方だけ裸足のまま、男の息子が火をつけた煙草を男の口元にあてがっている。
「なにバカなことやってんのよアンタ!」
男の息子が静かに振り向いた。なんて似てるんだろうか、この息子は。とたんに男への憎しみが息子である目の前の男への憎しみへとすり替わる。
「父親の葬式代くらいは払ってくれるんだろうね!」
そう吐き捨てたとたん女は殴り飛ばされた。顔の左側がガンガンガンガン鳴っている。冷たいリノリウムの床に倒れたまま、女は男の息子を睨みつける。
「イイ気なもんだ!同じ顔して殴りやがって!父親そっくりだよ!」
男は父親を振り返った。なんだよスッとぼけた顔してノンキに寝てやがって。もしかして今、笑っただろ。なぁオヤジ。
[2005/9]
さよならマーチ
仕事納めの日、あの人はそのまま忘年会に行き、2次会3次会と流れて思う存分ハメを外していたようです。いつの間にか寝入ってしまった私は携帯の密かな振動音で起こされました。
「桜木町のENVYって店にいるから迎えに来い!飲み代足りなくなったから5万持ってこいよ!」
女性達の嬌声と男達の笑い声とまるで爆撃のような音楽が後ろから聞こえて頭がシンと冷え、私は無意識に電話を切り娘の頬に擦り寄ってその甘い香りに包まれました、関係ない関係ない私には関係ないもうこれ以上私に用事を言いつけないで。その現実と夢が混ざり合うような感覚の中で、うつらうつらとまどろみながら、何かが焦げるような匂いに気づいたのです。慌てて飛び起きると台所に向かう途中の廊下には煙が充満していました。もうもうと立ち込める煙を払いつつ台所に向かいガス台の火を消しました。お煮しめの大鍋には無惨にも炭と化した具材が燻っているばかり。急いで台所の窓を開け換気扇を強にして鍋をシンクに置き水をかけました。
ジュウウウウウウウウウウウウウウウ………
大量の白い煙が立ち上り、私は噎せかえって何度も咳をし、ボロボロと大粒の涙を流しました。一体今何時なんだろう…あああ…もう午前2時。私は鍋を見つめてただただ茫然としていました。火事になるところだった。火事になってしまえばよかった。
三角コーナーにはゴボウやニンジンや大根や蓮根や里芋の皮があふれ、ゴミ袋はコンニャクや焼き豆腐やチクワや干し椎茸の空袋で埋め尽くされ、食卓には朝食の残骸や夕食の弁当の殻や娘の小さなお茶碗やスプーンが雑然と散らかっていました。長い長い一日は私が別れを告げる間もなく終わっていたのです。
朝5時に起きて朝食と離乳食と弁当を作り、乾いた洗濯物を畳みタンスにしまい再び洗濯機を回し、身繕いをしてあの人を起こし着替えを出してあげ朝食を食べさせ私も食べようとしたけれど娘の泣き声が聞こえて娘のオムツを替え抱いて乳を与え、そうしている間にあの人がシャツにアイロンかかっていないと怒り出し、娘を抱いて乳を吸わせたままアイロン台を出して「まったく色気も何もあったもんじゃないな」というセリフを聞き唇を噛みしめてまだオッパイと泣く娘をソファに置き、胸元を隠して急いでアイロンをかけている間に娘がソファから落下して「ちゃんと見てないからこうなるんだ!」と怒られ、また娘を抱えながらなんとかアイロンを済ませて着せながら、あの人の独身の時と変わりなく整えられた髪型と仄かに香るオーデコロンに胸の奥底で理不尽を憶えていると、抱えた娘があの人の胸のあたりに触ろうとして、あの人が「乳臭くなる!」とまた舌打ちしてもういい今夜は遅くなると言い残してサッサと出かけ、私は娘に離乳食を与えて着替えさせ2人分の荷物を準備して娘をおぶって家を出て自転車を飛ばし保育所に娘を預けて駅へと急ぎ、階段でつまづきストッキングの膝を伝線させ満員電車の中で誰かにお尻を撫でられながら会社に向かい、保育所のお迎えになんとか間に合うようにと昼休み返上でデスクの引き出しに買い置きしてある菓子パンを囓りながら伝票の計算処理に追われ、ふと気づくとオッパイがパンパンに張ってしまっていてトイレで母乳を絞り捨てながら乳牛のイメージに囚われ、終業後に課でお疲れさん会でもと華やぐ空気に背を向け電車に揺られ駅前のスーパーで急いで年末年始の買い物をして大きな2つの袋を自転車のハンドルにそれぞれかけて保育所に向かい、石のように硬く強張った背中に娘をおぶって死にもの狂いでペダルを漕いで家に帰り、休む間もなく風呂にお湯を張り娘をテレビの前に下ろし子供用ビデオを見せて、朝の食卓がそのままになっている光景から目を逸らして、そう、ガス台の前に椅子を置いて台所の下のマカロニや高野豆腐を置いてある引き出しの奥の煙草を取り出して、ガスの青い炎に煙草の先端をそっと近づけた時…
♪なにが君の幸せ~ なにをして喜ぶ~
わからないまま終わる~そんなのはイヤだ!
忘れないで夢を~こぼさないで涙~
だから君は飛ぶんだ!どこま~でも~♪
居間のテレビからアンパンマンの歌が聞こえてきました。何が私の幸せで何をしたら私は喜ぶのでしょう?わからないまま終わるような気がして私は換気扇のブオオオンという音の下で泣きながら煙草を吸いました。
それから娘に食事をさせ私は弁当をつつきながら缶ビールを2本空けました。あの人がいなくてよかった。夕食の支度をしなくていいというだけでどんなに心と身体が休まることかあの人は一生知ることなどないでしょう。
2人でお風呂に入りました。お風呂の中で思いついてアンパンマンの歌を唄ってあげたら娘はバチャバチャとお湯を叩いて喜びました。まだ生まれて5ヶ月だというのに私にはわからない幸せと喜びを知っているのだ。そう思った瞬間娘をお湯に沈めていました。お湯の中で歪んだ娘の顔は一生忘れません。私はすぐに娘を抱き上げて謝りました。
「ごめんねごめんね、ママ手が滑っちゃったの、苦しかったでしょ」
娘は目を白黒させて私にしがみつきました。その時私はかすかに幸せの手応えを感じたのです。無力な者に頼られていることの幸せを。
シャンプーしてあげながら私は盛大に泡を立てて娘の顔にその泡をわざとこぼしてみました。目に鼻に口元に。娘が手足をバタバタさせて藻掻いている姿を見て慌ててシャワーをかけ洗い流しました。しつこくシャワーをかけていると娘は呼吸ができずにまた苦しみました。私はシャワーを止めて抱き上げ苦しかったでしょうとなだめました。娘が落ち着くまでずっとずっと優しく抱きしめて撫でてあげました。今度は喜びが溢れてきました。喜びの形を確かに捉えました。心が凪いでゆくのを感じたのです。
娘を寝かしつけながら急激に眠気が襲ってきました。でも寝てしまうわけにはいかなかったのです。台所を片づけなくては。あの人は帰ってきて家の中が片づいていないと不機嫌になるのです。それに明日大晦日にはあの人の実家に行って、今年最後のエステに行くという義母のかわりに大掃除をしなければならないので、どうしてもその夜のうちにお節の準備をしておかなくてはならなかったのです。あの人は出来合いの料理の味付けが甘すぎる辛すぎると言って箸をつけてくれないのですから。
私は湯冷めしきった上にコチコチに凝り固まった身体に鞭打って起き上がり台所に向かいました。無心で野菜の下拵えをし出汁をとり日高昆布を水に浸し身欠きニシンと数の子を塩出しして漬け汁の味見をしている時…
♪もし自信をな~くして~ くじけそうにな~ったら~
いいことだけいいことだけ思い出せ!
そうさ空と海を越えて~風のように走れ~
夢と愛をつれて~地球をひとっとび~ひぃとぉっとび~♪
娘のビデオの歌を思い出していました。いいことだけいいことだけ思い出せ。いいこと。結婚してからいいことなんてあったかしら。そんなことを考えながら、あとはもう少し弱火で煮込むだけにして寝室の娘の横に寄り添って冷えた身体を温めながら、いつの間にか眠っていたのです。
焦げた鍋を見つめたまま慌ただしかった一日を思い出してぼんやりしているうちに悪寒がしてきました。居間に置いてある新聞紙で扇ぎ煙を窓の方に追いやり少しおさまったところで寝室に行きました。携帯を見ると8回もあの人からの着信がありました。私は怒られるのを承知で観念してあの人に電話しました。
「ごめんなさい、さっきちょっと台所で…」
「なんなんだよゴチャゴチャうるせーな!もう家出たのか!?」
「いえまだ家にいます」
「バカかおまえはっ!早く迎えにこい!こんな時間じゃタクシーも拾えないんだよ!金忘れるなよ!」
電話が切れる前に「クソ女…」という呟きが漏れ、後ろから「次ケンちゃんの歌だってばぁー」という女の甲高い声が聞こえました。
朝から晩まで動き回り常に時間に縛られて頭の中で段取りをし、家事保育所仕事買い物保育所家事と何から何までこなし、自転車と満員電車で体力を消耗しクタクタに疲れ果てている私。悠々と身だしなみを整えてから仕事に向かい、休日は昼まで寝てから映画だゴルフだと『気分転換』をしに出かけ、たまには美容院にでも行かないと恥ずかしくて一緒に出かけられないなどと私を嘲笑うあの人。「おいコーヒー」「おい新聞」「おい風呂は」「おい着替え出しておけよ」「おい俺を清潔なハンカチも持たない男にする気かよ」おい。おい。おい。おい、おい、おい、おいおいおい………
お義父さんお義母さん、私ひとりでお邪魔させていただくの、初めてでしたね。話しを聞いていただくのも初めて。あ。名前も一度だって呼んでいただいたことないんですよ。私の名前、御存知でしたか、いえ冗談じゃなくて。私の両親は私が子供の頃、借金を抱えて心中したんです、それも初耳ですよねきっと。
あの人…憲一さんに口止めされていたんです。言う通りにしなければ結婚してやらないと言われました。憲一さんは家を出たくて結婚したに過ぎないんです。はっきりと私にそう言いました。家政婦だと思ってもいいのなら身重のおまえと結婚してやると。
お義父さんお義母さん、私は今まで他人様に悩みを打ち明けたことなどないのです。全部自分の胸の中で解決して生きて参りました。でも今回ばかりは聞きたいんです、私が間違っていたのかどうか、自分でもわからないんです。私の両親は私を生かすために死んだのだと施設の先生に言われて育ってきました。だから自分を大事にしなさい。独りでも立派に生きて立派な人と結婚して家庭を持てたなら相手の方の親御さんが貴方の親になるのよ。その時に愛する人の親御さんを本当に自分の親だと思えたなら全てが報われるのよ、と。
ですから私はお義父さんお義母さんを親だと思いたかったのです。私を娘だと思って可愛がってほしかったのです。名前を呼んでいただきたかったのです。
誰を殺せばよかったんでしょうか。自分を殺せば桃香は頼るべき母親を失う。憲一さんを殺せば桃香は殺人者の娘として一生十字架を背負って生きることになってしまう。可愛い桃香を殺すなんて出来るわけがない。一体誰を殺すのが正解だったのでしょうか。教えて下さい。教えて。教えて。
「憲一、この人一体どうなってるの?」
「俺にわかるわけねーだろ!迎えに来るって言っときながら来ないもんだからタクシー2時間も待ってさ。やっと帰ってきたと思ったら窓全開の寒くて焦げ臭い部屋ん中こんな格好でブッ倒れてたんだから」
「この人ずっと何かブツブツ言ってるわよ気持ち悪い」
「知らねーよ!びっくりしたのは俺だって!救急車呼ぶにも呼べなかったんだから!」
「そうよね。さすがだわ憲一。これじゃみっともなくて他人様に見せられないわよねぇ」
「ねえパパに頼んで入院させてもらえねぇかなー」
「それこそみっともないわよ!さっきパパが注射してくれたから平気でしょ!ただの風邪みたいだし肺炎の心配ないって言ってたじゃない!もぉ…アナタ面倒みなさいよ!ママは今夜お友達とカウントダウンパーティーに行くからダメ!」
「もぉカンベンしてくれよ!どぉすりゃいんだよ桃香の世話だって!せっかく秋から白馬に予約しておいたのに!」
「だったら桃ちゃんだけでも連れていけばいいじゃない」
「友達と行くんだぜ!?子供なんて連れて行ったら遊べねぇじゃねーかよ!ねぇパパに頼んでよママ!」
「それより大掃除どうしようかしら今からじゃハウスクリーニングも頼めないし…肝心な時に役に立たないんだからもぉ…ホントになんなのよこの顔この格好っ!」
熱に浮かされて譫言を繰り返し顔を紅潮させている祥子。眉をひそめて妻を見下ろす憲一。孫の桃香を抱いた義母の百合子。祥子の両頬には赤のマジックで丸が描かれ、毛布の下は上下赤のスエット姿である。憲一が祥子を発見した時には、黄色の靴下と黄色の台所用ゴム手袋をして黄色の紐を腰に巻き、首にはまるでマントのように風呂敷が巻かれていた。
「パパの病院っていうよりサッサと家から追い出して精神病院にでも入れた方がいいんじゃないの!?」
百合子が吐き捨てるように言った瞬間、突然祥子の目がカッと見開き、その腕が俊敏に動いた。
「ア~ンパーンチッ!!!ア~ンパーンチッ!!!ア~ンパーンチッ!!!」
不意打ちで顔を殴られてのけぞる憲一と百合子。転んで倒れ泣き叫ぶ桃香。
「ア~ンパーンチッ!!!ア~ンパーンチッ!!!チーズ!パン工場に行ってジャムおじさんに新しい顔を作ってもらうんだっ!」
アンパンマンが台所に向かう。チーズと呼ばれた桃香が泣き叫ぶ。憲一と百合子が顔を押さえて蹲っている。やがてアンパンマンが出刃包丁を持って戻ってきた。
「わああああああん!わああああああん!わああああああん!」
「チーズ!はやくパン工場に行くんだっ!それっア~ンパーンチッ!!!」
♪そぉだっうれしぃんだい~きるっよろっこび!
たとえっ胸の傷がい~たんでも~
そぉだっうれしぃんだい~きるっよろっこび!
たとえっどんな敵があ~いてでもぉ~♪
大晦日、早朝。まだ静まりかえっている住宅街の一角から、バイキンマンとドキンちゃんの断末魔の叫びとチーズの鳴き声、そして正義のヒーローぼくらのアンパンマンの戦いの雄叫びがこだましていた。
「桜木町のENVYって店にいるから迎えに来い!飲み代足りなくなったから5万持ってこいよ!」
女性達の嬌声と男達の笑い声とまるで爆撃のような音楽が後ろから聞こえて頭がシンと冷え、私は無意識に電話を切り娘の頬に擦り寄ってその甘い香りに包まれました、関係ない関係ない私には関係ないもうこれ以上私に用事を言いつけないで。その現実と夢が混ざり合うような感覚の中で、うつらうつらとまどろみながら、何かが焦げるような匂いに気づいたのです。慌てて飛び起きると台所に向かう途中の廊下には煙が充満していました。もうもうと立ち込める煙を払いつつ台所に向かいガス台の火を消しました。お煮しめの大鍋には無惨にも炭と化した具材が燻っているばかり。急いで台所の窓を開け換気扇を強にして鍋をシンクに置き水をかけました。
ジュウウウウウウウウウウウウウウウ………
大量の白い煙が立ち上り、私は噎せかえって何度も咳をし、ボロボロと大粒の涙を流しました。一体今何時なんだろう…あああ…もう午前2時。私は鍋を見つめてただただ茫然としていました。火事になるところだった。火事になってしまえばよかった。
三角コーナーにはゴボウやニンジンや大根や蓮根や里芋の皮があふれ、ゴミ袋はコンニャクや焼き豆腐やチクワや干し椎茸の空袋で埋め尽くされ、食卓には朝食の残骸や夕食の弁当の殻や娘の小さなお茶碗やスプーンが雑然と散らかっていました。長い長い一日は私が別れを告げる間もなく終わっていたのです。
朝5時に起きて朝食と離乳食と弁当を作り、乾いた洗濯物を畳みタンスにしまい再び洗濯機を回し、身繕いをしてあの人を起こし着替えを出してあげ朝食を食べさせ私も食べようとしたけれど娘の泣き声が聞こえて娘のオムツを替え抱いて乳を与え、そうしている間にあの人がシャツにアイロンかかっていないと怒り出し、娘を抱いて乳を吸わせたままアイロン台を出して「まったく色気も何もあったもんじゃないな」というセリフを聞き唇を噛みしめてまだオッパイと泣く娘をソファに置き、胸元を隠して急いでアイロンをかけている間に娘がソファから落下して「ちゃんと見てないからこうなるんだ!」と怒られ、また娘を抱えながらなんとかアイロンを済ませて着せながら、あの人の独身の時と変わりなく整えられた髪型と仄かに香るオーデコロンに胸の奥底で理不尽を憶えていると、抱えた娘があの人の胸のあたりに触ろうとして、あの人が「乳臭くなる!」とまた舌打ちしてもういい今夜は遅くなると言い残してサッサと出かけ、私は娘に離乳食を与えて着替えさせ2人分の荷物を準備して娘をおぶって家を出て自転車を飛ばし保育所に娘を預けて駅へと急ぎ、階段でつまづきストッキングの膝を伝線させ満員電車の中で誰かにお尻を撫でられながら会社に向かい、保育所のお迎えになんとか間に合うようにと昼休み返上でデスクの引き出しに買い置きしてある菓子パンを囓りながら伝票の計算処理に追われ、ふと気づくとオッパイがパンパンに張ってしまっていてトイレで母乳を絞り捨てながら乳牛のイメージに囚われ、終業後に課でお疲れさん会でもと華やぐ空気に背を向け電車に揺られ駅前のスーパーで急いで年末年始の買い物をして大きな2つの袋を自転車のハンドルにそれぞれかけて保育所に向かい、石のように硬く強張った背中に娘をおぶって死にもの狂いでペダルを漕いで家に帰り、休む間もなく風呂にお湯を張り娘をテレビの前に下ろし子供用ビデオを見せて、朝の食卓がそのままになっている光景から目を逸らして、そう、ガス台の前に椅子を置いて台所の下のマカロニや高野豆腐を置いてある引き出しの奥の煙草を取り出して、ガスの青い炎に煙草の先端をそっと近づけた時…
♪なにが君の幸せ~ なにをして喜ぶ~
わからないまま終わる~そんなのはイヤだ!
忘れないで夢を~こぼさないで涙~
だから君は飛ぶんだ!どこま~でも~♪
居間のテレビからアンパンマンの歌が聞こえてきました。何が私の幸せで何をしたら私は喜ぶのでしょう?わからないまま終わるような気がして私は換気扇のブオオオンという音の下で泣きながら煙草を吸いました。
それから娘に食事をさせ私は弁当をつつきながら缶ビールを2本空けました。あの人がいなくてよかった。夕食の支度をしなくていいというだけでどんなに心と身体が休まることかあの人は一生知ることなどないでしょう。
2人でお風呂に入りました。お風呂の中で思いついてアンパンマンの歌を唄ってあげたら娘はバチャバチャとお湯を叩いて喜びました。まだ生まれて5ヶ月だというのに私にはわからない幸せと喜びを知っているのだ。そう思った瞬間娘をお湯に沈めていました。お湯の中で歪んだ娘の顔は一生忘れません。私はすぐに娘を抱き上げて謝りました。
「ごめんねごめんね、ママ手が滑っちゃったの、苦しかったでしょ」
娘は目を白黒させて私にしがみつきました。その時私はかすかに幸せの手応えを感じたのです。無力な者に頼られていることの幸せを。
シャンプーしてあげながら私は盛大に泡を立てて娘の顔にその泡をわざとこぼしてみました。目に鼻に口元に。娘が手足をバタバタさせて藻掻いている姿を見て慌ててシャワーをかけ洗い流しました。しつこくシャワーをかけていると娘は呼吸ができずにまた苦しみました。私はシャワーを止めて抱き上げ苦しかったでしょうとなだめました。娘が落ち着くまでずっとずっと優しく抱きしめて撫でてあげました。今度は喜びが溢れてきました。喜びの形を確かに捉えました。心が凪いでゆくのを感じたのです。
娘を寝かしつけながら急激に眠気が襲ってきました。でも寝てしまうわけにはいかなかったのです。台所を片づけなくては。あの人は帰ってきて家の中が片づいていないと不機嫌になるのです。それに明日大晦日にはあの人の実家に行って、今年最後のエステに行くという義母のかわりに大掃除をしなければならないので、どうしてもその夜のうちにお節の準備をしておかなくてはならなかったのです。あの人は出来合いの料理の味付けが甘すぎる辛すぎると言って箸をつけてくれないのですから。
私は湯冷めしきった上にコチコチに凝り固まった身体に鞭打って起き上がり台所に向かいました。無心で野菜の下拵えをし出汁をとり日高昆布を水に浸し身欠きニシンと数の子を塩出しして漬け汁の味見をしている時…
♪もし自信をな~くして~ くじけそうにな~ったら~
いいことだけいいことだけ思い出せ!
そうさ空と海を越えて~風のように走れ~
夢と愛をつれて~地球をひとっとび~ひぃとぉっとび~♪
娘のビデオの歌を思い出していました。いいことだけいいことだけ思い出せ。いいこと。結婚してからいいことなんてあったかしら。そんなことを考えながら、あとはもう少し弱火で煮込むだけにして寝室の娘の横に寄り添って冷えた身体を温めながら、いつの間にか眠っていたのです。
焦げた鍋を見つめたまま慌ただしかった一日を思い出してぼんやりしているうちに悪寒がしてきました。居間に置いてある新聞紙で扇ぎ煙を窓の方に追いやり少しおさまったところで寝室に行きました。携帯を見ると8回もあの人からの着信がありました。私は怒られるのを承知で観念してあの人に電話しました。
「ごめんなさい、さっきちょっと台所で…」
「なんなんだよゴチャゴチャうるせーな!もう家出たのか!?」
「いえまだ家にいます」
「バカかおまえはっ!早く迎えにこい!こんな時間じゃタクシーも拾えないんだよ!金忘れるなよ!」
電話が切れる前に「クソ女…」という呟きが漏れ、後ろから「次ケンちゃんの歌だってばぁー」という女の甲高い声が聞こえました。
朝から晩まで動き回り常に時間に縛られて頭の中で段取りをし、家事保育所仕事買い物保育所家事と何から何までこなし、自転車と満員電車で体力を消耗しクタクタに疲れ果てている私。悠々と身だしなみを整えてから仕事に向かい、休日は昼まで寝てから映画だゴルフだと『気分転換』をしに出かけ、たまには美容院にでも行かないと恥ずかしくて一緒に出かけられないなどと私を嘲笑うあの人。「おいコーヒー」「おい新聞」「おい風呂は」「おい着替え出しておけよ」「おい俺を清潔なハンカチも持たない男にする気かよ」おい。おい。おい。おい、おい、おい、おいおいおい………
お義父さんお義母さん、私ひとりでお邪魔させていただくの、初めてでしたね。話しを聞いていただくのも初めて。あ。名前も一度だって呼んでいただいたことないんですよ。私の名前、御存知でしたか、いえ冗談じゃなくて。私の両親は私が子供の頃、借金を抱えて心中したんです、それも初耳ですよねきっと。
あの人…憲一さんに口止めされていたんです。言う通りにしなければ結婚してやらないと言われました。憲一さんは家を出たくて結婚したに過ぎないんです。はっきりと私にそう言いました。家政婦だと思ってもいいのなら身重のおまえと結婚してやると。
お義父さんお義母さん、私は今まで他人様に悩みを打ち明けたことなどないのです。全部自分の胸の中で解決して生きて参りました。でも今回ばかりは聞きたいんです、私が間違っていたのかどうか、自分でもわからないんです。私の両親は私を生かすために死んだのだと施設の先生に言われて育ってきました。だから自分を大事にしなさい。独りでも立派に生きて立派な人と結婚して家庭を持てたなら相手の方の親御さんが貴方の親になるのよ。その時に愛する人の親御さんを本当に自分の親だと思えたなら全てが報われるのよ、と。
ですから私はお義父さんお義母さんを親だと思いたかったのです。私を娘だと思って可愛がってほしかったのです。名前を呼んでいただきたかったのです。
誰を殺せばよかったんでしょうか。自分を殺せば桃香は頼るべき母親を失う。憲一さんを殺せば桃香は殺人者の娘として一生十字架を背負って生きることになってしまう。可愛い桃香を殺すなんて出来るわけがない。一体誰を殺すのが正解だったのでしょうか。教えて下さい。教えて。教えて。
「憲一、この人一体どうなってるの?」
「俺にわかるわけねーだろ!迎えに来るって言っときながら来ないもんだからタクシー2時間も待ってさ。やっと帰ってきたと思ったら窓全開の寒くて焦げ臭い部屋ん中こんな格好でブッ倒れてたんだから」
「この人ずっと何かブツブツ言ってるわよ気持ち悪い」
「知らねーよ!びっくりしたのは俺だって!救急車呼ぶにも呼べなかったんだから!」
「そうよね。さすがだわ憲一。これじゃみっともなくて他人様に見せられないわよねぇ」
「ねえパパに頼んで入院させてもらえねぇかなー」
「それこそみっともないわよ!さっきパパが注射してくれたから平気でしょ!ただの風邪みたいだし肺炎の心配ないって言ってたじゃない!もぉ…アナタ面倒みなさいよ!ママは今夜お友達とカウントダウンパーティーに行くからダメ!」
「もぉカンベンしてくれよ!どぉすりゃいんだよ桃香の世話だって!せっかく秋から白馬に予約しておいたのに!」
「だったら桃ちゃんだけでも連れていけばいいじゃない」
「友達と行くんだぜ!?子供なんて連れて行ったら遊べねぇじゃねーかよ!ねぇパパに頼んでよママ!」
「それより大掃除どうしようかしら今からじゃハウスクリーニングも頼めないし…肝心な時に役に立たないんだからもぉ…ホントになんなのよこの顔この格好っ!」
熱に浮かされて譫言を繰り返し顔を紅潮させている祥子。眉をひそめて妻を見下ろす憲一。孫の桃香を抱いた義母の百合子。祥子の両頬には赤のマジックで丸が描かれ、毛布の下は上下赤のスエット姿である。憲一が祥子を発見した時には、黄色の靴下と黄色の台所用ゴム手袋をして黄色の紐を腰に巻き、首にはまるでマントのように風呂敷が巻かれていた。
「パパの病院っていうよりサッサと家から追い出して精神病院にでも入れた方がいいんじゃないの!?」
百合子が吐き捨てるように言った瞬間、突然祥子の目がカッと見開き、その腕が俊敏に動いた。
「ア~ンパーンチッ!!!ア~ンパーンチッ!!!ア~ンパーンチッ!!!」
不意打ちで顔を殴られてのけぞる憲一と百合子。転んで倒れ泣き叫ぶ桃香。
「ア~ンパーンチッ!!!ア~ンパーンチッ!!!チーズ!パン工場に行ってジャムおじさんに新しい顔を作ってもらうんだっ!」
アンパンマンが台所に向かう。チーズと呼ばれた桃香が泣き叫ぶ。憲一と百合子が顔を押さえて蹲っている。やがてアンパンマンが出刃包丁を持って戻ってきた。
「わああああああん!わああああああん!わああああああん!」
「チーズ!はやくパン工場に行くんだっ!それっア~ンパーンチッ!!!」
♪そぉだっうれしぃんだい~きるっよろっこび!
たとえっ胸の傷がい~たんでも~
そぉだっうれしぃんだい~きるっよろっこび!
たとえっどんな敵があ~いてでもぉ~♪
大晦日、早朝。まだ静まりかえっている住宅街の一角から、バイキンマンとドキンちゃんの断末魔の叫びとチーズの鳴き声、そして正義のヒーローぼくらのアンパンマンの戦いの雄叫びがこだましていた。
殺意の谷
ほんのまばたきの間に、短い悲鳴を残して少女は谷底に消えた。
夕陽の歪んだ輪郭の一部が、もうすぐ向こうの山の稜線に触れようとしている。カタンカタン、カタンカタン、カタンカタン・・・遠く、急行電車の窓灯りが右端から夕刻を縫って過ぎてゆく。車窓にある幾つもの顔は、誰かの知っている顔によく似ているのかもしれない。各駅停車しか止まらないこの小さな村のありふれた風景の一角、小高い山の中腹を切り裂くように口をあけた深い谷の底に、一人の少女が湿った腐葉土にまみれて転がっている。
「ただいまぁ!お留守番ありがとねぇ!」
真希子は慌ただしく玄関のドアを開けた。夕飯の支度の途中で、生姜を切らしていたことに気づいた。今夜はパパの好物のイカの刺身だというのに、生姜がなければ始まらないではないか。のどかな村とはいえ、こんな時間にお兄ちゃんにちょっと自転車で行ってきてとは頼めない。真希子は息子たちに留守番を頼んで、スーパーまで車を飛ばしてきたのだ。
居間の方からゲームの大音量が聞こえてきて、健児の不満げな声が重なる。
「おにいちゃんズルイ!もう代わってってば!ねー!ねーってば!」
この春から健児は年長さん、裕太は3年生。3つ離れた兄に理不尽な意地悪をされて怒ってみたところで健児が敵うはずもない。サンダルを脱いで買い物袋をそっと置き、開けっ放しの居間のドアから中の様子を盗み見ると、健児が地団駄を踏みながら裕太の背中を叩いている。裕太はビクともせずに画面を見つめたままゲームに熱中している。画面ではウルトラマンとゼットンが戦っている。自分の誕生日に買ってもらったばかりのゲームを兄の裕太が独り占めしているのだから、健児が怒るのも無理はない。それに音量がいつもより相当大きい。普段は物わかりのいい素直なお兄ちゃんでも、親の見えないところでは弟に横暴な振る舞いをしたりするのだろうか。すぐに踏み込もうとする気持ちを抑えて、真希子は2人がどうするのか見てみようと思った。
「おれのなんだからな!ママがいないからってズルイぞ!返せ!」
裕太は服を引っぱられて揺すられようがお構いなしにゲームを続けている。真希子は不安になってきた。もうそろそろ限界ではなかろうか。
健児が不意にテーブルの方へ向かった。何かの紙をビリビリと破りはじめる。
「もういい!おにいちゃんなんかキライだ!こうしてやる!」
裕太が弾かれたように振り向き、驚いて立ち上がる。破られたのはプリントだろうか、見る間に顔が真っ赤になってゆく。
「なにすんだ!明日の宿題なんだぞ!弁償しろ!」
「おにいちゃんが悪いんだ!ざまあみろ!」
そのとたん、裕太が弟の横腹を思いっきり蹴り飛ばした。真希子は絶句した。思いもよらぬ息子の激しさを見て、気が動転してしまった。
「わあああああああああ!おにいちゃんのバカああああああああ!」
裕太は続けて手をあげようとしている。真希子は飛び出して健児に駆け寄った。蹴られた脇腹を押さえて涙でグチャグチャになっている。
「裕太!今あんた思いっきり蹴ったでしょ!」
「・・・やってない」
「嘘つきなさい!ママ見てたんだから!」
裕太は唇を噛みしめてうつむいている。
「なんで嘘つく!謝りなさい!裕太!」
両手をグッと握った裕太は、弟を憎々しげに見下ろして叫んだ。
「ケンジなんて死んじまえ!」
真希子は凍りついた。頭が真っ白になる。なんだかわからないうちにスタスタとTVの前に行き、テレビゲームのコードを力任せに引っこ抜いて居間の窓からゲーム機を外に投げ捨て、裕太の目の前に立ち、その頬を平手打ちした。
「もう一度言ってみなさい。」
手の平がジンとする。怒りが過ぎて自分でも驚くほど冷静な声が出た。叩かれたことが信じられない、というような顔で裕太が頬を押さえている。
「もう一度言ってみなさい裕太。」
裕太の二重の大きな目から涙がボロボロとこぼれ落ちた。真希子はそれを見ても怒りが収まらない自分を感じていた。弟を思いっきり蹴った時の容赦の無さが許せない。健児は張りつめた空気の中、痛みを忘れたように身体を起こして2人を見つめている。
「裕太!」「クソババア!」
叫びが一緒になった。ハッとして一瞬見つめ合い、気づいたら真希子は裕太を抱えて居間の窓から外へ投げ出していた。
「そんなにゲームがやりたいなら一晩中外でやってなさい!もう家に入ってこなくていい!」
真希子は窓をビシャッと閉めて鍵をかけた。カーテンを一気に引いてから玄関に走って、玄関の鍵も閉めた。頭の中には「死んじまえ!」と「クソババア!」がグルグル回っている。健児が息を詰めてぺたりと座り込んでいる。
裕太は投げ出されたそのままの格好で茫然としていた。裸足だった。目の前には自分と同じように投げ出されたゲーム機が転がっている。辺りは薄暗い。友達と遊んで帰ってきて、ママに言われて居間のテーブルで宿題をしながら、横目でゲームをやっている健児を忌々しい気持ちで見ていた。音が気になってなかなか集中できない。うるさいぞ、とそれでも控え目に言うと健児は振り向いてアッカンベーをしたんだ。ムカつく。
「やったー!ママ見て!バルタン倒したよ!」
ママは台所の手を止めて健児の頭を撫でに来た。スゴイねーケンジ!上手だねー!裕太はイライラして弟を睨みつけた。パパもママもいつも弟ばっかり可愛がっているように感じていた。ママが買い物に行った直後にゲームを奪って、それからずっと渡してやらなかった。口もきいてやらなかった。だっていつも健児ばっかり甘やかされて、健児ばっかり可愛がられて、ケンジばっかり、ケンジばっかり・・・。
左のほっぺたがジンジンしていた。悔しかった。裕太は袖で涙を拭って立ち上がり、ゲーム機を拾って裸足のまま歩いた。道路の脇の側溝に捨ててやろうと思ったのだ。家が見えなくなる手前でちょっと振り返って見てみた。玄関の灯りと窓のオレンジ色の灯りが暖かそうで、また涙が出そうになった。隣の家からはテレビの音と赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。どこからか、カレーの匂いが漂ってきた。かすかに醤油の焦げたような香ばしい匂いも混じっている。おなかすいたなぁ。すると腹がグウと鳴った。ケンジ腹痛かっただろうなぁ。さっき思いっきり蹴っ飛ばしてしまったことを後悔していた。謝ればよかったのだろうけど、悔しくて悔しくて、できなかった。おまけにクソババアと言ってしまった。これでもう完全に嫌われてしまった、と思った。もう家には帰れない。どうしよう。裕太は心細くなってきた。捨ててやろうと思ったゲーム機を見つめているうちに、また悲しくなってきた。どこに行けばいいんだろう。足が冷たい。
まるで何事もなかったかのように、切り立った谷の淵は、ただ静かに口を開けていた。その静寂の淵に能面の女がしゃがみ込んでいる。根元から5センチほども黒く伸びてしまっている赤茶けた髪を無造作に、というより乱雑に束ねている頭が、谷底を覗き込んでいる。谷の口には雑草やシダ類の葉が残光を拒むように生い茂っていていて、奥には闇が広がるばかりだ。どこ行った?どこに墜ちた?どこに消えた?女は狂ったように目を凝らした。暗い、暗い暗い暗い、暗くて暗くて怖い。女の背中に黒い静寂が張りついたかと思うと、とたんに足元からも恐怖が這い上がってくる。女は目を剥いて起きあがり、背後を見た。刻々と夕暮れが迫る。もうすぐ日没、辺りは闇に溶ける。女は、やにわに走って近くの木に抱きついた。何かに捕まらなければ今の私も消されてしまう。たった今、谷底に消えた少女は、子供の頃の私かもしれない。木肌に頬をつけて「ああ」と女は小さく声を出した。ああ、あああ、あああ。太い幹に背中をつけてそのまま座り込み、後ろ手で木を抱きしめる。まばたきするのが怖かった。だって、まばたきの間に少女は消えたのだ。無意識にまばたきするものかと目を見開き、耐えきれなくなると自力で目を思いっきり閉じてすぐ開いた。息が、息がうまくできない。吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて、そうだ、落ち着いて、吸って、吸って、吐いて、そう吸って、吐いて。そうそう。吸って、吸って、吐いて。何度か繰り返すうちに、いつの間にかそれがラマーズ法の呼吸になっていることに気がついた。ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ああ、少し、少し、ラクだ。ここは分娩台なんだと女は思った。そうだあの時、看護婦さんたちが私の味方になってくれた!そうそう上手、上手だよ、もう少し、もう少しだよがんばって!がんばって!がんばって!ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、嬉しかった、私あの時すごく嬉しかった、だって初めてだったから。誰かが私を励ましてくれるなんて。上手だよって、頑張ってって。フーッ、フーーーッ、いきんで、いきんで、いきんで!そう上手!そう!そう!
山の輪郭を溶かして夕闇が朽ち果ててゆく。カラスがアー、アー、と啼きながら渡っていった。女は静かに木の根元に抱かれていた。とりかえしのつかないことをしてしまった。とりかえしのつかないこと。とりかえしのつかない。あぁいつかこれと全く同じ思いをした時があった。あの時だ・・・彩音を産んだ時!女はこの感情の符合を見、生まれて初めて自分というものを理解した。何を考えているのかわからない奴だと罵られ続けているうちに、いつの間にか自分で自分がよくわからなくなってしまった。でも今だけはわかる。私はたった今、自分がわかる、という結果を産み出したのだ。あの少女を犠牲にして。子供の頃の自分を犠牲にして。女は大きく息を吐いた。
あの時、私は一人の人間をこの世に送り出してしまった。その存在を勝手に消し去ることなど出来ないのだと思って私は泣いた。死んだ方がマシとさえ思うほどの苦しみに半日のたうち回り、自分の身体が宇宙に飲み込まれていくような痛みの末に生まれたものは、一生私を縛りつけるであろう一人の人間だった。もうどこへも逃げられない。私は絶望の直中に放り出された。生まれたばかりの娘は、その血だらけの猿のような顔を一瞬見せた後に別室へ連れていかれ、私は腹を押され子宮の中をかき回され膣を縫われ、腹部に氷嚢を置かれたまま分娩室横の薄暗い控え室のストレッチャーの上にたった独り置き去りにされた。祝福は私にではなく、産まれ出でた新しい命に降り注いだのだった。
「あああ…あああ…あああ…」
私は阿呆のように声を出し続けた。誰か助けて。産む間際まで手を貸して助けてくれたように。初めて他人を信じて助けてもらえたというのに、子供を産んだ瞬間、私だけが置き去りにされた。やっぱり罠だったんだ。どうせこの先も誰も私を助けてくれやしないのだ。
私はそれまでいろんなことをギリギリどうにかでも乗り越えてきたのだ。独りだったから。面倒なことに一切目を背けてから。でもこれからはもうその方法が使えないのだ。逃げるにも何をするにも降ろすことのできない『子供』という重い十字架を背負ってしまったのだ。私がその存在を自分の手で消さない限り一生くっついて離れないものを、産み落としてしまった。
私は束縛の刑に処されたのだ。夫だけでも面倒だというのに、赤ん坊はいつもいつもいつもどんな時も私を縛り続けた。私の身体が赤ん坊の食べ物で、私の身体が赤ん坊の布団で、私の身体が赤ん坊の全世界。赤ん坊は私の休息を絶対に許さない生き物。それでも可愛いと感じる時があった。それは赤ん坊が寝ている時だけだ。寝ている間は愛らしいヌイグルミと一緒だから。泣かないし欲しがらないし、私がいようがいまいが息をしているのだから、私は自らの手を施さずに母親としての責務を果たしているという実感に浸ることができたのだ。私は赤ん坊が寝ている間だけ自由になれた。寝ている間に酒を飲みに行き、誰かとセックスし、思う存分パチンコをし、外食をしに出かけた。夫だった男はとっくの昔にいなくなった。いなくなってせいせいした。私を縛りつける人間がひとりいなくなってくれたというだけのこと。
いっそのこと赤ん坊のままならよかったのだ。子供は大きくなると要求を正確に言葉に出して、前よりもっと私を縛り始めた。赤の他人より始末が悪い。腹が減ったらその辺のものを適当に喰ってればいい。風呂になど入らなくても死にはしない。私がこうして生きてきたように。いつでも人が自分の言うことを無条件に受け入れてくれるなんてどうして思うのだろう。生意気な。だから子供は餓鬼と呼ばれるのだ。勝手に息をして勝手になんとか喰いつないで勝手に遊んで勝手に寝てくれれば私にだって子供を愛することができるはずだった。子供の寝顔は最高に可愛らしいのだから。友達なんていらないに決まっている。他人はいつでも自分の損得だけで生きているものなのだから、自分もそうやって自分の損得で生きていけばいいのだ。それをいちいち友達にいじめられたとか喋ってくれないとかグズグズ言っているから泣きを見るのだ。こっちから無視してやればいいのに。寂しくなったら適当に入り込んでいってその時だけの機嫌をとってやれば済む。簡単なことだ。使いっ走りになってやったり褒めてやったりしていれば他人はいくらか優しくしてくれるものなのだ。それでまた気まずくなったら離れればいい。どうせ一生関わる人間でもない。彩音は頭が悪い。きっと夫だったあのバカな男に性格が似ていたのだ。かわいそうな彩ちゃん。
遠く電車の音が聞こえる。カァ、カァ、とカラスの啼き声がする。カラス、なぜなくの、カラスは山に。かわいいななつの子があるからよ・・・ななつの子、七つの、七つの。女は愕然とする。7歳。かわいいかわいいとカラスはなくの。そうだ。可愛い7歳の子が待っている。彩音がいる。あの少女はやはり私だったのだ。放心していた女の目に生気が戻った。帰らなきゃ。女はスッと立ち上がり、少女が消えた谷を振り向きもせず歩き始めた。林道の脇に黒の軽自動車が止めてある。車に乗り込むとポケットから携帯を取り出して時間を確認し、電話をかけた。
「もしもしお母さん、私。そっちに彩ちゃん行ってない?そっか。いい。お友達のとこに聞いてみる。じゃあ。」
エンジンをかけてセブンスターに火をつける。ウインドーを少し下ろして鼻から煙を吐き出し、助手席を見た。彩ちゃんったら、こんな時間までどこ行ってるんだろう。探しに行かなきゃ。そうだ、そういえば宿題で『春を探しにいこう』っていうのがあるって言ってなかったか?女はジャージのポケットを探った。まだ蕾の、薄緑のフキノトウが1つ入っていた。
「ねえママ、おそと寒いんじゃないかな。」
健児が遠慮がちな声で冷蔵庫の陰から顔を覗かせた。真希子はキャベツを刻む手を止めて時計を見た。裕太を閉め出してから20分経っている。きっとメソメソと泣きながら玄関先にでも座り込んでいるだろう。母親としてやらなければならないことだったのだと自分に言い聞かせてはみたものの、真希子は心のどこかで裕太に手をあげてしまったことを後悔し始めてもいた。それでもやはり『死ね』と『クソババア』の二言は、あまりにもショックだった。
いつもならパパの帰りを待たずに3人で楽しく食卓を囲んでいる時間だ。健児もまた幼いながら兄の宿題のプリントを破ってしまったことを後悔しているのだろう、一人でおとなしくしていた。テレビは消したままだった。
「ぼく、おにいちゃんにあやまる。」
途中から涙声になった。ハッとして見ると、手にプリントを持っている。胸がつまった。セロハンテープで貼りつけてある。うまく張り合わされてはいないが、健児なりに一生懸命元通りにしようと努力していたのだ。真希子は小さな身体を抱きしめた。
「蹴られたとこ痛くない?」
話しかけた声が涙声になっていた。健児はしゃくり上げながら大きく何度もうなずく。
「待ってなさい。おにいちゃん中に入れてあげよう。」
エプロンの裾で目元を押さえながら玄関に向かった。ドアの覗き窓から外を見てみる。しかし外灯に照らされた玄関ポーチに裕太の姿はなかった。ドアを開けて呼んでみた。
「裕太?どこ?ごめんねママも悪かった。裕太!」
辺りはしーんとしている。
「裕太!ゆうた!出ておいで!ゆうた!」
家の周りを回ってみた。裕太はいない。玄関に戻ってみると、健児が心配して出て来ていた。
「おにいちゃんは?」
「ちょっとその辺見てくるね。」
「ぼくも行く!」
真希子はいったん家に入って急いでカーディガンを羽織った。ふと見ると、テレビの前に裕太の靴下が2つ丸まって脱ぎ捨ててある。裕太は裸足のままなのだ。真希子は激しく自分を責めた。二人の上着、靴、それにタオルを持って、健児に上着を着せて手を繋いだ。小さな手はとても温かい。
裕太は裸足のままトボトボと歩いていた。足が冷たい。こんな時間に友達の家に行くわけにもいかない。とりあえず近所の公園に行こう。公園ならコンクリート山の下にトンネンルがある。あそこにいれば、そのうちママも探しに来てくれるかもしれない。家を出てから少しすると高田彩音の家の前を通った。近所の人の話によると、彩音は時々、遅い時間だというのに一人で家の前で縄跳びをしていたり、公園にいることもあるという。何やら悪い噂があって、母親が家に男の人を入れている時は、彩音が外へ追い出されていると聞いたことがあった。彩音は、この春1年生になったばかりだ。集団登校で毎朝一緒に歩くが、あまり親しく話したことはない。こういうのはあまりよくないので誰にも言ったことはないが、彩音は周りからあまり好かれてはいないような感じがした。でもそのわりに妙に人懐こいところもあって、たまにひょっこりと裕太の家に遊びに来るのだった。そういう時は年上の自分より、弟と一緒に遊んでいる。裕太の家はハムスターを飼っているので、彩音は決して自分から見せてとは言わないが、それを見に来るというのが目的のようだった。なぜかいつも玄関ではなくて窓から覗いては、こちらが先に気づいて声をかけるのを待っているところも、なんとなく好きになれなかった。それと、これも誰にも言ったことはないけれど、いつだったかハムスターを触らせている時、ハムスターの足をつねっていたことがあったのだ。あれは間違いなく、つねっていたと思う。肌色の小さな足先を持つ彩音の爪の先が白くなっているのが見えたから。ちょっと驚いていると、彩音はハッとした顔で裕太を見上げてなぜかニッと笑ったのだ。あれは気持ち悪かった。どうしてかこっちが気まずくなって、痛くするなよと言うと、すぐにウンと頷いてやめたけど。
高田彩音の家には電気がついていなかった。車もなかった。出かけているのかな。もしこんな時に彩音が一人で外にいたら、ちょっとは気晴らしに話しかけるぐらいできたのにな、ついそう思ってしまった。本当のことを言えば、彩音の家に上がらせてもらうことを期待していたのかもしれなかった。彩音の家には父親がいないからというのもあった。今ゲーム機を持っているからというのも。彩音の家にもゲームはあるらしいが、ママのだから触らせてもらえないと言っていた。裕太は実はそんなふうに考えていた自分が情けなくなった。
いないのならしょうがない。というより、いなくてよかったのだ。裕太はまた歩き始めた。公園に行こう。やっと腹が据わったような気がした。そのうちきっとママが探しに来てくれて、心配したよ、ごめんね、と言ってくれる。そしたら僕もちゃんと謝ろう。裕太は少しだけ元気になってきた自分に安心した。公園まではあと5分くらいだ。ちょっと心細いけど、少しの辛抱だ。そう自分を励まして歩いていると、コンクリート山が見えてきた。
女は小さな商店街に一軒だけあるコンビニに立ち寄った。
「うちの彩音、今日ここに来なかった?」
レジの男が顔を上げたが、女を見てハァ?というような顔をした。彩音はよく一人でここに来るので店員に覚えられている。買い物するでもなく長い時間いることもあるので苦情を言われたこともあったが、そんなことをいちいち気にしていたらこの小さな村では生きていけない。まあそれにもう苦情を言われることはない。なぜなら先月の夜中に彩音を母親に預けてフラリと町のスナックに出かけた時、ここの店長にバッタリ出くわし、酔った勢いもあって「いつも迷惑かけてスミマセンうち父親がいないものですから子供にいろいろと淋しい思いもさせてるんです」と、ちょっとコナをかけたら簡単に店長がノッてきて、そのまま家に連れてきて関係を持ったからだ。目が覚めたらもう店長は消えていたが、それ以来、徹底的に女を避けている。気の小さい男だ。
「あぁえっと、来てないと思いますけど。」
バイトの男は素っ気なく答えただけだった。それでもしつこく、アンタ今日何時から仕事に来てるの?と聞くと、3時からずっといるという。それなら間違いないか。やっぱり彩音は来ていないのだ。女は肉まん2つとレトルトカレーの甘口と辛口を買った。もしかしたら彩音は先に帰っているかもしれない。ご飯だけは炊飯器に残っているはずだが、おかずが何もない。
車に乗り込んで、あちこち周りを見ながら家に向かった。最後の曲がり角の公園の前に来た時、男の子がひとりで歩いているのが見えた。あれはたしか、裕太君だ。どうしたんだろうこんな時間に。女は車を止めて、ウインドウを開けた。
「裕太君?」
男の子がうなずいた。女は道端に車を止めて降りた。裕太は裸足で、なぜかゲーム機を持っていた。
「どうしたの?裸足で。あ、私わかるよね、彩音のママ」
裕太は困ったような顔をして、家で怒られて閉め出されたことをボソリと呟いた。実際、裕太は当惑していた。恥ずかしかったのもあるが、彩音の母親が喋るとやけにイヤな臭い匂いがしたので困った。煙草の匂いと、それになんだかわからない口臭のようなものが混ざっていて、具合が悪くなりそうだった。
「裕太君、今日うちの彩ちゃん見なかった?」
「朝しか見てません。」
「ほんとに?」
「はい。」
裕太はイヤな感じがした。嘘なんかつくわけないのに。それになんだか妙に迫ってくるので、ちょっと後退った。
「どこに行ったんんだろう・・・」
知らないよそんなこと。
「じゃあね。ちゃんと家に帰りなよ。」
彩音の母親はそう言い残すと小走りで車に戻り、車はあっと言う間に走り去った。裕太は呆気にとられていた。話しかけられて驚いたしイヤな感じもしたけど、車に乗せて家まで送ってくれることになるのだろうと少し思っていた。なんだか普通じゃないような気がする。やっぱりおかしい。それに比べて僕のママはキレイだしちゃんとしてるし・・・そのママにクソババアなんて言っちゃったんだっけ。また悲しくなった。ママ、ケンジ、ごめんあんなこと言っちゃって。また涙が溢れてきそうになった。悲しい気持ちでいっぱいになった。公園には常夜灯がついていて、充分明るかった。その灯りに励まされて、裕太はコンクリート山のトンネルに向かっていった。ママはきっとすぐに迎えにきてくれる。そう信じた。
「ゆうたー!」「おにいちゃーん!」
真希子は半ば焦ってた。もし裕太の身に何かあったら・・・そう思うと全身から汗が噴き出してきそうだった。
「ママ、おにいちゃんさ、きっと公園にいるよ。」
健児が急に立ち止まって言った。絶対、公園にいるよ。コンクリート山のトンネルにいる。
「健児が言うんだもん、そうだね、きっといるね。」
真希子は泣きながら答えた。
「ママ泣かなくてもいいから!おにいちゃん絶対いるから!」
「うん。公園に行こう。」
小さくても男の子なんだな、と真希子は心強く感じた。
その時、前方から車が来て、真希子たちの右の家の前に滑り込んだ。高田さんだ。黒の軽自動車は中途半端に斜めに止まり、中から彩音の母親が降りてきた。
「あ、宮下さん!」
「こんばんは。」
「あの、うちの彩音、遊びに行きませんでした?」
「え?あ、いいえ、今日は来てませんけど・・・」
「私、夕方ちょっとだけ寝てしまって、起きたら彩音がいなくて、今までずっと車で探してたんです。まだ帰ってきてないみたい。家真っ暗だし。」
「そうなんですか?他のお友達のところに連絡されました?」
「それがえっと、連絡網の紙なくしちゃったんで。」
「じゃあ学校に問い合わせて彩音ちゃんのクラスの連絡網をFAXで家に送ってもらいましょうか?まだ誰か学校にいると思いますし。」
「・・・」
「あとで届けにきますから。あの、実はうちの裕太もちょっと見えなくて・・・途中で裕太見かけませんでした?」
「え!じゃあ裕太君と彩音、もしかして一緒にいるんじゃないですか?」
「いえ、30分ほど前まで家にいましたから、一緒じゃないと思いますが。」
「なんでそんなことわかるんですか!もしかしたらってこともあるかもしれないじゃないですか!」
真希子はその剣幕に驚いた。だがこっちも急いでいるのだ。公園に行かなくては。
「とにかく裕太を探してから、お宅に連絡網を届けますから。」
不満げな彩音の母親を残して、真希子と健児は走った。
部屋の電気をつけた。乱雑に散らかった部屋が照らし出される。男が暴れて滅茶苦茶にしていったことを思い出した。まだ出しっぱなしのコタツの周りがひどい。カップラーメンの殻やカップ、雑誌、ドライヤー、化粧品、落書き帳、色紙・・・あらゆる物が散らかっている。それに裏表ひっくり返ったままのTシャツ、乾いたあとの洗濯物の山、口の開いたポテトチップスの袋やベビーラーメンのかけら、ラベルのない幾つものビデオテープ・・・疲れた。片付ける気力もない。女はコタツに足を入れた。暖かい。スイッチを消し忘れていてよかった。コンビニの袋から肉まんを一つ取り出して夢中で食べた。転がっていたペットボトルのぬるいウーロン茶をゴクゴク音を立てて飲み、もう一つ食べようとして女はふと動きを止めた。彩音の分。その時、携帯が鳴った。女は能面の顔で携帯を開いた。
「ああ。今あちこちかけてるとこだから。え。来なくていい。つか来んな。忙しいから切る。」
女の母親からだった。携帯を閉じて部屋の隅に投げ、そのまま倒れ込む。コタツってなんて暖かいんだろう。コタツが好き。この世で一番好き。バカ親より大好き。女は伸びをした。脇腹が痛い。服を捲ってみると内出血していて少し腫れている。肉まんとウーロン茶をいきなり流し込んだ腹がキュルキュルと鳴った。むくり、と女は起きあがった。彩音の分の肉まんを手にとって、じっと見つめる。
「・・・帰ってくるわけねーべ。」
女は大きく口を開け、その半分ほどを一度に囓りとった。
「いた!おにいちゃん!」
ケンジだ!裕太はトンネルから這い出た。後ろでママがしゃがみ込んでいる。
「おにいちゃん、ごめんね、寒かった?」
「ケンジ、ごめんな、おなか大丈夫か?」
2人が真希子に走り寄った。真希子はへたり込んだまま裕太と健児を抱きしめた。
「ごめんね、ごめんね、足冷たかったでしょ、ケガしてない?」
「ママ、ごめんなさい、ごめんなさい。」
真希子は泣きながら裕太の足をタオルで拭いてやって、靴を履かせた。公園の前に一台の車が止まり、クラクションが短く鳴った。
「あ!パパだ!パパ帰ってきた!」
健児が飛び跳ねながら笑顔で叫んだ。
いつもより遅い夕食。家族4人の食卓は賑やかだ。
「なんかよくわからんけど、とにかく裕太は大変だったらしいな。」
パパがイカの刺身にたっぷりと生姜のすり下ろしをつけている。
「健児が言った通り裕太が公園にいたんだもの、もうホッとして力が抜けちゃったわ。」
子供たちはモノも言わずにメンチカツにかぶりついている。相当お腹がすいたのだろう。その様子を見て夫婦は笑い合った。
「それにしても彩音ちゃん帰ってきたかしら。」
真希子は壁の時計を見た。もうすぐ8時だ。パパの車でみんなで帰って来てからすぐに学校に電話をかけて1年2組の連絡網をFAXしてもらい、彩音の家に走った。チャイムを何度押しても彩音の母親が出てこないので、ドアを開けて玄関の乱雑さに少なからず驚きながら「高田さん、高田さん、」と呼んでみた。それでも出てこないので、戸惑いながらも部屋に上がってみて・・・思わず息を呑んだ。足の踏み場もないほど散らかっている。その真ん中のコタツに足を突っ込んだまま、彩音の母親は口を開けて眠りこけていた。声をかけると母親は飛び上がるほど驚いて、疲れてしまって、とかなんとか言い訳をした。電話するのを手伝おうかと申し出てみたが、家の電話は止められていると言う。とにかくFAXを渡して帰ってきたが、彩音ちゃんは無事なのだろうか。あまりいい噂は聞いてなかったけれど、あれほど家の中が酷い状態だとは思わなかった。真希子は時々遊びに来る彩音にあまり良い印象を持っていなかったが、母親があれじゃ無理もないだろうと同情する気持ちにもなり、彩音の汚れた袖口や襟元や毛玉だらけのトレーナーや食べ物のシミがついたままのスカート、脂っぽい髪の毛などを思い出していた。
「そういえば僕、公園に行く途中で彩音ちゃんのお母さんに会ったよ。」
裕太の言葉に真希子は驚いた。裕太を見かけなかったかと聞いた時、あの母親はそんなことは言ってなかったのだから。
「裕太、それホントなの?」
「うん。途中っていうか公園の前だけど、車でバーッと来て、彩ちゃん見なかった?って。それで朝しか見てないって言ったら、早く家に帰りなさいって言って車に乗って行っちゃた。僕さ、ちょっと気持ち悪かった。」
真希子は思わずゾッとした。以前、彩音に家のことを尋ねた時の返事に首をかしげたことを思い出した。自分の家の中がお城のようになっているとか、ピアノがあるとか、ドレスを買ってもらったなどと無邪気に微笑みながら答えていたのだ。
「おい、彩音ちゃんのお母さん、裕太を見てないって言ったのか?」
パパが顔を曇らせた。
「見てないどころか、裕太もいなくなって、って言ったら、それじゃ彩音と一緒なんじゃないですか?って。まるで裕太が彩音ちゃんを連れ出したみたいな言い方で怒ったのよ。」
「なんかおかしいな。」
「ねえパパ、ちょっと様子、見て来てくれない?」
「そうだな。電話番号も知らないんだから見てくるしかないか。」
パパは急いで出て行くと、あっという間にドタドタと帰ってきて叫んだ。
「おい!あそこんちの前にパトカー止まってたぞ!」
家の周りのどこを探しても『小さな春』はどこにもなかった。
生活の時間に『身のまわりの小さな春をさがしてみよう』という宿題が出された。実際に春の証拠を誰か明日持ってきてくれる人!と先生が言った瞬間、彩音も手をあげてしまった。これなら簡単にできると彩音は思った。普段の国語や算数の宿題はやったりやらなかったりだけど、何か見つけて持ってくればみんなに見直されるかもしれない。先生にも褒られてみたい。帰りの会が終わると、手をあげた子はそれぞれ仲の良い同士で放課後一緒に探しに行く約束をしている様子だったが、彩音に声をかけてくれる子は誰もいなかった。
「おまえどうすんだよ。持ってこなきゃ嘘つきだからな!」
いつも意地悪してくる拓也が大声で言った。他の子は遠巻きに見ているだけだ。
「ママと一緒にいーこおっと!」
彩音は誰にともなく、独り言としては大きすぎる声でそう言い、いそいで教室を出た。後ろから拓也の声と女の子たちの嘲笑う声が追いかけてきた。
「おまえのかーちゃんパチンコ屋!おまえのかーちゃんプータロー!」
帰ってみると家の前にまたあの男の人の車があった。戸を開ける前から男の人の怒鳴る声とママの怒鳴る声がしたので、玄関先にランドセルをそっと置いて一人で外に出た。その辺を探してみたがこれといって収穫はなく、公園の方に行こうとしたらクラスの女の子が何人もいて、彩音はいそいで踵を返した。健児君のところにも行ってみようかと思ったけど、ハムスターと遊んでいたらきっとすぐ夕方になってしまいそうなので、やっぱりやめた。河原の方に向かってみたが、今度は拓也たちの姿があった。彩音は慌てて走り去った。
家に戻ると男の人の車はなかった。部屋の中はメチャメチャに荒れていて、ママが泣いていた。彩音は黙ってしばらく様子を伺ってからママに言ってみようと思った。
恐る恐る宿題のことを告げると、怒られるかと思ったけど、ママは「車に乗りな。」と言った。彩香がウンと頷いて上着を着ると、ポケットにミルキーが1つ入っていた。この前、健児君のママにもらったやつの残りだ。
運転席の母親の横顔を、彩音は盗み見た。不機嫌そうに煙草をくわえてハンドルを握っている。どこに連れていってくれるんだろう。さっき彩音がラジオのスイッチを入れたら女の人の歌がかかっていて、それが「あいしてる~あいしてる~」と歌っていたけど、ママは無言でラジオを消してしまった。きっとあの男の人とケンカして悲しいんだろう。かわいそう。しばらく走ると、ママが始めて口をきいた。
「あとちょっとで着くから。ママ子供の頃あそこの山の谷のところでフキノトウとったから。」
「フキノトウって?」
「いいからそれ持っていきな。」
なんだかわからないけど、きっとそんなの誰も持ってこないような気がする。すごい!きっとみんなビックリする!先生も褒めてくれる!彩音は嬉しくなった。そうだ、ポケットにミルキーが入ってたんだった。彩音はそれを口に入れた。甘く優しい味が広がった。そういえばママも子供の時に食べたって言ってたな。ミルキーはママの味、っていう歌があったって。なんだかウキウキしてママの横顔を見たが、相変わらず無表情だった。彩音は黙って口の中のミルキーを転がした。
「ママ、あった?」
彩音の心配そうな声。たしかこの辺りにあったはずだ。女は一応、足元をあちこち探してみた。あの日は自分の母がこうやって下を見ていた。あの時、母は本当に探す気があったのだろうか。もしかして偶然見つけただけではないか。足元を見ているうちにその考えが確信に変わってきた。私はあの時、谷を見下ろしてこう聞いたんだった。
「お母さん、ここ、深そうだね。」
母は無表情に呟いた。深いよ。落ちたら死ぬよ。あの頃、母は父によく殴られていた。私も母に時々殴られていた。私はあの時、ぽっかりと口を開けて獲物を待っているような谷底の暗闇を見て、怖いね、とは言えなかった。本当に怖かったから。母が。
あ。女はしゃがみ込んだ。男に殴られた脇腹のあたりがクッと痛む。あった。薄緑色のまだ固そうな蕾が、柔らかい葉に包まれている。女はそれを採った。振り返ると彩音が谷を見つめていた。女は娘を見て、急に愛おしい気持ちになった。
「彩ちゃん、あったよ。」
彩音は顔を輝かせて母親に駆け寄った。
「わあ!すごいすごい!ママありがとう!」
手を繋いで谷の淵へ歩き、暮れかかった空を仰いだ。もうすぐ陽が沈みはじめる。歪んだ太陽が、向こうの山の曇り空に、くすんだ茜色をにじませていた。
手を繋いだのは久しぶりだった。小さな手は少し冷えている。肩を抱いてやると彩音が顔をあげて嬉しそうに微笑んだ。
「ママ、ここ、深そうだね。」
少女の右上の奥歯の溝に、車の中で食べたミルキーがくっついている。母親に守られているという安心感から心持ち前のめりになって谷を覗き込みながら、奥歯を舌でなぞった。甘く優しい味が残っている。少女の肩を抱いていた女の手が、不意にその背を押した。
夕陽の歪んだ輪郭の一部が、もうすぐ向こうの山の稜線に触れようとしている。カタンカタン、カタンカタン、カタンカタン・・・遠く、急行電車の窓灯りが右端から夕刻を縫って過ぎてゆく。車窓にある幾つもの顔は、誰かの知っている顔によく似ているのかもしれない。各駅停車しか止まらないこの小さな村のありふれた風景の一角、小高い山の中腹を切り裂くように口をあけた深い谷の底に、一人の少女が湿った腐葉土にまみれて転がっている。
「ただいまぁ!お留守番ありがとねぇ!」
真希子は慌ただしく玄関のドアを開けた。夕飯の支度の途中で、生姜を切らしていたことに気づいた。今夜はパパの好物のイカの刺身だというのに、生姜がなければ始まらないではないか。のどかな村とはいえ、こんな時間にお兄ちゃんにちょっと自転車で行ってきてとは頼めない。真希子は息子たちに留守番を頼んで、スーパーまで車を飛ばしてきたのだ。
居間の方からゲームの大音量が聞こえてきて、健児の不満げな声が重なる。
「おにいちゃんズルイ!もう代わってってば!ねー!ねーってば!」
この春から健児は年長さん、裕太は3年生。3つ離れた兄に理不尽な意地悪をされて怒ってみたところで健児が敵うはずもない。サンダルを脱いで買い物袋をそっと置き、開けっ放しの居間のドアから中の様子を盗み見ると、健児が地団駄を踏みながら裕太の背中を叩いている。裕太はビクともせずに画面を見つめたままゲームに熱中している。画面ではウルトラマンとゼットンが戦っている。自分の誕生日に買ってもらったばかりのゲームを兄の裕太が独り占めしているのだから、健児が怒るのも無理はない。それに音量がいつもより相当大きい。普段は物わかりのいい素直なお兄ちゃんでも、親の見えないところでは弟に横暴な振る舞いをしたりするのだろうか。すぐに踏み込もうとする気持ちを抑えて、真希子は2人がどうするのか見てみようと思った。
「おれのなんだからな!ママがいないからってズルイぞ!返せ!」
裕太は服を引っぱられて揺すられようがお構いなしにゲームを続けている。真希子は不安になってきた。もうそろそろ限界ではなかろうか。
健児が不意にテーブルの方へ向かった。何かの紙をビリビリと破りはじめる。
「もういい!おにいちゃんなんかキライだ!こうしてやる!」
裕太が弾かれたように振り向き、驚いて立ち上がる。破られたのはプリントだろうか、見る間に顔が真っ赤になってゆく。
「なにすんだ!明日の宿題なんだぞ!弁償しろ!」
「おにいちゃんが悪いんだ!ざまあみろ!」
そのとたん、裕太が弟の横腹を思いっきり蹴り飛ばした。真希子は絶句した。思いもよらぬ息子の激しさを見て、気が動転してしまった。
「わあああああああああ!おにいちゃんのバカああああああああ!」
裕太は続けて手をあげようとしている。真希子は飛び出して健児に駆け寄った。蹴られた脇腹を押さえて涙でグチャグチャになっている。
「裕太!今あんた思いっきり蹴ったでしょ!」
「・・・やってない」
「嘘つきなさい!ママ見てたんだから!」
裕太は唇を噛みしめてうつむいている。
「なんで嘘つく!謝りなさい!裕太!」
両手をグッと握った裕太は、弟を憎々しげに見下ろして叫んだ。
「ケンジなんて死んじまえ!」
真希子は凍りついた。頭が真っ白になる。なんだかわからないうちにスタスタとTVの前に行き、テレビゲームのコードを力任せに引っこ抜いて居間の窓からゲーム機を外に投げ捨て、裕太の目の前に立ち、その頬を平手打ちした。
「もう一度言ってみなさい。」
手の平がジンとする。怒りが過ぎて自分でも驚くほど冷静な声が出た。叩かれたことが信じられない、というような顔で裕太が頬を押さえている。
「もう一度言ってみなさい裕太。」
裕太の二重の大きな目から涙がボロボロとこぼれ落ちた。真希子はそれを見ても怒りが収まらない自分を感じていた。弟を思いっきり蹴った時の容赦の無さが許せない。健児は張りつめた空気の中、痛みを忘れたように身体を起こして2人を見つめている。
「裕太!」「クソババア!」
叫びが一緒になった。ハッとして一瞬見つめ合い、気づいたら真希子は裕太を抱えて居間の窓から外へ投げ出していた。
「そんなにゲームがやりたいなら一晩中外でやってなさい!もう家に入ってこなくていい!」
真希子は窓をビシャッと閉めて鍵をかけた。カーテンを一気に引いてから玄関に走って、玄関の鍵も閉めた。頭の中には「死んじまえ!」と「クソババア!」がグルグル回っている。健児が息を詰めてぺたりと座り込んでいる。
裕太は投げ出されたそのままの格好で茫然としていた。裸足だった。目の前には自分と同じように投げ出されたゲーム機が転がっている。辺りは薄暗い。友達と遊んで帰ってきて、ママに言われて居間のテーブルで宿題をしながら、横目でゲームをやっている健児を忌々しい気持ちで見ていた。音が気になってなかなか集中できない。うるさいぞ、とそれでも控え目に言うと健児は振り向いてアッカンベーをしたんだ。ムカつく。
「やったー!ママ見て!バルタン倒したよ!」
ママは台所の手を止めて健児の頭を撫でに来た。スゴイねーケンジ!上手だねー!裕太はイライラして弟を睨みつけた。パパもママもいつも弟ばっかり可愛がっているように感じていた。ママが買い物に行った直後にゲームを奪って、それからずっと渡してやらなかった。口もきいてやらなかった。だっていつも健児ばっかり甘やかされて、健児ばっかり可愛がられて、ケンジばっかり、ケンジばっかり・・・。
左のほっぺたがジンジンしていた。悔しかった。裕太は袖で涙を拭って立ち上がり、ゲーム機を拾って裸足のまま歩いた。道路の脇の側溝に捨ててやろうと思ったのだ。家が見えなくなる手前でちょっと振り返って見てみた。玄関の灯りと窓のオレンジ色の灯りが暖かそうで、また涙が出そうになった。隣の家からはテレビの音と赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。どこからか、カレーの匂いが漂ってきた。かすかに醤油の焦げたような香ばしい匂いも混じっている。おなかすいたなぁ。すると腹がグウと鳴った。ケンジ腹痛かっただろうなぁ。さっき思いっきり蹴っ飛ばしてしまったことを後悔していた。謝ればよかったのだろうけど、悔しくて悔しくて、できなかった。おまけにクソババアと言ってしまった。これでもう完全に嫌われてしまった、と思った。もう家には帰れない。どうしよう。裕太は心細くなってきた。捨ててやろうと思ったゲーム機を見つめているうちに、また悲しくなってきた。どこに行けばいいんだろう。足が冷たい。
まるで何事もなかったかのように、切り立った谷の淵は、ただ静かに口を開けていた。その静寂の淵に能面の女がしゃがみ込んでいる。根元から5センチほども黒く伸びてしまっている赤茶けた髪を無造作に、というより乱雑に束ねている頭が、谷底を覗き込んでいる。谷の口には雑草やシダ類の葉が残光を拒むように生い茂っていていて、奥には闇が広がるばかりだ。どこ行った?どこに墜ちた?どこに消えた?女は狂ったように目を凝らした。暗い、暗い暗い暗い、暗くて暗くて怖い。女の背中に黒い静寂が張りついたかと思うと、とたんに足元からも恐怖が這い上がってくる。女は目を剥いて起きあがり、背後を見た。刻々と夕暮れが迫る。もうすぐ日没、辺りは闇に溶ける。女は、やにわに走って近くの木に抱きついた。何かに捕まらなければ今の私も消されてしまう。たった今、谷底に消えた少女は、子供の頃の私かもしれない。木肌に頬をつけて「ああ」と女は小さく声を出した。ああ、あああ、あああ。太い幹に背中をつけてそのまま座り込み、後ろ手で木を抱きしめる。まばたきするのが怖かった。だって、まばたきの間に少女は消えたのだ。無意識にまばたきするものかと目を見開き、耐えきれなくなると自力で目を思いっきり閉じてすぐ開いた。息が、息がうまくできない。吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて、そうだ、落ち着いて、吸って、吸って、吐いて、そう吸って、吐いて。そうそう。吸って、吸って、吐いて。何度か繰り返すうちに、いつの間にかそれがラマーズ法の呼吸になっていることに気がついた。ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ああ、少し、少し、ラクだ。ここは分娩台なんだと女は思った。そうだあの時、看護婦さんたちが私の味方になってくれた!そうそう上手、上手だよ、もう少し、もう少しだよがんばって!がんばって!がんばって!ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、嬉しかった、私あの時すごく嬉しかった、だって初めてだったから。誰かが私を励ましてくれるなんて。上手だよって、頑張ってって。フーッ、フーーーッ、いきんで、いきんで、いきんで!そう上手!そう!そう!
山の輪郭を溶かして夕闇が朽ち果ててゆく。カラスがアー、アー、と啼きながら渡っていった。女は静かに木の根元に抱かれていた。とりかえしのつかないことをしてしまった。とりかえしのつかないこと。とりかえしのつかない。あぁいつかこれと全く同じ思いをした時があった。あの時だ・・・彩音を産んだ時!女はこの感情の符合を見、生まれて初めて自分というものを理解した。何を考えているのかわからない奴だと罵られ続けているうちに、いつの間にか自分で自分がよくわからなくなってしまった。でも今だけはわかる。私はたった今、自分がわかる、という結果を産み出したのだ。あの少女を犠牲にして。子供の頃の自分を犠牲にして。女は大きく息を吐いた。
あの時、私は一人の人間をこの世に送り出してしまった。その存在を勝手に消し去ることなど出来ないのだと思って私は泣いた。死んだ方がマシとさえ思うほどの苦しみに半日のたうち回り、自分の身体が宇宙に飲み込まれていくような痛みの末に生まれたものは、一生私を縛りつけるであろう一人の人間だった。もうどこへも逃げられない。私は絶望の直中に放り出された。生まれたばかりの娘は、その血だらけの猿のような顔を一瞬見せた後に別室へ連れていかれ、私は腹を押され子宮の中をかき回され膣を縫われ、腹部に氷嚢を置かれたまま分娩室横の薄暗い控え室のストレッチャーの上にたった独り置き去りにされた。祝福は私にではなく、産まれ出でた新しい命に降り注いだのだった。
「あああ…あああ…あああ…」
私は阿呆のように声を出し続けた。誰か助けて。産む間際まで手を貸して助けてくれたように。初めて他人を信じて助けてもらえたというのに、子供を産んだ瞬間、私だけが置き去りにされた。やっぱり罠だったんだ。どうせこの先も誰も私を助けてくれやしないのだ。
私はそれまでいろんなことをギリギリどうにかでも乗り越えてきたのだ。独りだったから。面倒なことに一切目を背けてから。でもこれからはもうその方法が使えないのだ。逃げるにも何をするにも降ろすことのできない『子供』という重い十字架を背負ってしまったのだ。私がその存在を自分の手で消さない限り一生くっついて離れないものを、産み落としてしまった。
私は束縛の刑に処されたのだ。夫だけでも面倒だというのに、赤ん坊はいつもいつもいつもどんな時も私を縛り続けた。私の身体が赤ん坊の食べ物で、私の身体が赤ん坊の布団で、私の身体が赤ん坊の全世界。赤ん坊は私の休息を絶対に許さない生き物。それでも可愛いと感じる時があった。それは赤ん坊が寝ている時だけだ。寝ている間は愛らしいヌイグルミと一緒だから。泣かないし欲しがらないし、私がいようがいまいが息をしているのだから、私は自らの手を施さずに母親としての責務を果たしているという実感に浸ることができたのだ。私は赤ん坊が寝ている間だけ自由になれた。寝ている間に酒を飲みに行き、誰かとセックスし、思う存分パチンコをし、外食をしに出かけた。夫だった男はとっくの昔にいなくなった。いなくなってせいせいした。私を縛りつける人間がひとりいなくなってくれたというだけのこと。
いっそのこと赤ん坊のままならよかったのだ。子供は大きくなると要求を正確に言葉に出して、前よりもっと私を縛り始めた。赤の他人より始末が悪い。腹が減ったらその辺のものを適当に喰ってればいい。風呂になど入らなくても死にはしない。私がこうして生きてきたように。いつでも人が自分の言うことを無条件に受け入れてくれるなんてどうして思うのだろう。生意気な。だから子供は餓鬼と呼ばれるのだ。勝手に息をして勝手になんとか喰いつないで勝手に遊んで勝手に寝てくれれば私にだって子供を愛することができるはずだった。子供の寝顔は最高に可愛らしいのだから。友達なんていらないに決まっている。他人はいつでも自分の損得だけで生きているものなのだから、自分もそうやって自分の損得で生きていけばいいのだ。それをいちいち友達にいじめられたとか喋ってくれないとかグズグズ言っているから泣きを見るのだ。こっちから無視してやればいいのに。寂しくなったら適当に入り込んでいってその時だけの機嫌をとってやれば済む。簡単なことだ。使いっ走りになってやったり褒めてやったりしていれば他人はいくらか優しくしてくれるものなのだ。それでまた気まずくなったら離れればいい。どうせ一生関わる人間でもない。彩音は頭が悪い。きっと夫だったあのバカな男に性格が似ていたのだ。かわいそうな彩ちゃん。
遠く電車の音が聞こえる。カァ、カァ、とカラスの啼き声がする。カラス、なぜなくの、カラスは山に。かわいいななつの子があるからよ・・・ななつの子、七つの、七つの。女は愕然とする。7歳。かわいいかわいいとカラスはなくの。そうだ。可愛い7歳の子が待っている。彩音がいる。あの少女はやはり私だったのだ。放心していた女の目に生気が戻った。帰らなきゃ。女はスッと立ち上がり、少女が消えた谷を振り向きもせず歩き始めた。林道の脇に黒の軽自動車が止めてある。車に乗り込むとポケットから携帯を取り出して時間を確認し、電話をかけた。
「もしもしお母さん、私。そっちに彩ちゃん行ってない?そっか。いい。お友達のとこに聞いてみる。じゃあ。」
エンジンをかけてセブンスターに火をつける。ウインドーを少し下ろして鼻から煙を吐き出し、助手席を見た。彩ちゃんったら、こんな時間までどこ行ってるんだろう。探しに行かなきゃ。そうだ、そういえば宿題で『春を探しにいこう』っていうのがあるって言ってなかったか?女はジャージのポケットを探った。まだ蕾の、薄緑のフキノトウが1つ入っていた。
「ねえママ、おそと寒いんじゃないかな。」
健児が遠慮がちな声で冷蔵庫の陰から顔を覗かせた。真希子はキャベツを刻む手を止めて時計を見た。裕太を閉め出してから20分経っている。きっとメソメソと泣きながら玄関先にでも座り込んでいるだろう。母親としてやらなければならないことだったのだと自分に言い聞かせてはみたものの、真希子は心のどこかで裕太に手をあげてしまったことを後悔し始めてもいた。それでもやはり『死ね』と『クソババア』の二言は、あまりにもショックだった。
いつもならパパの帰りを待たずに3人で楽しく食卓を囲んでいる時間だ。健児もまた幼いながら兄の宿題のプリントを破ってしまったことを後悔しているのだろう、一人でおとなしくしていた。テレビは消したままだった。
「ぼく、おにいちゃんにあやまる。」
途中から涙声になった。ハッとして見ると、手にプリントを持っている。胸がつまった。セロハンテープで貼りつけてある。うまく張り合わされてはいないが、健児なりに一生懸命元通りにしようと努力していたのだ。真希子は小さな身体を抱きしめた。
「蹴られたとこ痛くない?」
話しかけた声が涙声になっていた。健児はしゃくり上げながら大きく何度もうなずく。
「待ってなさい。おにいちゃん中に入れてあげよう。」
エプロンの裾で目元を押さえながら玄関に向かった。ドアの覗き窓から外を見てみる。しかし外灯に照らされた玄関ポーチに裕太の姿はなかった。ドアを開けて呼んでみた。
「裕太?どこ?ごめんねママも悪かった。裕太!」
辺りはしーんとしている。
「裕太!ゆうた!出ておいで!ゆうた!」
家の周りを回ってみた。裕太はいない。玄関に戻ってみると、健児が心配して出て来ていた。
「おにいちゃんは?」
「ちょっとその辺見てくるね。」
「ぼくも行く!」
真希子はいったん家に入って急いでカーディガンを羽織った。ふと見ると、テレビの前に裕太の靴下が2つ丸まって脱ぎ捨ててある。裕太は裸足のままなのだ。真希子は激しく自分を責めた。二人の上着、靴、それにタオルを持って、健児に上着を着せて手を繋いだ。小さな手はとても温かい。
裕太は裸足のままトボトボと歩いていた。足が冷たい。こんな時間に友達の家に行くわけにもいかない。とりあえず近所の公園に行こう。公園ならコンクリート山の下にトンネンルがある。あそこにいれば、そのうちママも探しに来てくれるかもしれない。家を出てから少しすると高田彩音の家の前を通った。近所の人の話によると、彩音は時々、遅い時間だというのに一人で家の前で縄跳びをしていたり、公園にいることもあるという。何やら悪い噂があって、母親が家に男の人を入れている時は、彩音が外へ追い出されていると聞いたことがあった。彩音は、この春1年生になったばかりだ。集団登校で毎朝一緒に歩くが、あまり親しく話したことはない。こういうのはあまりよくないので誰にも言ったことはないが、彩音は周りからあまり好かれてはいないような感じがした。でもそのわりに妙に人懐こいところもあって、たまにひょっこりと裕太の家に遊びに来るのだった。そういう時は年上の自分より、弟と一緒に遊んでいる。裕太の家はハムスターを飼っているので、彩音は決して自分から見せてとは言わないが、それを見に来るというのが目的のようだった。なぜかいつも玄関ではなくて窓から覗いては、こちらが先に気づいて声をかけるのを待っているところも、なんとなく好きになれなかった。それと、これも誰にも言ったことはないけれど、いつだったかハムスターを触らせている時、ハムスターの足をつねっていたことがあったのだ。あれは間違いなく、つねっていたと思う。肌色の小さな足先を持つ彩音の爪の先が白くなっているのが見えたから。ちょっと驚いていると、彩音はハッとした顔で裕太を見上げてなぜかニッと笑ったのだ。あれは気持ち悪かった。どうしてかこっちが気まずくなって、痛くするなよと言うと、すぐにウンと頷いてやめたけど。
高田彩音の家には電気がついていなかった。車もなかった。出かけているのかな。もしこんな時に彩音が一人で外にいたら、ちょっとは気晴らしに話しかけるぐらいできたのにな、ついそう思ってしまった。本当のことを言えば、彩音の家に上がらせてもらうことを期待していたのかもしれなかった。彩音の家には父親がいないからというのもあった。今ゲーム機を持っているからというのも。彩音の家にもゲームはあるらしいが、ママのだから触らせてもらえないと言っていた。裕太は実はそんなふうに考えていた自分が情けなくなった。
いないのならしょうがない。というより、いなくてよかったのだ。裕太はまた歩き始めた。公園に行こう。やっと腹が据わったような気がした。そのうちきっとママが探しに来てくれて、心配したよ、ごめんね、と言ってくれる。そしたら僕もちゃんと謝ろう。裕太は少しだけ元気になってきた自分に安心した。公園まではあと5分くらいだ。ちょっと心細いけど、少しの辛抱だ。そう自分を励まして歩いていると、コンクリート山が見えてきた。
女は小さな商店街に一軒だけあるコンビニに立ち寄った。
「うちの彩音、今日ここに来なかった?」
レジの男が顔を上げたが、女を見てハァ?というような顔をした。彩音はよく一人でここに来るので店員に覚えられている。買い物するでもなく長い時間いることもあるので苦情を言われたこともあったが、そんなことをいちいち気にしていたらこの小さな村では生きていけない。まあそれにもう苦情を言われることはない。なぜなら先月の夜中に彩音を母親に預けてフラリと町のスナックに出かけた時、ここの店長にバッタリ出くわし、酔った勢いもあって「いつも迷惑かけてスミマセンうち父親がいないものですから子供にいろいろと淋しい思いもさせてるんです」と、ちょっとコナをかけたら簡単に店長がノッてきて、そのまま家に連れてきて関係を持ったからだ。目が覚めたらもう店長は消えていたが、それ以来、徹底的に女を避けている。気の小さい男だ。
「あぁえっと、来てないと思いますけど。」
バイトの男は素っ気なく答えただけだった。それでもしつこく、アンタ今日何時から仕事に来てるの?と聞くと、3時からずっといるという。それなら間違いないか。やっぱり彩音は来ていないのだ。女は肉まん2つとレトルトカレーの甘口と辛口を買った。もしかしたら彩音は先に帰っているかもしれない。ご飯だけは炊飯器に残っているはずだが、おかずが何もない。
車に乗り込んで、あちこち周りを見ながら家に向かった。最後の曲がり角の公園の前に来た時、男の子がひとりで歩いているのが見えた。あれはたしか、裕太君だ。どうしたんだろうこんな時間に。女は車を止めて、ウインドウを開けた。
「裕太君?」
男の子がうなずいた。女は道端に車を止めて降りた。裕太は裸足で、なぜかゲーム機を持っていた。
「どうしたの?裸足で。あ、私わかるよね、彩音のママ」
裕太は困ったような顔をして、家で怒られて閉め出されたことをボソリと呟いた。実際、裕太は当惑していた。恥ずかしかったのもあるが、彩音の母親が喋るとやけにイヤな臭い匂いがしたので困った。煙草の匂いと、それになんだかわからない口臭のようなものが混ざっていて、具合が悪くなりそうだった。
「裕太君、今日うちの彩ちゃん見なかった?」
「朝しか見てません。」
「ほんとに?」
「はい。」
裕太はイヤな感じがした。嘘なんかつくわけないのに。それになんだか妙に迫ってくるので、ちょっと後退った。
「どこに行ったんんだろう・・・」
知らないよそんなこと。
「じゃあね。ちゃんと家に帰りなよ。」
彩音の母親はそう言い残すと小走りで車に戻り、車はあっと言う間に走り去った。裕太は呆気にとられていた。話しかけられて驚いたしイヤな感じもしたけど、車に乗せて家まで送ってくれることになるのだろうと少し思っていた。なんだか普通じゃないような気がする。やっぱりおかしい。それに比べて僕のママはキレイだしちゃんとしてるし・・・そのママにクソババアなんて言っちゃったんだっけ。また悲しくなった。ママ、ケンジ、ごめんあんなこと言っちゃって。また涙が溢れてきそうになった。悲しい気持ちでいっぱいになった。公園には常夜灯がついていて、充分明るかった。その灯りに励まされて、裕太はコンクリート山のトンネルに向かっていった。ママはきっとすぐに迎えにきてくれる。そう信じた。
「ゆうたー!」「おにいちゃーん!」
真希子は半ば焦ってた。もし裕太の身に何かあったら・・・そう思うと全身から汗が噴き出してきそうだった。
「ママ、おにいちゃんさ、きっと公園にいるよ。」
健児が急に立ち止まって言った。絶対、公園にいるよ。コンクリート山のトンネルにいる。
「健児が言うんだもん、そうだね、きっといるね。」
真希子は泣きながら答えた。
「ママ泣かなくてもいいから!おにいちゃん絶対いるから!」
「うん。公園に行こう。」
小さくても男の子なんだな、と真希子は心強く感じた。
その時、前方から車が来て、真希子たちの右の家の前に滑り込んだ。高田さんだ。黒の軽自動車は中途半端に斜めに止まり、中から彩音の母親が降りてきた。
「あ、宮下さん!」
「こんばんは。」
「あの、うちの彩音、遊びに行きませんでした?」
「え?あ、いいえ、今日は来てませんけど・・・」
「私、夕方ちょっとだけ寝てしまって、起きたら彩音がいなくて、今までずっと車で探してたんです。まだ帰ってきてないみたい。家真っ暗だし。」
「そうなんですか?他のお友達のところに連絡されました?」
「それがえっと、連絡網の紙なくしちゃったんで。」
「じゃあ学校に問い合わせて彩音ちゃんのクラスの連絡網をFAXで家に送ってもらいましょうか?まだ誰か学校にいると思いますし。」
「・・・」
「あとで届けにきますから。あの、実はうちの裕太もちょっと見えなくて・・・途中で裕太見かけませんでした?」
「え!じゃあ裕太君と彩音、もしかして一緒にいるんじゃないですか?」
「いえ、30分ほど前まで家にいましたから、一緒じゃないと思いますが。」
「なんでそんなことわかるんですか!もしかしたらってこともあるかもしれないじゃないですか!」
真希子はその剣幕に驚いた。だがこっちも急いでいるのだ。公園に行かなくては。
「とにかく裕太を探してから、お宅に連絡網を届けますから。」
不満げな彩音の母親を残して、真希子と健児は走った。
部屋の電気をつけた。乱雑に散らかった部屋が照らし出される。男が暴れて滅茶苦茶にしていったことを思い出した。まだ出しっぱなしのコタツの周りがひどい。カップラーメンの殻やカップ、雑誌、ドライヤー、化粧品、落書き帳、色紙・・・あらゆる物が散らかっている。それに裏表ひっくり返ったままのTシャツ、乾いたあとの洗濯物の山、口の開いたポテトチップスの袋やベビーラーメンのかけら、ラベルのない幾つものビデオテープ・・・疲れた。片付ける気力もない。女はコタツに足を入れた。暖かい。スイッチを消し忘れていてよかった。コンビニの袋から肉まんを一つ取り出して夢中で食べた。転がっていたペットボトルのぬるいウーロン茶をゴクゴク音を立てて飲み、もう一つ食べようとして女はふと動きを止めた。彩音の分。その時、携帯が鳴った。女は能面の顔で携帯を開いた。
「ああ。今あちこちかけてるとこだから。え。来なくていい。つか来んな。忙しいから切る。」
女の母親からだった。携帯を閉じて部屋の隅に投げ、そのまま倒れ込む。コタツってなんて暖かいんだろう。コタツが好き。この世で一番好き。バカ親より大好き。女は伸びをした。脇腹が痛い。服を捲ってみると内出血していて少し腫れている。肉まんとウーロン茶をいきなり流し込んだ腹がキュルキュルと鳴った。むくり、と女は起きあがった。彩音の分の肉まんを手にとって、じっと見つめる。
「・・・帰ってくるわけねーべ。」
女は大きく口を開け、その半分ほどを一度に囓りとった。
「いた!おにいちゃん!」
ケンジだ!裕太はトンネルから這い出た。後ろでママがしゃがみ込んでいる。
「おにいちゃん、ごめんね、寒かった?」
「ケンジ、ごめんな、おなか大丈夫か?」
2人が真希子に走り寄った。真希子はへたり込んだまま裕太と健児を抱きしめた。
「ごめんね、ごめんね、足冷たかったでしょ、ケガしてない?」
「ママ、ごめんなさい、ごめんなさい。」
真希子は泣きながら裕太の足をタオルで拭いてやって、靴を履かせた。公園の前に一台の車が止まり、クラクションが短く鳴った。
「あ!パパだ!パパ帰ってきた!」
健児が飛び跳ねながら笑顔で叫んだ。
いつもより遅い夕食。家族4人の食卓は賑やかだ。
「なんかよくわからんけど、とにかく裕太は大変だったらしいな。」
パパがイカの刺身にたっぷりと生姜のすり下ろしをつけている。
「健児が言った通り裕太が公園にいたんだもの、もうホッとして力が抜けちゃったわ。」
子供たちはモノも言わずにメンチカツにかぶりついている。相当お腹がすいたのだろう。その様子を見て夫婦は笑い合った。
「それにしても彩音ちゃん帰ってきたかしら。」
真希子は壁の時計を見た。もうすぐ8時だ。パパの車でみんなで帰って来てからすぐに学校に電話をかけて1年2組の連絡網をFAXしてもらい、彩音の家に走った。チャイムを何度押しても彩音の母親が出てこないので、ドアを開けて玄関の乱雑さに少なからず驚きながら「高田さん、高田さん、」と呼んでみた。それでも出てこないので、戸惑いながらも部屋に上がってみて・・・思わず息を呑んだ。足の踏み場もないほど散らかっている。その真ん中のコタツに足を突っ込んだまま、彩音の母親は口を開けて眠りこけていた。声をかけると母親は飛び上がるほど驚いて、疲れてしまって、とかなんとか言い訳をした。電話するのを手伝おうかと申し出てみたが、家の電話は止められていると言う。とにかくFAXを渡して帰ってきたが、彩音ちゃんは無事なのだろうか。あまりいい噂は聞いてなかったけれど、あれほど家の中が酷い状態だとは思わなかった。真希子は時々遊びに来る彩音にあまり良い印象を持っていなかったが、母親があれじゃ無理もないだろうと同情する気持ちにもなり、彩音の汚れた袖口や襟元や毛玉だらけのトレーナーや食べ物のシミがついたままのスカート、脂っぽい髪の毛などを思い出していた。
「そういえば僕、公園に行く途中で彩音ちゃんのお母さんに会ったよ。」
裕太の言葉に真希子は驚いた。裕太を見かけなかったかと聞いた時、あの母親はそんなことは言ってなかったのだから。
「裕太、それホントなの?」
「うん。途中っていうか公園の前だけど、車でバーッと来て、彩ちゃん見なかった?って。それで朝しか見てないって言ったら、早く家に帰りなさいって言って車に乗って行っちゃた。僕さ、ちょっと気持ち悪かった。」
真希子は思わずゾッとした。以前、彩音に家のことを尋ねた時の返事に首をかしげたことを思い出した。自分の家の中がお城のようになっているとか、ピアノがあるとか、ドレスを買ってもらったなどと無邪気に微笑みながら答えていたのだ。
「おい、彩音ちゃんのお母さん、裕太を見てないって言ったのか?」
パパが顔を曇らせた。
「見てないどころか、裕太もいなくなって、って言ったら、それじゃ彩音と一緒なんじゃないですか?って。まるで裕太が彩音ちゃんを連れ出したみたいな言い方で怒ったのよ。」
「なんかおかしいな。」
「ねえパパ、ちょっと様子、見て来てくれない?」
「そうだな。電話番号も知らないんだから見てくるしかないか。」
パパは急いで出て行くと、あっという間にドタドタと帰ってきて叫んだ。
「おい!あそこんちの前にパトカー止まってたぞ!」
家の周りのどこを探しても『小さな春』はどこにもなかった。
生活の時間に『身のまわりの小さな春をさがしてみよう』という宿題が出された。実際に春の証拠を誰か明日持ってきてくれる人!と先生が言った瞬間、彩音も手をあげてしまった。これなら簡単にできると彩音は思った。普段の国語や算数の宿題はやったりやらなかったりだけど、何か見つけて持ってくればみんなに見直されるかもしれない。先生にも褒られてみたい。帰りの会が終わると、手をあげた子はそれぞれ仲の良い同士で放課後一緒に探しに行く約束をしている様子だったが、彩音に声をかけてくれる子は誰もいなかった。
「おまえどうすんだよ。持ってこなきゃ嘘つきだからな!」
いつも意地悪してくる拓也が大声で言った。他の子は遠巻きに見ているだけだ。
「ママと一緒にいーこおっと!」
彩音は誰にともなく、独り言としては大きすぎる声でそう言い、いそいで教室を出た。後ろから拓也の声と女の子たちの嘲笑う声が追いかけてきた。
「おまえのかーちゃんパチンコ屋!おまえのかーちゃんプータロー!」
帰ってみると家の前にまたあの男の人の車があった。戸を開ける前から男の人の怒鳴る声とママの怒鳴る声がしたので、玄関先にランドセルをそっと置いて一人で外に出た。その辺を探してみたがこれといって収穫はなく、公園の方に行こうとしたらクラスの女の子が何人もいて、彩音はいそいで踵を返した。健児君のところにも行ってみようかと思ったけど、ハムスターと遊んでいたらきっとすぐ夕方になってしまいそうなので、やっぱりやめた。河原の方に向かってみたが、今度は拓也たちの姿があった。彩音は慌てて走り去った。
家に戻ると男の人の車はなかった。部屋の中はメチャメチャに荒れていて、ママが泣いていた。彩音は黙ってしばらく様子を伺ってからママに言ってみようと思った。
恐る恐る宿題のことを告げると、怒られるかと思ったけど、ママは「車に乗りな。」と言った。彩香がウンと頷いて上着を着ると、ポケットにミルキーが1つ入っていた。この前、健児君のママにもらったやつの残りだ。
運転席の母親の横顔を、彩音は盗み見た。不機嫌そうに煙草をくわえてハンドルを握っている。どこに連れていってくれるんだろう。さっき彩音がラジオのスイッチを入れたら女の人の歌がかかっていて、それが「あいしてる~あいしてる~」と歌っていたけど、ママは無言でラジオを消してしまった。きっとあの男の人とケンカして悲しいんだろう。かわいそう。しばらく走ると、ママが始めて口をきいた。
「あとちょっとで着くから。ママ子供の頃あそこの山の谷のところでフキノトウとったから。」
「フキノトウって?」
「いいからそれ持っていきな。」
なんだかわからないけど、きっとそんなの誰も持ってこないような気がする。すごい!きっとみんなビックリする!先生も褒めてくれる!彩音は嬉しくなった。そうだ、ポケットにミルキーが入ってたんだった。彩音はそれを口に入れた。甘く優しい味が広がった。そういえばママも子供の時に食べたって言ってたな。ミルキーはママの味、っていう歌があったって。なんだかウキウキしてママの横顔を見たが、相変わらず無表情だった。彩音は黙って口の中のミルキーを転がした。
「ママ、あった?」
彩音の心配そうな声。たしかこの辺りにあったはずだ。女は一応、足元をあちこち探してみた。あの日は自分の母がこうやって下を見ていた。あの時、母は本当に探す気があったのだろうか。もしかして偶然見つけただけではないか。足元を見ているうちにその考えが確信に変わってきた。私はあの時、谷を見下ろしてこう聞いたんだった。
「お母さん、ここ、深そうだね。」
母は無表情に呟いた。深いよ。落ちたら死ぬよ。あの頃、母は父によく殴られていた。私も母に時々殴られていた。私はあの時、ぽっかりと口を開けて獲物を待っているような谷底の暗闇を見て、怖いね、とは言えなかった。本当に怖かったから。母が。
あ。女はしゃがみ込んだ。男に殴られた脇腹のあたりがクッと痛む。あった。薄緑色のまだ固そうな蕾が、柔らかい葉に包まれている。女はそれを採った。振り返ると彩音が谷を見つめていた。女は娘を見て、急に愛おしい気持ちになった。
「彩ちゃん、あったよ。」
彩音は顔を輝かせて母親に駆け寄った。
「わあ!すごいすごい!ママありがとう!」
手を繋いで谷の淵へ歩き、暮れかかった空を仰いだ。もうすぐ陽が沈みはじめる。歪んだ太陽が、向こうの山の曇り空に、くすんだ茜色をにじませていた。
手を繋いだのは久しぶりだった。小さな手は少し冷えている。肩を抱いてやると彩音が顔をあげて嬉しそうに微笑んだ。
「ママ、ここ、深そうだね。」
少女の右上の奥歯の溝に、車の中で食べたミルキーがくっついている。母親に守られているという安心感から心持ち前のめりになって谷を覗き込みながら、奥歯を舌でなぞった。甘く優しい味が残っている。少女の肩を抱いていた女の手が、不意にその背を押した。
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