2007/11/06

白詰草

【5がつ10にち げつようび はれ】 
きょう、がっこうからかえてきたら、ゆきちゃんがあそびにきました。
ゆきちゃんというのわ、このあいだおとなりのおとなりにひっこしてきたおんなのこです。
ゆきちゃんが「よつばのクローバーをさがしにいこう」といったので、いっしよにいきました。
だんちのまえのこうえんのよこの、あきちにいきました。
いっしようけんめいさがしたけど、なかったのでがっくりでした。
ママが5じまでにかえてきなさいといったので、かえりました。

【5がつ11にち かようび はれ】
きょうもゆきちゃんがあそびにきました。
きょうはよつばがみつかるかもしれないよ、とゆきちゃんがいったので、またいきました。いっしようけんめいさがしました。
とちうで、けむしがでてきたので、きもちわるくて、かえろうと、ゆきちゃんにいったら、ゆきちゃんがおこりました。
みゆちゃんしやわせになれなくてもいいのと、おこった。
わたしわびっくりした。

【5がつ12にち すいようび くもりのちあめ】
きょうもゆきちゃんがきました。
ママがみゆ、おねえちゃんがおともだちになてくれてよかったわね、といってわらいました。
おうちであそぼうとゆきちゃんにいったら、ゆきちゃんがわたしの手をつねりました。
つよくつねった。
わたしわこわかったので、げんかんのどあお、しめました。
そしたらゆきちゃんの手お、はさんでしまった。
ゆきちゃんがないたので、ママにおこられました。
みゆちゃんいじわると、ゆきちゃんがおおきいこえでいった。

【5がつ13にち もくようび あめ】
あめふりでおそとにいけないから、まどからおそとみました。
あきちでゆきちゃんみたいなひとがみえました。
きっとよつばのクローバーをさがしているみたいでした。
あめがいっぱいふっているのに、ずっとずっと、おようふくのままさがしているみたいでした。
ゆきちゃんわしやわせになるように、あめふりでもがんばっているからすごいです。

【5がつ14にち きんようび あめ】
ママがおかいものにいってくるからすぐかえてくるから、みゆおるすばんしてねといいました。
げんかんのかぎあけないでねといいました。
ママのつくたホットケーキおたべて、おるすばんしました。
そしたらインタホンがなって、みたらゆきちゃんだった。
わたしわ、おるすばんだから、でませんでした。
ずっとずっとピンポンなってうるさかったです。
ママがかえてきて、「おるすばんだいじようぶだったのと、」いわれて「だいじようぶ。みゆえらい」?といったらママがみゆえらいね、といってくれました。
うれしかったです。

【5がつ17にち げつようび はれ】
きのうからかぜがひいてがっこうおやすみです。
ママがパートにいって、ひとりでねていたらインタホンがなりました。
ゆきちゃんだった。ねていたら、しばらくしたら、しずかになりました。
しんぶんいれにガタンとおとがしたので、みました。
かみがはいていた。
みゆのバカとかいてありました。

【5がつ18にち かようび はれ】
きょうはかぜがなおたばっかりだから、がっこうがつかれました。
かえるとき、おうちにかえるまえに、すこしあきちにいきました。
わたしわほんとわ、よつばさがしより、しろつめくさのお花のくびかざりをつくるのがだいすきです。
ママにつくってあげてかえろうかなとおもいました。
ながくあんで、わっかにするとき、ゆきちゃんがきました。
わたしのくびかざりをとりました。
おはなをぜんぶとった。とってから「はいみゆちゃん。」とかえした。
わたしがないたらゆきちゃんわ、わらっていました。

【5がつ19にち すいようび はれ】
かえるときあきちにゆきちゃんがいました。
わたしわみつからないようにきおつけて、おうちにかえりました。

【5がつ20にち もくようび あめ】
あめふりだから、まどからおそとみてました。
またあめなのにゆきちゃんがいました。
あかいくるまがきて、めがねかけて、あたまがはげたおじさんがきて、ゆきちゃんがすぐくるまにのりました。

【5がつ21にち きんようび はれ】
きょうはだんちに人がいっぱいいました。
でもゆきちゃんわいなかった。わたしわあんしんしました。
わたしわひとりで、くびかざりお、いっぱいいっぱいつくりました。
すごくさいこうにたのしかったです。
ママとパパに、たくさんずつ、くびにかけてあげました。
とてもうれしそうでした。
きょうは、いままででいちばん、たのしい日だなあとおもいました。


【5がつ24にち げつようび はれ】
パパとママがおはなししています。みゆひとりでこうえんとあきちにいたらだめよ。
ゆうかいさつじん、と、テレビでいていました。
もくげきしゃがいません。じようほーおまちしております。
ゆきちゃんわ、よつばのクローバーがさがせなかったから、しやわせになれなかったのかな。
わたしみたいに、しろつめくさのくびかざりつくったら、パパもママもよろこんで、しやわせになれたのに。
ゆきちゃんのバカ。


[2004/5]

2007/11/04

完全なる羽化

 カサリ。乾いた音をたてて、薄茶色の殻の背中を割る。今夜僕は新しい僕に生まれ変わろうとしている。反りかえり反りかえり、全力を振り絞って上半身を反り返らせ、僕は大きく息を吸い込んだ。スウウ。薄緑の葉脈のような線が走る羽はまだひしゃげているし、ふるふると震える生っ白い手足は頼りない。でも薄い膜に覆われてボンヤリとしか見えなかった視界は、まるで霧が晴れるかのように澄みきってゆく。見える見える、これでやっと全てが透明になるんだ、僕は大きく息を吐いてみた。フウウ。一度大きく伸びをしてから武者震いをし、少し離れた場所まで歩み出す。そこから僕の脱いだ殻を眺めてみると、なんとも歪(いびつ)な怪獣のようだ。振りかえり振りかえり、言葉さえ持ち得なかった醜いだけの姿に、今夜こそ別れを告げねばならない。

 
 身体が硬くなるまでの4時間、二度と戻ることの出来ない穴蔵のことを思い出していた。どこまでも暗く孤独な穴の奥底で僕は生きてきた。しかし思い返すとそこはヌクヌクとした居心地の良い羊水の直中であったのかもしれない。誰にも届かぬ呟きの糸を紡ぎ、声にならない言葉の糸に感情の色を染めつけながら、誰にも邪魔されない生暖かい場所で僕にとっての大切な何かを育んでいたのだ。しかし、僕はもう二度と、そこに戻ることができない。
 身体のあちこちがキシキシと鳴る。くしゅくしゅと縮んだ羽が次第に形を整え色濃くなっていく。ゆっくりと指を広げてみると新たな細胞のひとつひとつが産声をあげた。握りしめてみると爪が掌の肉をえぐるほどに力強い。滑らかな腹を撫でてみる。思ったよりも遙かに硬く引き締まった感触に僕は歓喜する。
 そろそろ時間が来たか。僕は僕の抜け殻をもう一度懐かしく見つめた。愛おしい愛おしい僕の抜け殻。僕を優しく包んでくれていた鎧。パックリ割れた背中からは白い糸のようなものが出ている。僕が紡ぎ続けていた魂の糸。一体おまえは、いや僕は、何でできていたのだろう。

 
 もう行かなくちゃ。長いこと閉めきっていた埃っぽい匂いのするカーテンを開け放とう。ああ、なんて美しい朝焼け!僕は施錠を解き、窓を一気に開けた。新鮮な空気が優しく頬を撫でる。神々しいほどの朝だ。僕の旅立ちを祝福してくれている。千年に一度の朝だ。
 僕は今一度、大きく身体を伸ばしてみた。腕も脚も羽も、髪の毛の一本一本までもが、どこまでも果てしなく伸びてゆくような気がする。僕の願うこと全てが今すぐ叶えられる気がする。この世界全てが僕の手中にあるような気がする。
 さあ本当にもう行かなくちゃ。僕には生まれてきた意味があり目的がある。それを遂行するために長い時間を経て成虫になったのだから。そうだ。部屋を出る前に鳴いてみよう。腹に力を込めてみる。

       「ジジジジィィィ~~~」

 僕は部屋の隅に置いてあった金属バットを手にしてスイングしてみた。もう少し。もう少しだけ力が欲しい。そうだ。僕は僕の抜け殻を囓ってみた。カリ。カリカリ。カリカリカリ。ガリガリガリガリガリガリ。バリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリ。全身に力が漲ってゆく。毛細血管や神経の隅々までもが一斉に息を吹き返す。頭のてっぺんから爪先まで物凄いスピードで封じ込めていたものが駆け抜けてゆく。これだ。これこそが俺にとっての正しい生だったのだ。この溢れんばかりのエネルギーこそが生きることそのもの全てだったのだ。


 俺は神に再び与えられた短い命を迷い無く生き、そして必ず全うするだろう。初めてだ。生まれて初めてだ。こんなにも明確な輪郭をもって命の価値を実感するのは。俺は再び金属バットを掴んで力強くスイングしてみる。ブン!と唸りをあげてバットが空を斬った。

 
 何年もの間、たった15cmしか開けたことのなかった部屋のドア。そのドアを少年は内側から思いっきり蹴破った。そしてバットを握り直し、まだ寝ているだろう両親の寝室へと向かって、鮮やかに羽ばたいた。


[2006/8]

2007/11/02

6&9

 「ルコちゃん、ルコちゃん、」
ん…あ…呼んでる。
「ルコちゃん、ねぇルコちゃん、トイレ行きたい」
うん…はい…いま起きる。壁の時計を見るとまだ4時半。体調が良いからって調子に乗ってお酒飲んだからなぁ。でも久しぶりに楽しく飲んだんだから、まぁいいや。アタシは大きく身体を伸ばして手をグーパーグーパーさせて頭を左右に振って首の骨をグギグギいわせてからヌクヌクした布団を思い切って跳ね飛ばした。
「はい、起き上がろうね、んんん、」
布団を敷いて寝ているアタシの左側のパラマウントベッドの上半分をグイイインと斜めに起こしてから、シンさんの上半身に背中をくっつけて左腕を回してもらって、オンブする要領でそっとシンさんを起こして畳に足をつかせてあげた。あとはシンさんがどうにかゆっくり歩いてトイレに向かう。
「どう?間に合った?」
「おう。間に合った。」
1980円の電気ストーブを一晩中つけてるけど、それでも今夜は底冷えがするようで、アタシはドアの前で腕を組んで足踏みしつつシンさんを待った。ジョジョ…ジョボジョボ…ジョ…ジョジョ…おお出てる出てる。うまいこと出てるな。シンさんのオシッコの音を聞きながらアタシは嬉しくなる。それから一緒に寝室に戻り、またオンブの姿勢になって寝かせようとしたら、シンさんが言った。
「ルコちゃん悪い、前、ちょっと濡れちゃった。」
「あ、ホントだ、着替えようか。」
タンスから洗い上がったのを出してきてから屈んでパジャマのズボンとパンツを脱がせてあげて、履き替えさせようとしたら、シンさんが足を上げない。
「寒いから早く履きかえようね」
そう言ってシンさんを見上げたら、シンさんが静かな目でアタシを見下ろしていた。
「ルコちゃん、ちょっとしゃぶってくれないかなあ」
あはは、シンさん、いたずら小僧みたいな顔をしている。
「いいよ、座る?」
左手をついて、シンさんがヨッコラショ、とベッドに座った。
「寒くない?」
「大丈夫」
アタシは、すっかり痩せてしまったシンさんの足の間に跪いて、シンさんの先っちょを少し舐めた。
「しょっぱい」
「あ、ごめんごめん」
「いいよ。血圧上がったからちょうどよかったよ」
低血圧なアタシは朝がツライ。シンさんは笑ってくれた。よかった。

 静かな夜だなぁとか夜じゃないなもう朝かとか思いながら、アタシは丁寧にシンさんのを舐めたり含んだり力を込めたり抜いたりした。シンさんは不自由に震える右手でアタシの頭を撫でたり耳を触ったりしてくれた。
「ああ…気持ちいいなあ…」
「キモチイイ?もっと強くしようか?」
「いやこのままでいいよ、ルコちゃん、ずっとくわえててよ」
いいよ。ずっとしてあげるよ。足が寒くないかと思ってアタシはシンさんの両足を腿のあたりから下へゆっくりさすってあげると爪先や踵がやっぱり冷たい。
「シンさん、ベッドに横になってしようよ、足冷え切っちゃうよ」

 シンさんを寝かせて毛布をかけてベッドをフラットにしてからアタシも毛布に潜った。先に足を擦ってあげて、シンさんの足が少し温かくなるまでの間、ふとアタシはシンさんに話しかけた。
「ねえシンさん、アタシ時々独りでする時さ、シンさんと寝た時のこと思い出してやるんだよ」
「・・・・・・」
「寝ちゃった?」
「・・・・・・」
「寝ちゃったの?」
するとシンさんの低い声がまじめに言った。
「ルコちゃん」
「寝ちゃったかと思った」
「ルコちゃんのも舐めてあげるよ」

 何度かシンさんのが少しイイ感じになりかけて、アタシはそのたびにアタシの身体の中に入れてあげようとしたけど、やっぱり無理だった。どこからか救急車のサイレンが聞こえてくる。あぁ遠い地球から聞こえてくるなぁ、って思った。アタシは何度かちゃんとイッた。シンさんがあんまり一生懸命してくれるからアタシはなんだか切なくなった。だからシンさんがイクまでは時間がかかっても続けてあげようと思った。
「ルコちゃん」
「・・・・・・ん?・・・・・・」
「ルコちゃん、他にオトコつくってもいいんだぞ、いいんだからな」

シンさんはアタシをなめながら、静かに呟くように言った。アタシはシンさんをくわえながら、泣いて頭を左右に振った。


[2005/1]

廃墟の男

 書き留めておかなくては。すぐにでもそうしなければ一日中その風景に囚われ、その世界に閉じこめられてしまいそうな予感がしたのだ。なに、たかが朝方にみた夢だ。夢の中の記憶に過ぎないのだが。
 粒子の粗い、カタカタと背後で微かに音が鳴っているような、8mmフィルムの映像。私は誰かを訪ねて知らない土地を彷徨っている。砂丘だ。赤茶けた砂が延々と続いている。赤茶けているというのもおそらく単なる私の観念であって、私は実際に砂丘というものを見たことがなく、夢の中では全体がぼんやりと薄い膜がかかったような掴みどころのない、心細く頼りないばかりの場所であり、ただそこが砂丘だと思えば少しは気がラクだったからそう思っただけに過ぎない。
 あてどもなく歩き続けているうちに彼方に何か塔の先端のようなものが見え始め、やがてその下に“楼閣”といった風情の輪郭をもって建物の全体像が現れてきた。私は行き先を確かに捉えたことに安堵しながら、砂上を歩く重い足取りを休めて、その建物を眺めた。まるで逆光に遮られているかのように目を細めて額に手をあて、小高い位置にあるその建物を凝視する。あれは…モン・サン・ミッシェル…そう、そんな雰囲気。海と砂の中に突如として現れる、孤高の僧院のようだ、と私はぼんやりと思っている。思いながらも、そんなことをいつ知ったのだろうかとも思い、しかしすぐに別の私が「これは夢だから」と冷静に呟いた。
 不安定な意識がアメーバのように増殖してパニックを起こすことを回避するために、夢の中の自分に「夢だから大丈夫」と言い聞かせることはよくあることだ。そしてそのように思うことによって歩く気力をなんとか取り戻そうとした。何か動いている。ヒラヒラと何かが。手を振っているのか。いや誰かがこちらに向かって、ゆるりと手招きしている。


 ああ、あそこだ。再び歩き始める。私は何故か、前より速度を速めたと相手に気づかれぬように、努めて冷静な足運びを心がけている。少しほっとして弾んでいる心の動きを悟られたくないと思っている。というより不安を感じていたことを知られてはならないと思っているのだった。砂に足をとられているこの緩慢な歩き方を無様であるとも思われたくない。慣れたふうに、顔色も変えず、焦りを見せずに。そう、そうだ、慎重に。時折その誰かを確認しながら楼閣を目指すが、揺らめく影はそのうち奥に引っ込んでしまったようだ。

 失礼な。呼びつけたのなら見守っているべきじゃないか。呼びつけた?自分はその人物に呼びつけられたのかこんな場所に?そうなのか?
 一体今は何時頃なのか、夕暮れ時のような気もするし朝方のような気もする、白夜であるのかもしれない。時のない世界。一瞬そんな思いに囚われ慌てて嗤い飛ばす。嵌められてなるものか。

 近づいていくうちに、その建物が思ったよりかなり小さいだけでなく、寂れきったアパート、いや長屋といった印象の建造物の跡地であることがわかってきた。最初に見えた塔などは、荘厳なイメージとは程遠い、痩せこけた給水塔の化石のようだ。モン・サン・ミッシェルだなんて思い浮かべた自分を嘲笑う。勝手にいいように想像して勝手に騙されたと思い込む単なる馬鹿だ。
 ここはまるで廃墟だ、廃墟どころか、魔窟の九龍城みたいじゃないか。とたんにまた不安が蔦のように足元から徐々にまとわりつきはじめる。蔦を払う剣はない。剣のかわりに私は身を守るべく怒りの感情を持ち出すのだ。腹を立てていることにする。こんな小汚い所へよくも。私は逢うべき男を探している。男。そう私をここへ呼んだのは男だ。
 なんとも心許なく、踏みしめ甲斐のない底なしの砂はやがて、建物のアプローチの存在を足の裏に感じさせる。見上げると砂粒に煙る廃墟は窓の穴だらけの一匹の怪物のようでもある。ゴオオオと穴から穴へ空気が渡る地鳴りのような音がしそうだ。風など1ミリとて吹いていないのだけど。
 おそらく私は自分以外の何か動く存在を求めているのだろう。心に畏れを認めるのが怖いのだ。いけない。あの男に見破られてしまう。自分を奮い立たせて歩むしかないのだ。


 始めに覗いた一室に、男はいた。一室、とはいっても屋根がない。そこは四方ではなく三方が壁(であったと思われる崩れかけた仕切り)であり、足を踏み入れて仰いだ天のフレームは“過去を回想した場面で使われる擦り切れた空の映像”のようであった。その男は長椅子のようなものにゆったりと腰掛けている。白っぽい、簡素な服。襟ぐりは丸く、長袖の袖口は広い。麻だろうか。着心地の良さそうな軽い素材であるようだ。頭からストンと被ってお終い、といった、まるで丈の長いワンピースのよう。そしてその下から伸びる、骨張ってはいるが屈強な素足。
 男の素足というものが、私は苦手だ。苦手ではなく本当は好きだ。例えば男の手の厚み、或いは薄さ、指の長さ、動きといったものに女が性的な魅力を感じることがあるとすれば、素足には表情が乏しいだけに、その人間に隠された素性があからさまに見えてしまうような気がするのだ。何故そう思うのかはわからない。同性の素足には何も感じないのに、何気なく投げ出された男の足を見るたびに私は居たたまれないような羞恥を感じるのだ。その男の素足は、その男の存在感そのものだった。

 「ようこそ。」と聞こえたような気がする。微笑んでいる、いや薄笑いだともいえる…イヤな感じだ。でもきっと、この表情をイヤな感じだと受け止める人はいないだろうと私は思っている。おそらく私だけにはそう見えるのだ。きっとこの男は如何なる場所に居ようとも、こういう風情のままで存在できる種類の人間なのだろう。たとえガンジス河の淵で河に死体を投げ入れる人間がすぐ横で悲しみに暮れていようとも、紫煙とアルコールの饐えた匂いが充満する雀荘であろうとも、一日の終わりを途方に暮れた眼差しで見送る人々で溢れかえる地下鉄の車内であろうとも。いつだって沈黙のままに「ようこそ。」といった優雅な面差しでそこにいるのだろう。
 私はいつの間にかそういう目で男を見ている自分を卑下している。なんて心の卑しい人間なのだ私は。そしてまだ一言も交わしていないというのに私にそう思わせる男の存在感をひどく憎んでいる。まあそこに座りなさい、という柔らかな表情に促されて、自分の座るべき場所を探そうと足元を見る。そして一面に小さな虫螻どもの蠢きを見、総毛立つ。


 私は目覚めてすぐに、今日一日をその夢に支配されそうな暗澹たる気配を感じ、パソコンを立ち上げてメモ帳に書き留めた。


    知らない場所へ、知らない奴に呼ばれて辿りついた

    部屋には天井が無く途中から砂丘に繋がっている

    床は一面紅いダニと灰色のノミに覆い尽くされてた

    おれはふわふわした踏み心地の床で地団駄を踏み

    紅いダニと灰色のノミを砂丘に追いやるのに必死で

    その間中知らない奴はカラカラと嗤っていやがった



 おれ、と書いていた。これは私のみた夢ではない。そう思いたかった。その方がいいような気がしたのだ。私じゃない。この夢をみたのは断じて私ではない。他人の夢。いや架空の夢だ。書き終わって私は満足した。何故ならあの男を『奴』呼ばわりして貶めてやったからだ。夢の中では圧倒的な存在感に気圧されていた。その上、私は滑稽にも蠢く小さな無力なる虫螻どもに「うわあああ」などと上っ滑りした声をあげ、ただジタバタとするしかなかったのだから。
 これで大丈夫だ、助かった。そう思って、思った瞬間、私はかすかに恐怖を感じた。大丈夫だ?助かった、だって?
 いや。もうやめよう。バカらしい。私はほんの少し迷ってから、それに名前をつけて保存し、パソコンの電源を切った。


[2005/9]

ファミレスで逢いましょう

 「お待たせしましたぁこちらココナッツグリーンカレーになりまぁす」
クソ面白くもなさそうにバイトの女子高生は“で?どっちに置けばいいワケ?”とでも言いたげな表情でテーブルを見つめるだけなのだった。俺はちょうどクラッシュアイスと水を口に含んでいて、右下の奥歯に凍みるのがイヤで氷の粒を噛み砕けずに、そっちに置いてと言ってあげたくても喋れない状態。このテーブル担当なのであろうこの子が最初にお冷やのグラスを乱暴に置いた時点で彼女は少し片眉をつり上げていた。私のです、とか、こっちです、とか一言言ってあげさえすればこの場が丸く治まるのはわかっているだろうに、彼女は何故黙っているのだろう。
「あのぉ…ココナッツグリーンカレーになりますがぁ」
テーブルに広げた資料に目を通しながら視線を上げないままで彼女がやっと口を開いた。
「いつよ。」 
「はぁ?」
「だからいつココナッツグリーンカレーになるのよ。」 
「はぁ?」
「ココナッツグリーンカレーになるんでしょ?なってから持ってきてほしいわね。」
さすがに何を言われているか気づいたのだろう。チェリーピンクのグロスをたっぷりと塗り込めた金魚のクチビルをもつ結構カワイイ女子高生は、ムッとした顔でカレー皿を彼女の前に置いてスタスタと厨房の方へ立ち去った。アイボリーの皿は彼女が見ている資料の上に乗っかっている。俺はとりあえずタバコでも、と尻ポケットを探ろうとしたが、彼女が待っていたこの席が禁煙ブースであったことを思い出して、行き場を失った手で仕方なく首の後ろあたりを意味あなくポリポリ掻いてみるしかない。

「お待たせ致しました。昭和の懐かしライスカレーです。お客様のご注文でございますか」
今度はまたどうしてこんな所で働いているのだろうと思えるほど品の良さそうなパートの奥さんがやって来た。俺の目を見て柔らかな微笑みで確認してから、そっと音を立てないように銀色の楕円の皿を置く。女子高生からヘルプ要請が入ったんだなきっと。
 その時彼女がやっと顔を上げた。昔の彼女を彷彿させるような華やいだ微笑みを見て、俺は少し安心した。しかし、仕事の邪魔にならぬよう髪を後ろに引っつめている薄化粧のパートの奥さんに、彼女は丁寧にこう話しかけた。
「ありがとう。美味しそうね。これ見て下さる?」
彼女は資料の上に乗っかったままの皿を指した。
「さっきの女の子がここに置いていったのよ。大事な仕事の資料の上に。」
彼女は微笑んだままだ。
「申しわけございません!」
パートの奥さんは慌ててその皿に手を伸ばしかけたが、彼女は制止した。
「いいの。このままにしておいて。この店の店長を呼んで下さる?」

 俺がしたことといったら、噛み砕けないクラッシュアイスが溶けてしまうのを待ちながら昭和の懐かしライスカレーを福神漬けとのバランスを考えながらゆっくり食べたこと。食べながらコトの一部始終を一応聞いていたこと。バイトの子がふて腐れながら店長の横で頭を下げるのを気の毒に思ったこと。店長がドランクドラゴンの塚地に似ていると思ったこと。パートの奥さんが晴れ晴れした顔でその様子をバックヤードの脇から覗いているのが見えてしまい、なんだかゲンナリしてしまったこと。食べ終わってからもまだ氷が残っていたので注意深く上唇で除けながら水を飲んだこと。頼んでもいないのに食後に出されたデザートの洋梨のグラニテっていうやつの飾りのミントの葉を彼女にあげてからグラニテってなんだ?と彼女に聞けないまま、それを口の中の左側でシャリシャリと食べたこと。食べられることのなかったココナッツグリーンカレーの行方はゴミ箱だろうか厨房のバイトの腹の中だろうかと想像したこと。そんな感じかな。どんな感じだよって言われてもそんな感じでしたとしか言いようがない。
 彼女は店長からのサービスのキャラメルラテを飲んでいる。その横にはこのチェーンの1000円分の食事券が3枚。
 カレー皿の下敷きになった資料を示しつつ、彼女が熱意をもって俺に説明している内容というのは、簡単に言えばどうやら彼女が所属する団体への勧誘らしい。3日前に高校の同級生だった彼女から突然俺の実家に電話があった。上品で丁寧な彼女の話しぶりに好感を持った母親がつい俺の携帯番号を教えてしまったのだ。その知らせに少し怒りながらも彼女からの連絡を待ってオレがついウキウキしてしまったことは事実だ。
 まぁなんつうか。カモにされた、って結末らしいな。俺は俺に耳打ちして笑ってしまった。その笑いのタイミングがちょうど彼女の話のどこかに合致していたと気づいたのは、彼女の次のセリフを聞いた後だった。
「ね、綾瀬クンもそう思うでしょ?世界にはね、今この瞬間も食糧難で餓死している子供達が何千万人もいるのよ。私達がこうしている間にも、どこかでたくさんの人々が亡くなっているの。どう?私と一緒に一人でも多くの子供達を救うために頑張ってみない?」
俺は微笑んだ。凄いね。おまえスゲー頑張ってるよ正しいよ。彼女も微笑んだ。ありがとう。綾瀬クンと一緒ならもっと頑張れそうよ私。俺は彼女に手をさしのべた。彼女が頷いて満足げに握手してくれた。相変わらずやっぱりキレイだった。
「今日はさんきゅ。ごちそうさん。これもらってくよ。俺も飢えたガキだからさ」
 店を出る時に押した木のドアの上から、カランコロンとのどかな牧場の音がした。店に入る時はきっとこの音に気づかないほどワクワクしてたんだな、と思うとちょっぴり切なくなった。高校時代、陸上部の男はみんな彼女に惚れていたっけ。その頃の彼女の可憐な笑顔を思い出そうとしてみたけどうまくいきそうにもない。3000円分の食事券を握りしめてふと空を仰ぐと、最後の大会の日みたいな澄み渡った青が眩しい。第2駐車場の一番奥を目指して俺は思いっきり走り始めた。

相似形

 なあ。なあってばそんな顔してんなよ。悪かったよ遅れてさ。今日はまたモノッ凄い天気いいわ。怖いくらい空が蒼いんだ。そういえばあんた昔っから晴れ男だったんだって?おふくろがよく言ってた。たった一つの取り柄が晴れ男。まるで日本昔話みたいにあんたのこと話してたっけ。
 いつから身体悪かったんだ?ここに来た時はもうボロボロだったんだって?あぁさっきあんたの女だっていう人に会って聞いたんだけどさ、言っちゃ悪いけど最悪じゃねぇか?趣味悪すぎだって。あんたもしかして保険でも掛けられてたんじゃねえの?
 おふくろなら5年前の春に死んじまったよ。くも膜下出血。倒れてからあっという間だった。最後の言葉も何も救急車で病院行って医者に診てもらってオレが呼ばれた時はもうあの世に逝っちまってた。独りで家戻っておふくろのゲロ片付けながら最後に喰ったのがヤキソバだってわかって、オレ泣けたよ。切りつめて切りつめて暮らしててさ。あ、知ってるかあんた?おふくろスシが大好きだったって。でも金ないからガキの頃のオレの誕生日とクリスマスには、家のメシを酢飯にしてタクアンやら卵焼きやらカマボコをネタにした握り作ってくれたんだよ。スシっぽくて豪勢だぁー!なんて言いながら、ずいぶんと安上がりに盛り上がって食べたっけなぁ。
 就職して初めての給料日だったんだその日。オレさ、おふくろにスシ買って帰ったんだよ、特上のやつ。初めて自分の稼いだ金で買って帰って、ただいまーって玄関開けたらおふくろ倒れてたんだ、電話の前で。…わかるか?聞いてんのかよ?なあ?

 それでもおふくろ、あんたのこと話す時なんだかいっつも楽しそうだった。おもしろい人だったってな。そうそう、あんたの屁が異様に臭くて、それが一番オレと似てるとこだとか言っててさぁ。もう腹立つやら可笑しいやら憎たらしいやら泣きたいやら泣きたくなんかないやら、わっけわかんねえよ。そうやっていっつもあんたをネタにしてオレたち笑って暮らしてきたんだよ。エライだろおふくろってさ、バカかもしれねえけどよ、バカがつくほど偉いって思うんだよ今は。
 オレがまだ小さい頃にあんたいなくなっちまったから、あんまり細かいとこは憶えてないんだけど。あんたにタバコの輪っか作ってもらったのはよく憶えてるんだ。上手だったよなぁ。あんなにうまく輪っか作れるヤツいまだに見たことないよ。
 中学の時、隠れてタバコ吸っててさ、ちゃんと部屋の換気したつもりだったんだけど、おふくろが帰ってきていきなり泣くんだよ。それが怒って情けなくてじゃないんだ。あんたの匂いがするって言うんだよ。あんたの懐かしい匂いがするって。そう言って泣くんだよ。オイオイオイオイ泣くんだよ。どうゆんだよそれって。それでさ、オレに「輪っか作れるか?」って聞くんだぜ?ふつー怒るだろ親なら。まいっちゃったよホント。
 …まいったよ、まいった、ホントまいった。あんたがどっかで生きてると思ってたから今まで独りで生きてこれたんだ。やられた。今度こそやられたよ。どうすりゃいいんだよまったく。


 男は父親を見つめていた。大小2枚の白い布を床に落としたまま、長い時間ただ見つめていた。無言で横たわっている、男によく似た男を、茫然と見つめていた。眉毛の長さと流れ具合。眼孔の落ちくぼみ方。両の目頭の距離。逞しい鼻梁。唇の形。思いの外たっぷりとした耳たぶ。少し後退しているM字の生え際。深く刻まれた額の皺の溝。組まれた指の長さと丸みを帯びた爪。しっかりとした厚みをもち、土踏まずがほとんどない、愛嬌のある足。
 声に出すことができなかった言葉達の渦を抱えたまま、男は右の踵で左の靴を押さえて片方脱ぎ、靴下も脱いだ。自分の左の素足を、横たわる男の左足の傍らに乗せ、並べて見つめた。
同じ足が二つ。親指に少し長い毛が生えている。ふと、男は上体を屈めてその本数を数えた。

1,2,3,4,5,6。

自分の足を下ろして、もう一つの、同じ形の、冷たい左足の親指を見つめる。

1,2,3,4,5,6。


 扉の向こうには、歳のわりにはどう見ても明るすぎる栗色に髪を染めた中年女がひとり。疲れ切った顔に、それでも厚化粧をほどこして、素っ気のない黒い長椅子に座っている。霊安室の中から漏れ聞こえる嗚咽を遠くに聞きながら、女は途方に暮れていた。葬式代を男の息子に払わせることができるだろうかとぼんやり考え、それから今日が数社のうちの一社の返済日だったと思い出し、パサついた髪の中に両手をうずめて頭を抱えた。


 そうだ。見せてやるよ。あんたほどじゃないけどさ、オレもうまいんだ輪っか作んの。霊安室って空気まで死んでて動かないんだな。うまくいきそうだ。
 どうだ。うまいだろ。あんたも見せてくれよ、なあ。最後に輪っか作ってみてくれないか。昔みたいにホッペタつついてやってもいい。だからもう一回だけ。


 いつの間にか、その抑えた泣き声は止んでいた。女はゆらりと立ち上がり扉を開ける。何故か片方だけ裸足のまま、男の息子が火をつけた煙草を男の口元にあてがっている。
「なにバカなことやってんのよアンタ!」
男の息子が静かに振り向いた。なんて似てるんだろうか、この息子は。とたんに男への憎しみが息子である目の前の男への憎しみへとすり替わる。
「父親の葬式代くらいは払ってくれるんだろうね!」
そう吐き捨てたとたん女は殴り飛ばされた。顔の左側がガンガンガンガン鳴っている。冷たいリノリウムの床に倒れたまま、女は男の息子を睨みつける。
「イイ気なもんだ!同じ顔して殴りやがって!父親そっくりだよ!」

男は父親を振り返った。なんだよスッとぼけた顔してノンキに寝てやがって。もしかして今、笑っただろ。なぁオヤジ。


[2005/9]

泣く

 夢うつつのまま、紘子は遠く足音を聞いた。がん、トン、がん、トン、がん、トン、優一が登ってくる音。小さな足を一段上に踏み出してからもう一方の足を揃える可愛らしい足音。部屋の中からこの音を聞くことは滅多にない。いつもなら自分が一緒に階段を登るのだから。ドン…ドン…ドン…ドン…ドン…彼が階段を上がってくる力強い足どり。一歩ずつ確かめるようにゆっくり登ってくる聞き慣れた足音。さすがに少し疲れているのかもしれない。滅多に子供と二人で外出することなどないのだから。
 やがて鍵を開けようとする会話がドア越しにくぐもって聞こえる。
「ゆうちゃんできるから!かして!バルタン星人のとこについてる鍵だからね!」
チャリン。あ、鍵おとした。ガガッ…コン!よし、できたね。
「お母さん寝てるから静かにしなさい」
彼の声が低く響く。優一の返事はないが、二人がこちらの寝室に入ってくる気配はない。紘子は毛布を頭まで被り、壁側を向いた。ベッドの中の温まった空気の層が緩く崩れ、微かにオードトワレが薫った。(お願いだから来ないで。私を放っておいて)祈るように紘子は思った。ひとりにして。そうして再び、心地良い眠りという唯一の逃げ場に墜ちてゆくのだった。

 うぅ…ううぅ…自分がうなされている声に気づく。熱はそう高くはないのにどうしてこうも苦しいのだろう。関節のあちこちが鈍い音を立てて軋んでいるようだ。たかが37度3分の微熱でうなされるなんて…と思いながらも自然と声が出てしまう。不思議なことに唸っていると少しラクになるような気がする。手負いの動物も発熱した赤ん坊も幼い子もみんなみんな唸るんだもの、やっぱり抑えなくていいよねぇ、とウツラウツラしながら紘子は自分を慰めた。
 居間からは時折彼と優一の声がするのだけど一体何をしているのだろう。父親と2人でいる時の優一がどんな風に喋ってどんな表情をするのか見てみたいと、ふと思う。「ぼくねぇ…なんだよ」「お父さん、アノ…」よく聞こえない。
 優一は退屈していないだろうか。仕事場に連れて行ってもらって嬉しかったのだろうか。楽しいことは何かあっただろうか。彼はそのうちいつものように椅子に座ったまま寝てしまうだろう。そしたら優一は私のところへ来るだろうか。そんなことを思ったまま、またウトウトと眠りに引き込まれてしまう。

 パタ、パタ、パタ…廊下に足音がする。そぉーっとベッドに近づいてくる気配。
「おかあさん…ただいま…」
優一が小さな声で呟いた。胸が痛んだ。幼いながらに風邪で寝込んでいる母親に気を遣っているのだ。胸が詰まる。紘子はギュッと目を閉じた。しばらくベッドの横で様子を窺っていた優一は、やがて諦めたように遠ざかる。「お母さんやっぱり寝てる」と遠くで声がする。紘子は一瞬泣きそうになる。ごめんなさいごめんなさい。ごめんね。でも…邪魔しないで。そばに来ないで。お願いだからあっちへ行ってて!

 何度目覚めて何度眠りに墜ちただろうか。今いったい何時だろう。彼と優一はどこかで食事してきたのだろうか。微かにTVの音だけが聞こえる。二人して寝てしまったのだろうか。ヒーターはつけっぱなしだろう。ソファベッドの電気敷布は子供には熱すぎるだろうに、彼はきっといつも通り適温より高くしたままなのだろう。優一は汗をかいているのじゃないかしら。それでも起きあがる気力はなかった。寝続けているうちにくったりと力と名のつくものが全て削げ落ちてしまったように思えた。
 なんとかしてみて、なんとかしてみなさいよ、私が世話を焼かなくてもたまには二人きりで過ごしてみたらどうなのよ。いつの間にか彼に対するさまざまな小さな怒りまでもが脈絡も無しに次々と鎌首をもたげてくるのだった。
 私が何もしないですって?アナタが具合悪い時に看病したのはどこの誰だっていうのよ?酔っぱらって人前で私の悪口言うのはやめてよ!どうして籍を入れてくれないのよ?そんなに好きでもないなら何故一緒に暮らしてるのよ?私を…もう私を解放してよっ!!!
 …嘘だ。解放されたいなんて思っていない。そんなこと望んでいない。なんとか人並みに暮らしてゆけるのは彼のおかげなのだから。このままでいいと思っている。きちんと離婚という決着をつけたはずの彼が私と再婚する意思のないことはわかっている。他人に何と言われようが実家に罵倒されようが、私が彼を信頼してこうして一緒に暮らしているのだから。
 そういえば彼は最近、紘子を褒める時がある。おまえのおかげで優一はいい子に育ってくれている。おまえの教育がいいからだよ。それを聞くたびに紘子は片頬で笑うしかないのだった。
 わかっている。彼は決して紘子を一人の女として可愛がってくれてはいない。その罪滅ぼしのために言っているだけなのだ。おそらく、この辺で少し褒めておいてやらないと紘子がキレるかもしれないという危機感から。それなら勝手にキレさせておけばいいが、母親のそんな姿を優一には見せたくない。父親と母親が言い争いをしているところなど見せたくない。それだけのことなのだ。時々飴玉を口に放り込んでおけば、少しはもつだろう、と。そんな上っ面を撫でるような言葉なんていらないと思うたびに、やさぐれた匂いを身に纏ってしまうような不快感がし、何故かフッと気が遠くなりそうになる。
 熱が高くなってきたように感じる。薬が飲みたい。でも薬箱は居間にある。居間に行ってしまえば独りきりの時間は終わってしまう。行けない。行きたくない。今は誰も受けいれたくない。受けいれるものか。もはや何に対して自分が意地を張っているのかもわからくなっている。ただ涙が涙腺ギリギリにまで迫り上がってきては、出口を見つけ出せずに泡立ち、ふるふるとただ藻掻いている。グラスの縁に盛り上がった水の表面張力、それが今の自分の姿だと紘子は思う。こぼれてしまいたい。

 あの人は今頃、何処にいて何をしているのだろう。あの人の夢をみる。何度も何度でも、細切れにカットされた映画のフィルムのように夢をみる。私を抱きしめてあげたいと書いてくれた、たった一人の人。疲れた溜息をひとつ、またひとつ、と落とすように、インターネット上に日々の他愛ない出来事を綴っている紘子にコメントしてくれた男。いや本当は男ではないかもしれない。同じ境遇にある女性が、たまたま気まぐれで書いただけなのかもしれなかった。
【わかるよ。抱きしめてあげたい。】
それだけだった。紘子はその夜、その文字を長いこと見つめていた。自分の中の凝り固まってしまったくだらない不平不満の塊がスルスルとほぐれてゆくのが感じられた。抱きしめられたかったのだ。ただそれだけ。紘子はやっと自分を少しずつ蝕んでいる病の病巣を探り当てたような気がした。
 ある朝、早くから目が醒めた紘子は、優一がぐっすり眠り込んでいるのを確かめてから居間のソファベッドで眠っている彼の元へ行った。遮光カーテンをひいてある薄暗い部屋で、彼は穏やかな寝息を立てていた。部屋中に彼の匂いが立ちこめている。彼の体温を感じたいと痛切に思った。身体の芯から冷え切ってしまうような淋しさを感じていた。毛布を除け、狭いスペースに分け入って無理矢理彼の横に滑り込んだ。あぁ…あったかいなぁ…そう思った時、彼が驚いて目を覚まし、困り果てたようにこう言った。
「やめてくれよ。頼むよ寝かせてよ。勘弁してくれよ」
その瞬間、怒りの言葉が紘子の口をついて出てしまった。
「なに?こうしてるだけでもダメなの?さわるだけでもダメなの?私のこと嫌いなの?夜でもダメ朝でもダメ?じゃあ一体いつだったらいいのよ!あなたから私に触ってくれたことなんかないじゃない!やっぱり嫌いなんじゃない!」
とたんに涙がこぼれた。と同時に自分がまるで聞き分けのない子供のように思えてちょっと笑い出しそうになってしまった。ヤダ!買って買ってコレ買ってぇっ!と地団駄を踏む子供みたいじゃないか。バカみたい!バカ丸出し!
 自分の口から出た自分の言葉に冷めていた。なんで泣くんだ。彼はそう呟いて不思議そうな顔をした。まるで見たことのない虫でも見るような顔つきだった。或いはお手上げ、といった。何粒かの涙はあっという間に乾いてしまい、残された悲しみはヒラヒラと音もなく澱のように沈んでいってすぐに見えなくなった。
 紘子は打ちひしがれたような表情を顔に貼りつかせて自分の寝室に戻り、優一の傍に冷えたままの身体を横たえた。心の中では彼に詫びてもいた。彼の持病のせいなのだ。身体が弱っているんだから。健康体じゃないんだから。彼が悪いわけじゃないんだから。でも…この底なしの空洞は一体どうやって埋めたらいいのだろう。
 ここ数年来、年に何度か重苦しい痛みを伴ってあらわれる微熱は、或いは、この空洞を渡る風の温度なのかもしれない。

 いつしか紘子は、【抱きしめてあげたい】と書いたきた誰かもわからない人物を頭の中で理想の男に仕立て上げていた。そしてその男が残していった、たった一つの言葉に依存している自分を恥じた。恥じながら夢の中でその男に抱きしめられて深い安堵の溜息をつく。溜息はいつしか熱を帯びた嘆息になってゆく。顎に優しく手を添えて男は紘子の顔を上げさせる。男の顔はよくわからない。慈悲深いまなざしだけが靄のかかった夢の中で柔らかな光を放つ。男の唇が紘子の唇に触れるか触れないかのうちに紘子はもう溶けている。男の唇の柔らかな感触は瞬時に信号となり明瞭にデジタル化されてブレることなく病巣を貫く。すぐに滑らかな舌先が入り込んできてそれは言葉もないままに刺々しい塊となった心の中のしこりをあっという間に解きほぐしてゆくのだった。そんな口づけを最後にしたのはいつだっただろう。
 自分が放つ甘い匂いに噎せかえりそうになりながらとうとう下着の中に手を忍ばせる。夢の中の男の大きな手が紘子の手に重なり、一緒にそこを探ろうとする。閉ざされているその扉をそっと開けると、もうどうしようもないほどに濡れているのだった。かわいそうに、かわいそうに、こんなに泣いてたんだ。グラスの縁から溢れることができないままの涙は、そうやってグラスの底のひび割れからドクドクと滲み出してくるのだった。あとからあとから止めどなく溢れてくる涙を、夢の中の男は掬い上げては飲み込んで、また撫でては掬ってくれた。紘子は温かな男の懐に包まれながら、身体中を駆け巡る濁った体液が少しずつ浄化されてゆくような感覚に、ただただ身を任せていた。やがて男は紘子のもので濡れた指先を差し出した。男の目は泣きそうにも笑っているようにも見えた。紘子は目を閉じてその指をそっと舐めた。涙の味がした。

 どれくらいの時間眠っていたのだろう。つい壁の時計に目をやったが、いつか保険屋のおばさんに貰ったそのディズニーの時計は、そういえば数日前から3時45分で止まったままだった。秒針の音がしない方が気が休まると思ってそのままにしてあった。不毛な時が自分だけを置き去りにして目の前をただ通過してゆくイメージが恐ろしかったのだ。
 ドアが開いて、眠り込んだ優一を抱え、彼がつらそうにベッドの脇に運んできた。
「だいぶ重くなったな…」
彼は独り言のようにそう言って、ダランと力の抜けた優一の身体を紘子の横にそっと降ろした。ありがと、そう呟いて笑顔を作ろうとしたがうまくいかなかった。ごめんね、そう言いたかったけれど言葉にならなかった。
「今何時?」
おそらく今日初めて人に向かって発した、かすれた声で紘子が呟く。壁のミッキーとミニーをチラリと見やり、電池入れとけよ、と彼は何かを諦めたような、しかし穏やかな声で言ってから「11時半」と静かに言い残して寝室を出ていこうとし、ふと思いついたように向き直って紘子の額に手をあてた。
「熱、ないな。パソコンなんかしてないでちゃんと寝ろよ」
彼が最後に私に触れてくれたのは、一体いつだっただろう。思い出せない。熱はあるよ、あるんだよ、ちゃんと触ってみてよ、微熱だけど確かに熱があるんだよ。だからこんなに辛いんじゃないの。

 穏やかにすやすやと眠っている優一に、そっと水色の毛布をかけてやった。今日一日、一度も抱きしめてあげることができなかった。優一が生まれてからたぶん初めてのことだ。きっとたくさん我慢していたのだろう。泣きもせずに。オデコを撫でると、清潔で幾分ひんやりとした感触のなかに温かな熱を感じた。「クフン…」と動物の子のような微かな鼻声をあげて、優一は毛布の奥に沈み込んだ。母親の涙の匂いで溢れているだろう毛布に抱かれて、優一が深く息を吸い込み、そして安堵の息を吐いた。