2007/11/02

殺意の谷

 ほんのまばたきの間に、短い悲鳴を残して少女は谷底に消えた。
夕陽の歪んだ輪郭の一部が、もうすぐ向こうの山の稜線に触れようとしている。カタンカタン、カタンカタン、カタンカタン・・・遠く、急行電車の窓灯りが右端から夕刻を縫って過ぎてゆく。車窓にある幾つもの顔は、誰かの知っている顔によく似ているのかもしれない。各駅停車しか止まらないこの小さな村のありふれた風景の一角、小高い山の中腹を切り裂くように口をあけた深い谷の底に、一人の少女が湿った腐葉土にまみれて転がっている。




 「ただいまぁ!お留守番ありがとねぇ!」
真希子は慌ただしく玄関のドアを開けた。夕飯の支度の途中で、生姜を切らしていたことに気づいた。今夜はパパの好物のイカの刺身だというのに、生姜がなければ始まらないではないか。のどかな村とはいえ、こんな時間にお兄ちゃんにちょっと自転車で行ってきてとは頼めない。真希子は息子たちに留守番を頼んで、スーパーまで車を飛ばしてきたのだ。
 居間の方からゲームの大音量が聞こえてきて、健児の不満げな声が重なる。
「おにいちゃんズルイ!もう代わってってば!ねー!ねーってば!」
この春から健児は年長さん、裕太は3年生。3つ離れた兄に理不尽な意地悪をされて怒ってみたところで健児が敵うはずもない。サンダルを脱いで買い物袋をそっと置き、開けっ放しの居間のドアから中の様子を盗み見ると、健児が地団駄を踏みながら裕太の背中を叩いている。裕太はビクともせずに画面を見つめたままゲームに熱中している。画面ではウルトラマンとゼットンが戦っている。自分の誕生日に買ってもらったばかりのゲームを兄の裕太が独り占めしているのだから、健児が怒るのも無理はない。それに音量がいつもより相当大きい。普段は物わかりのいい素直なお兄ちゃんでも、親の見えないところでは弟に横暴な振る舞いをしたりするのだろうか。すぐに踏み込もうとする気持ちを抑えて、真希子は2人がどうするのか見てみようと思った。
「おれのなんだからな!ママがいないからってズルイぞ!返せ!」
裕太は服を引っぱられて揺すられようがお構いなしにゲームを続けている。真希子は不安になってきた。もうそろそろ限界ではなかろうか。
 健児が不意にテーブルの方へ向かった。何かの紙をビリビリと破りはじめる。
「もういい!おにいちゃんなんかキライだ!こうしてやる!」
裕太が弾かれたように振り向き、驚いて立ち上がる。破られたのはプリントだろうか、見る間に顔が真っ赤になってゆく。
「なにすんだ!明日の宿題なんだぞ!弁償しろ!」
「おにいちゃんが悪いんだ!ざまあみろ!」
そのとたん、裕太が弟の横腹を思いっきり蹴り飛ばした。真希子は絶句した。思いもよらぬ息子の激しさを見て、気が動転してしまった。
「わあああああああああ!おにいちゃんのバカああああああああ!」
裕太は続けて手をあげようとしている。真希子は飛び出して健児に駆け寄った。蹴られた脇腹を押さえて涙でグチャグチャになっている。
「裕太!今あんた思いっきり蹴ったでしょ!」
「・・・やってない」
「嘘つきなさい!ママ見てたんだから!」
裕太は唇を噛みしめてうつむいている。
「なんで嘘つく!謝りなさい!裕太!」
両手をグッと握った裕太は、弟を憎々しげに見下ろして叫んだ。
「ケンジなんて死んじまえ!」
真希子は凍りついた。頭が真っ白になる。なんだかわからないうちにスタスタとTVの前に行き、テレビゲームのコードを力任せに引っこ抜いて居間の窓からゲーム機を外に投げ捨て、裕太の目の前に立ち、その頬を平手打ちした。
「もう一度言ってみなさい。」
手の平がジンとする。怒りが過ぎて自分でも驚くほど冷静な声が出た。叩かれたことが信じられない、というような顔で裕太が頬を押さえている。
「もう一度言ってみなさい裕太。」
裕太の二重の大きな目から涙がボロボロとこぼれ落ちた。真希子はそれを見ても怒りが収まらない自分を感じていた。弟を思いっきり蹴った時の容赦の無さが許せない。健児は張りつめた空気の中、痛みを忘れたように身体を起こして2人を見つめている。
「裕太!」「クソババア!」
叫びが一緒になった。ハッとして一瞬見つめ合い、気づいたら真希子は裕太を抱えて居間の窓から外へ投げ出していた。
「そんなにゲームがやりたいなら一晩中外でやってなさい!もう家に入ってこなくていい!」
真希子は窓をビシャッと閉めて鍵をかけた。カーテンを一気に引いてから玄関に走って、玄関の鍵も閉めた。頭の中には「死んじまえ!」と「クソババア!」がグルグル回っている。健児が息を詰めてぺたりと座り込んでいる。




 裕太は投げ出されたそのままの格好で茫然としていた。裸足だった。目の前には自分と同じように投げ出されたゲーム機が転がっている。辺りは薄暗い。友達と遊んで帰ってきて、ママに言われて居間のテーブルで宿題をしながら、横目でゲームをやっている健児を忌々しい気持ちで見ていた。音が気になってなかなか集中できない。うるさいぞ、とそれでも控え目に言うと健児は振り向いてアッカンベーをしたんだ。ムカつく。
「やったー!ママ見て!バルタン倒したよ!」
ママは台所の手を止めて健児の頭を撫でに来た。スゴイねーケンジ!上手だねー!裕太はイライラして弟を睨みつけた。パパもママもいつも弟ばっかり可愛がっているように感じていた。ママが買い物に行った直後にゲームを奪って、それからずっと渡してやらなかった。口もきいてやらなかった。だっていつも健児ばっかり甘やかされて、健児ばっかり可愛がられて、ケンジばっかり、ケンジばっかり・・・。
 左のほっぺたがジンジンしていた。悔しかった。裕太は袖で涙を拭って立ち上がり、ゲーム機を拾って裸足のまま歩いた。道路の脇の側溝に捨ててやろうと思ったのだ。家が見えなくなる手前でちょっと振り返って見てみた。玄関の灯りと窓のオレンジ色の灯りが暖かそうで、また涙が出そうになった。隣の家からはテレビの音と赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。どこからか、カレーの匂いが漂ってきた。かすかに醤油の焦げたような香ばしい匂いも混じっている。おなかすいたなぁ。すると腹がグウと鳴った。ケンジ腹痛かっただろうなぁ。さっき思いっきり蹴っ飛ばしてしまったことを後悔していた。謝ればよかったのだろうけど、悔しくて悔しくて、できなかった。おまけにクソババアと言ってしまった。これでもう完全に嫌われてしまった、と思った。もう家には帰れない。どうしよう。裕太は心細くなってきた。捨ててやろうと思ったゲーム機を見つめているうちに、また悲しくなってきた。どこに行けばいいんだろう。足が冷たい。




 まるで何事もなかったかのように、切り立った谷の淵は、ただ静かに口を開けていた。その静寂の淵に能面の女がしゃがみ込んでいる。根元から5センチほども黒く伸びてしまっている赤茶けた髪を無造作に、というより乱雑に束ねている頭が、谷底を覗き込んでいる。谷の口には雑草やシダ類の葉が残光を拒むように生い茂っていていて、奥には闇が広がるばかりだ。どこ行った?どこに墜ちた?どこに消えた?女は狂ったように目を凝らした。暗い、暗い暗い暗い、暗くて暗くて怖い。女の背中に黒い静寂が張りついたかと思うと、とたんに足元からも恐怖が這い上がってくる。女は目を剥いて起きあがり、背後を見た。刻々と夕暮れが迫る。もうすぐ日没、辺りは闇に溶ける。女は、やにわに走って近くの木に抱きついた。何かに捕まらなければ今の私も消されてしまう。たった今、谷底に消えた少女は、子供の頃の私かもしれない。木肌に頬をつけて「ああ」と女は小さく声を出した。ああ、あああ、あああ。太い幹に背中をつけてそのまま座り込み、後ろ手で木を抱きしめる。まばたきするのが怖かった。だって、まばたきの間に少女は消えたのだ。無意識にまばたきするものかと目を見開き、耐えきれなくなると自力で目を思いっきり閉じてすぐ開いた。息が、息がうまくできない。吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて、そうだ、落ち着いて、吸って、吸って、吐いて、そう吸って、吐いて。そうそう。吸って、吸って、吐いて。何度か繰り返すうちに、いつの間にかそれがラマーズ法の呼吸になっていることに気がついた。ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ああ、少し、少し、ラクだ。ここは分娩台なんだと女は思った。そうだあの時、看護婦さんたちが私の味方になってくれた!そうそう上手、上手だよ、もう少し、もう少しだよがんばって!がんばって!がんばって!ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、嬉しかった、私あの時すごく嬉しかった、だって初めてだったから。誰かが私を励ましてくれるなんて。上手だよって、頑張ってって。フーッ、フーーーッ、いきんで、いきんで、いきんで!そう上手!そう!そう!

 山の輪郭を溶かして夕闇が朽ち果ててゆく。カラスがアー、アー、と啼きながら渡っていった。女は静かに木の根元に抱かれていた。とりかえしのつかないことをしてしまった。とりかえしのつかないこと。とりかえしのつかない。あぁいつかこれと全く同じ思いをした時があった。あの時だ・・・彩音を産んだ時!女はこの感情の符合を見、生まれて初めて自分というものを理解した。何を考えているのかわからない奴だと罵られ続けているうちに、いつの間にか自分で自分がよくわからなくなってしまった。でも今だけはわかる。私はたった今、自分がわかる、という結果を産み出したのだ。あの少女を犠牲にして。子供の頃の自分を犠牲にして。女は大きく息を吐いた。
 あの時、私は一人の人間をこの世に送り出してしまった。その存在を勝手に消し去ることなど出来ないのだと思って私は泣いた。死んだ方がマシとさえ思うほどの苦しみに半日のたうち回り、自分の身体が宇宙に飲み込まれていくような痛みの末に生まれたものは、一生私を縛りつけるであろう一人の人間だった。もうどこへも逃げられない。私は絶望の直中に放り出された。生まれたばかりの娘は、その血だらけの猿のような顔を一瞬見せた後に別室へ連れていかれ、私は腹を押され子宮の中をかき回され膣を縫われ、腹部に氷嚢を置かれたまま分娩室横の薄暗い控え室のストレッチャーの上にたった独り置き去りにされた。祝福は私にではなく、産まれ出でた新しい命に降り注いだのだった。
「あああ…あああ…あああ…」
私は阿呆のように声を出し続けた。誰か助けて。産む間際まで手を貸して助けてくれたように。初めて他人を信じて助けてもらえたというのに、子供を産んだ瞬間、私だけが置き去りにされた。やっぱり罠だったんだ。どうせこの先も誰も私を助けてくれやしないのだ。
 私はそれまでいろんなことをギリギリどうにかでも乗り越えてきたのだ。独りだったから。面倒なことに一切目を背けてから。でもこれからはもうその方法が使えないのだ。逃げるにも何をするにも降ろすことのできない『子供』という重い十字架を背負ってしまったのだ。私がその存在を自分の手で消さない限り一生くっついて離れないものを、産み落としてしまった。
 私は束縛の刑に処されたのだ。夫だけでも面倒だというのに、赤ん坊はいつもいつもいつもどんな時も私を縛り続けた。私の身体が赤ん坊の食べ物で、私の身体が赤ん坊の布団で、私の身体が赤ん坊の全世界。赤ん坊は私の休息を絶対に許さない生き物。それでも可愛いと感じる時があった。それは赤ん坊が寝ている時だけだ。寝ている間は愛らしいヌイグルミと一緒だから。泣かないし欲しがらないし、私がいようがいまいが息をしているのだから、私は自らの手を施さずに母親としての責務を果たしているという実感に浸ることができたのだ。私は赤ん坊が寝ている間だけ自由になれた。寝ている間に酒を飲みに行き、誰かとセックスし、思う存分パチンコをし、外食をしに出かけた。夫だった男はとっくの昔にいなくなった。いなくなってせいせいした。私を縛りつける人間がひとりいなくなってくれたというだけのこと。
 いっそのこと赤ん坊のままならよかったのだ。子供は大きくなると要求を正確に言葉に出して、前よりもっと私を縛り始めた。赤の他人より始末が悪い。腹が減ったらその辺のものを適当に喰ってればいい。風呂になど入らなくても死にはしない。私がこうして生きてきたように。いつでも人が自分の言うことを無条件に受け入れてくれるなんてどうして思うのだろう。生意気な。だから子供は餓鬼と呼ばれるのだ。勝手に息をして勝手になんとか喰いつないで勝手に遊んで勝手に寝てくれれば私にだって子供を愛することができるはずだった。子供の寝顔は最高に可愛らしいのだから。友達なんていらないに決まっている。他人はいつでも自分の損得だけで生きているものなのだから、自分もそうやって自分の損得で生きていけばいいのだ。それをいちいち友達にいじめられたとか喋ってくれないとかグズグズ言っているから泣きを見るのだ。こっちから無視してやればいいのに。寂しくなったら適当に入り込んでいってその時だけの機嫌をとってやれば済む。簡単なことだ。使いっ走りになってやったり褒めてやったりしていれば他人はいくらか優しくしてくれるものなのだ。それでまた気まずくなったら離れればいい。どうせ一生関わる人間でもない。彩音は頭が悪い。きっと夫だったあのバカな男に性格が似ていたのだ。かわいそうな彩ちゃん。

 遠く電車の音が聞こえる。カァ、カァ、とカラスの啼き声がする。カラス、なぜなくの、カラスは山に。かわいいななつの子があるからよ・・・ななつの子、七つの、七つの。女は愕然とする。7歳。かわいいかわいいとカラスはなくの。そうだ。可愛い7歳の子が待っている。彩音がいる。あの少女はやはり私だったのだ。放心していた女の目に生気が戻った。帰らなきゃ。女はスッと立ち上がり、少女が消えた谷を振り向きもせず歩き始めた。林道の脇に黒の軽自動車が止めてある。車に乗り込むとポケットから携帯を取り出して時間を確認し、電話をかけた。
「もしもしお母さん、私。そっちに彩ちゃん行ってない?そっか。いい。お友達のとこに聞いてみる。じゃあ。」
エンジンをかけてセブンスターに火をつける。ウインドーを少し下ろして鼻から煙を吐き出し、助手席を見た。彩ちゃんったら、こんな時間までどこ行ってるんだろう。探しに行かなきゃ。そうだ、そういえば宿題で『春を探しにいこう』っていうのがあるって言ってなかったか?女はジャージのポケットを探った。まだ蕾の、薄緑のフキノトウが1つ入っていた。




 「ねえママ、おそと寒いんじゃないかな。」
健児が遠慮がちな声で冷蔵庫の陰から顔を覗かせた。真希子はキャベツを刻む手を止めて時計を見た。裕太を閉め出してから20分経っている。きっとメソメソと泣きながら玄関先にでも座り込んでいるだろう。母親としてやらなければならないことだったのだと自分に言い聞かせてはみたものの、真希子は心のどこかで裕太に手をあげてしまったことを後悔し始めてもいた。それでもやはり『死ね』と『クソババア』の二言は、あまりにもショックだった。
 いつもならパパの帰りを待たずに3人で楽しく食卓を囲んでいる時間だ。健児もまた幼いながら兄の宿題のプリントを破ってしまったことを後悔しているのだろう、一人でおとなしくしていた。テレビは消したままだった。
「ぼく、おにいちゃんにあやまる。」
途中から涙声になった。ハッとして見ると、手にプリントを持っている。胸がつまった。セロハンテープで貼りつけてある。うまく張り合わされてはいないが、健児なりに一生懸命元通りにしようと努力していたのだ。真希子は小さな身体を抱きしめた。
「蹴られたとこ痛くない?」
話しかけた声が涙声になっていた。健児はしゃくり上げながら大きく何度もうなずく。
「待ってなさい。おにいちゃん中に入れてあげよう。」
エプロンの裾で目元を押さえながら玄関に向かった。ドアの覗き窓から外を見てみる。しかし外灯に照らされた玄関ポーチに裕太の姿はなかった。ドアを開けて呼んでみた。
「裕太?どこ?ごめんねママも悪かった。裕太!」
辺りはしーんとしている。
「裕太!ゆうた!出ておいで!ゆうた!」
家の周りを回ってみた。裕太はいない。玄関に戻ってみると、健児が心配して出て来ていた。
「おにいちゃんは?」
「ちょっとその辺見てくるね。」
「ぼくも行く!」
真希子はいったん家に入って急いでカーディガンを羽織った。ふと見ると、テレビの前に裕太の靴下が2つ丸まって脱ぎ捨ててある。裕太は裸足のままなのだ。真希子は激しく自分を責めた。二人の上着、靴、それにタオルを持って、健児に上着を着せて手を繋いだ。小さな手はとても温かい。




 裕太は裸足のままトボトボと歩いていた。足が冷たい。こんな時間に友達の家に行くわけにもいかない。とりあえず近所の公園に行こう。公園ならコンクリート山の下にトンネンルがある。あそこにいれば、そのうちママも探しに来てくれるかもしれない。家を出てから少しすると高田彩音の家の前を通った。近所の人の話によると、彩音は時々、遅い時間だというのに一人で家の前で縄跳びをしていたり、公園にいることもあるという。何やら悪い噂があって、母親が家に男の人を入れている時は、彩音が外へ追い出されていると聞いたことがあった。彩音は、この春1年生になったばかりだ。集団登校で毎朝一緒に歩くが、あまり親しく話したことはない。こういうのはあまりよくないので誰にも言ったことはないが、彩音は周りからあまり好かれてはいないような感じがした。でもそのわりに妙に人懐こいところもあって、たまにひょっこりと裕太の家に遊びに来るのだった。そういう時は年上の自分より、弟と一緒に遊んでいる。裕太の家はハムスターを飼っているので、彩音は決して自分から見せてとは言わないが、それを見に来るというのが目的のようだった。なぜかいつも玄関ではなくて窓から覗いては、こちらが先に気づいて声をかけるのを待っているところも、なんとなく好きになれなかった。それと、これも誰にも言ったことはないけれど、いつだったかハムスターを触らせている時、ハムスターの足をつねっていたことがあったのだ。あれは間違いなく、つねっていたと思う。肌色の小さな足先を持つ彩音の爪の先が白くなっているのが見えたから。ちょっと驚いていると、彩音はハッとした顔で裕太を見上げてなぜかニッと笑ったのだ。あれは気持ち悪かった。どうしてかこっちが気まずくなって、痛くするなよと言うと、すぐにウンと頷いてやめたけど。
 高田彩音の家には電気がついていなかった。車もなかった。出かけているのかな。もしこんな時に彩音が一人で外にいたら、ちょっとは気晴らしに話しかけるぐらいできたのにな、ついそう思ってしまった。本当のことを言えば、彩音の家に上がらせてもらうことを期待していたのかもしれなかった。彩音の家には父親がいないからというのもあった。今ゲーム機を持っているからというのも。彩音の家にもゲームはあるらしいが、ママのだから触らせてもらえないと言っていた。裕太は実はそんなふうに考えていた自分が情けなくなった。
 いないのならしょうがない。というより、いなくてよかったのだ。裕太はまた歩き始めた。公園に行こう。やっと腹が据わったような気がした。そのうちきっとママが探しに来てくれて、心配したよ、ごめんね、と言ってくれる。そしたら僕もちゃんと謝ろう。裕太は少しだけ元気になってきた自分に安心した。公園まではあと5分くらいだ。ちょっと心細いけど、少しの辛抱だ。そう自分を励まして歩いていると、コンクリート山が見えてきた。




 女は小さな商店街に一軒だけあるコンビニに立ち寄った。
「うちの彩音、今日ここに来なかった?」
レジの男が顔を上げたが、女を見てハァ?というような顔をした。彩音はよく一人でここに来るので店員に覚えられている。買い物するでもなく長い時間いることもあるので苦情を言われたこともあったが、そんなことをいちいち気にしていたらこの小さな村では生きていけない。まあそれにもう苦情を言われることはない。なぜなら先月の夜中に彩音を母親に預けてフラリと町のスナックに出かけた時、ここの店長にバッタリ出くわし、酔った勢いもあって「いつも迷惑かけてスミマセンうち父親がいないものですから子供にいろいろと淋しい思いもさせてるんです」と、ちょっとコナをかけたら簡単に店長がノッてきて、そのまま家に連れてきて関係を持ったからだ。目が覚めたらもう店長は消えていたが、それ以来、徹底的に女を避けている。気の小さい男だ。
「あぁえっと、来てないと思いますけど。」
バイトの男は素っ気なく答えただけだった。それでもしつこく、アンタ今日何時から仕事に来てるの?と聞くと、3時からずっといるという。それなら間違いないか。やっぱり彩音は来ていないのだ。女は肉まん2つとレトルトカレーの甘口と辛口を買った。もしかしたら彩音は先に帰っているかもしれない。ご飯だけは炊飯器に残っているはずだが、おかずが何もない。
 車に乗り込んで、あちこち周りを見ながら家に向かった。最後の曲がり角の公園の前に来た時、男の子がひとりで歩いているのが見えた。あれはたしか、裕太君だ。どうしたんだろうこんな時間に。女は車を止めて、ウインドウを開けた。
「裕太君?」
男の子がうなずいた。女は道端に車を止めて降りた。裕太は裸足で、なぜかゲーム機を持っていた。
「どうしたの?裸足で。あ、私わかるよね、彩音のママ」
裕太は困ったような顔をして、家で怒られて閉め出されたことをボソリと呟いた。実際、裕太は当惑していた。恥ずかしかったのもあるが、彩音の母親が喋るとやけにイヤな臭い匂いがしたので困った。煙草の匂いと、それになんだかわからない口臭のようなものが混ざっていて、具合が悪くなりそうだった。
「裕太君、今日うちの彩ちゃん見なかった?」
「朝しか見てません。」
「ほんとに?」
「はい。」
裕太はイヤな感じがした。嘘なんかつくわけないのに。それになんだか妙に迫ってくるので、ちょっと後退った。
「どこに行ったんんだろう・・・」
知らないよそんなこと。
「じゃあね。ちゃんと家に帰りなよ。」
彩音の母親はそう言い残すと小走りで車に戻り、車はあっと言う間に走り去った。裕太は呆気にとられていた。話しかけられて驚いたしイヤな感じもしたけど、車に乗せて家まで送ってくれることになるのだろうと少し思っていた。なんだか普通じゃないような気がする。やっぱりおかしい。それに比べて僕のママはキレイだしちゃんとしてるし・・・そのママにクソババアなんて言っちゃったんだっけ。また悲しくなった。ママ、ケンジ、ごめんあんなこと言っちゃって。また涙が溢れてきそうになった。悲しい気持ちでいっぱいになった。公園には常夜灯がついていて、充分明るかった。その灯りに励まされて、裕太はコンクリート山のトンネルに向かっていった。ママはきっとすぐに迎えにきてくれる。そう信じた。




 「ゆうたー!」「おにいちゃーん!」
真希子は半ば焦ってた。もし裕太の身に何かあったら・・・そう思うと全身から汗が噴き出してきそうだった。
「ママ、おにいちゃんさ、きっと公園にいるよ。」
健児が急に立ち止まって言った。絶対、公園にいるよ。コンクリート山のトンネルにいる。
「健児が言うんだもん、そうだね、きっといるね。」
真希子は泣きながら答えた。
「ママ泣かなくてもいいから!おにいちゃん絶対いるから!」
「うん。公園に行こう。」
小さくても男の子なんだな、と真希子は心強く感じた。
 その時、前方から車が来て、真希子たちの右の家の前に滑り込んだ。高田さんだ。黒の軽自動車は中途半端に斜めに止まり、中から彩音の母親が降りてきた。
「あ、宮下さん!」
「こんばんは。」
「あの、うちの彩音、遊びに行きませんでした?」
「え?あ、いいえ、今日は来てませんけど・・・」
「私、夕方ちょっとだけ寝てしまって、起きたら彩音がいなくて、今までずっと車で探してたんです。まだ帰ってきてないみたい。家真っ暗だし。」
「そうなんですか?他のお友達のところに連絡されました?」
「それがえっと、連絡網の紙なくしちゃったんで。」
「じゃあ学校に問い合わせて彩音ちゃんのクラスの連絡網をFAXで家に送ってもらいましょうか?まだ誰か学校にいると思いますし。」
「・・・」
「あとで届けにきますから。あの、実はうちの裕太もちょっと見えなくて・・・途中で裕太見かけませんでした?」
「え!じゃあ裕太君と彩音、もしかして一緒にいるんじゃないですか?」
「いえ、30分ほど前まで家にいましたから、一緒じゃないと思いますが。」
「なんでそんなことわかるんですか!もしかしたらってこともあるかもしれないじゃないですか!」
真希子はその剣幕に驚いた。だがこっちも急いでいるのだ。公園に行かなくては。
「とにかく裕太を探してから、お宅に連絡網を届けますから。」
不満げな彩音の母親を残して、真希子と健児は走った。




 部屋の電気をつけた。乱雑に散らかった部屋が照らし出される。男が暴れて滅茶苦茶にしていったことを思い出した。まだ出しっぱなしのコタツの周りがひどい。カップラーメンの殻やカップ、雑誌、ドライヤー、化粧品、落書き帳、色紙・・・あらゆる物が散らかっている。それに裏表ひっくり返ったままのTシャツ、乾いたあとの洗濯物の山、口の開いたポテトチップスの袋やベビーラーメンのかけら、ラベルのない幾つものビデオテープ・・・疲れた。片付ける気力もない。女はコタツに足を入れた。暖かい。スイッチを消し忘れていてよかった。コンビニの袋から肉まんを一つ取り出して夢中で食べた。転がっていたペットボトルのぬるいウーロン茶をゴクゴク音を立てて飲み、もう一つ食べようとして女はふと動きを止めた。彩音の分。その時、携帯が鳴った。女は能面の顔で携帯を開いた。
「ああ。今あちこちかけてるとこだから。え。来なくていい。つか来んな。忙しいから切る。」
女の母親からだった。携帯を閉じて部屋の隅に投げ、そのまま倒れ込む。コタツってなんて暖かいんだろう。コタツが好き。この世で一番好き。バカ親より大好き。女は伸びをした。脇腹が痛い。服を捲ってみると内出血していて少し腫れている。肉まんとウーロン茶をいきなり流し込んだ腹がキュルキュルと鳴った。むくり、と女は起きあがった。彩音の分の肉まんを手にとって、じっと見つめる。
「・・・帰ってくるわけねーべ。」
女は大きく口を開け、その半分ほどを一度に囓りとった。




 「いた!おにいちゃん!」
ケンジだ!裕太はトンネルから這い出た。後ろでママがしゃがみ込んでいる。
「おにいちゃん、ごめんね、寒かった?」
「ケンジ、ごめんな、おなか大丈夫か?」
2人が真希子に走り寄った。真希子はへたり込んだまま裕太と健児を抱きしめた。
「ごめんね、ごめんね、足冷たかったでしょ、ケガしてない?」
「ママ、ごめんなさい、ごめんなさい。」
真希子は泣きながら裕太の足をタオルで拭いてやって、靴を履かせた。公園の前に一台の車が止まり、クラクションが短く鳴った。
「あ!パパだ!パパ帰ってきた!」
健児が飛び跳ねながら笑顔で叫んだ。
 
 いつもより遅い夕食。家族4人の食卓は賑やかだ。
「なんかよくわからんけど、とにかく裕太は大変だったらしいな。」
パパがイカの刺身にたっぷりと生姜のすり下ろしをつけている。
「健児が言った通り裕太が公園にいたんだもの、もうホッとして力が抜けちゃったわ。」
子供たちはモノも言わずにメンチカツにかぶりついている。相当お腹がすいたのだろう。その様子を見て夫婦は笑い合った。
「それにしても彩音ちゃん帰ってきたかしら。」
真希子は壁の時計を見た。もうすぐ8時だ。パパの車でみんなで帰って来てからすぐに学校に電話をかけて1年2組の連絡網をFAXしてもらい、彩音の家に走った。チャイムを何度押しても彩音の母親が出てこないので、ドアを開けて玄関の乱雑さに少なからず驚きながら「高田さん、高田さん、」と呼んでみた。それでも出てこないので、戸惑いながらも部屋に上がってみて・・・思わず息を呑んだ。足の踏み場もないほど散らかっている。その真ん中のコタツに足を突っ込んだまま、彩音の母親は口を開けて眠りこけていた。声をかけると母親は飛び上がるほど驚いて、疲れてしまって、とかなんとか言い訳をした。電話するのを手伝おうかと申し出てみたが、家の電話は止められていると言う。とにかくFAXを渡して帰ってきたが、彩音ちゃんは無事なのだろうか。あまりいい噂は聞いてなかったけれど、あれほど家の中が酷い状態だとは思わなかった。真希子は時々遊びに来る彩音にあまり良い印象を持っていなかったが、母親があれじゃ無理もないだろうと同情する気持ちにもなり、彩音の汚れた袖口や襟元や毛玉だらけのトレーナーや食べ物のシミがついたままのスカート、脂っぽい髪の毛などを思い出していた。
「そういえば僕、公園に行く途中で彩音ちゃんのお母さんに会ったよ。」
裕太の言葉に真希子は驚いた。裕太を見かけなかったかと聞いた時、あの母親はそんなことは言ってなかったのだから。
「裕太、それホントなの?」
「うん。途中っていうか公園の前だけど、車でバーッと来て、彩ちゃん見なかった?って。それで朝しか見てないって言ったら、早く家に帰りなさいって言って車に乗って行っちゃた。僕さ、ちょっと気持ち悪かった。」
真希子は思わずゾッとした。以前、彩音に家のことを尋ねた時の返事に首をかしげたことを思い出した。自分の家の中がお城のようになっているとか、ピアノがあるとか、ドレスを買ってもらったなどと無邪気に微笑みながら答えていたのだ。
「おい、彩音ちゃんのお母さん、裕太を見てないって言ったのか?」
パパが顔を曇らせた。
「見てないどころか、裕太もいなくなって、って言ったら、それじゃ彩音と一緒なんじゃないですか?って。まるで裕太が彩音ちゃんを連れ出したみたいな言い方で怒ったのよ。」
「なんかおかしいな。」
「ねえパパ、ちょっと様子、見て来てくれない?」
「そうだな。電話番号も知らないんだから見てくるしかないか。」
パパは急いで出て行くと、あっという間にドタドタと帰ってきて叫んだ。
「おい!あそこんちの前にパトカー止まってたぞ!」




 家の周りのどこを探しても『小さな春』はどこにもなかった。
 生活の時間に『身のまわりの小さな春をさがしてみよう』という宿題が出された。実際に春の証拠を誰か明日持ってきてくれる人!と先生が言った瞬間、彩音も手をあげてしまった。これなら簡単にできると彩音は思った。普段の国語や算数の宿題はやったりやらなかったりだけど、何か見つけて持ってくればみんなに見直されるかもしれない。先生にも褒られてみたい。帰りの会が終わると、手をあげた子はそれぞれ仲の良い同士で放課後一緒に探しに行く約束をしている様子だったが、彩音に声をかけてくれる子は誰もいなかった。
「おまえどうすんだよ。持ってこなきゃ嘘つきだからな!」
いつも意地悪してくる拓也が大声で言った。他の子は遠巻きに見ているだけだ。
「ママと一緒にいーこおっと!」
彩音は誰にともなく、独り言としては大きすぎる声でそう言い、いそいで教室を出た。後ろから拓也の声と女の子たちの嘲笑う声が追いかけてきた。
「おまえのかーちゃんパチンコ屋!おまえのかーちゃんプータロー!」
 
 帰ってみると家の前にまたあの男の人の車があった。戸を開ける前から男の人の怒鳴る声とママの怒鳴る声がしたので、玄関先にランドセルをそっと置いて一人で外に出た。その辺を探してみたがこれといって収穫はなく、公園の方に行こうとしたらクラスの女の子が何人もいて、彩音はいそいで踵を返した。健児君のところにも行ってみようかと思ったけど、ハムスターと遊んでいたらきっとすぐ夕方になってしまいそうなので、やっぱりやめた。河原の方に向かってみたが、今度は拓也たちの姿があった。彩音は慌てて走り去った。
 家に戻ると男の人の車はなかった。部屋の中はメチャメチャに荒れていて、ママが泣いていた。彩音は黙ってしばらく様子を伺ってからママに言ってみようと思った。
 恐る恐る宿題のことを告げると、怒られるかと思ったけど、ママは「車に乗りな。」と言った。彩香がウンと頷いて上着を着ると、ポケットにミルキーが1つ入っていた。この前、健児君のママにもらったやつの残りだ。




 運転席の母親の横顔を、彩音は盗み見た。不機嫌そうに煙草をくわえてハンドルを握っている。どこに連れていってくれるんだろう。さっき彩音がラジオのスイッチを入れたら女の人の歌がかかっていて、それが「あいしてる~あいしてる~」と歌っていたけど、ママは無言でラジオを消してしまった。きっとあの男の人とケンカして悲しいんだろう。かわいそう。しばらく走ると、ママが始めて口をきいた。
「あとちょっとで着くから。ママ子供の頃あそこの山の谷のところでフキノトウとったから。」
「フキノトウって?」
「いいからそれ持っていきな。」
なんだかわからないけど、きっとそんなの誰も持ってこないような気がする。すごい!きっとみんなビックリする!先生も褒めてくれる!彩音は嬉しくなった。そうだ、ポケットにミルキーが入ってたんだった。彩音はそれを口に入れた。甘く優しい味が広がった。そういえばママも子供の時に食べたって言ってたな。ミルキーはママの味、っていう歌があったって。なんだかウキウキしてママの横顔を見たが、相変わらず無表情だった。彩音は黙って口の中のミルキーを転がした。




 「ママ、あった?」
彩音の心配そうな声。たしかこの辺りにあったはずだ。女は一応、足元をあちこち探してみた。あの日は自分の母がこうやって下を見ていた。あの時、母は本当に探す気があったのだろうか。もしかして偶然見つけただけではないか。足元を見ているうちにその考えが確信に変わってきた。私はあの時、谷を見下ろしてこう聞いたんだった。
「お母さん、ここ、深そうだね。」
母は無表情に呟いた。深いよ。落ちたら死ぬよ。あの頃、母は父によく殴られていた。私も母に時々殴られていた。私はあの時、ぽっかりと口を開けて獲物を待っているような谷底の暗闇を見て、怖いね、とは言えなかった。本当に怖かったから。母が。

 あ。女はしゃがみ込んだ。男に殴られた脇腹のあたりがクッと痛む。あった。薄緑色のまだ固そうな蕾が、柔らかい葉に包まれている。女はそれを採った。振り返ると彩音が谷を見つめていた。女は娘を見て、急に愛おしい気持ちになった。
「彩ちゃん、あったよ。」
彩音は顔を輝かせて母親に駆け寄った。
「わあ!すごいすごい!ママありがとう!」
手を繋いで谷の淵へ歩き、暮れかかった空を仰いだ。もうすぐ陽が沈みはじめる。歪んだ太陽が、向こうの山の曇り空に、くすんだ茜色をにじませていた。
 手を繋いだのは久しぶりだった。小さな手は少し冷えている。肩を抱いてやると彩音が顔をあげて嬉しそうに微笑んだ。
「ママ、ここ、深そうだね。」
少女の右上の奥歯の溝に、車の中で食べたミルキーがくっついている。母親に守られているという安心感から心持ち前のめりになって谷を覗き込みながら、奥歯を舌でなぞった。甘く優しい味が残っている。少女の肩を抱いていた女の手が、不意にその背を押した。

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