2007/10/31

HOME

 よく晴れた、春の一日だった。急かせるような運動会のBGM。その軽快なメロディが思い出に重なるのは記憶の加筆修正だろうか。
幼い涼子は半袖を着ていて、たんぽぽ組の園児たちと一緒に目の部分だけ二つ穴を開けた茶色の紙袋を頭に被って先生に導かれ、グラウンドの定位置に立っていた。スーパーやドラッグストアでナプキンを買うとレジでピッとした後にすかさず登場する、あの無表情な薄茶の紙袋だ。涼子は今でもあの袋を見ると、すすけたような乾いた紙の匂いと遠い哀しみに胸が痛む。袋を被った子供たちは横一列に並んで、スタート地点にいるそれぞれの父親を探してドキドキしている。お父さんは顔が見えなくても本当にちゃんと自分を見つけ出してくれるだろうか。もし他の子と間違えたらどうしよう。丸い穴からの狭まった視界からお父さんだけを見つめて不安を抱えて待っている。
よーい・・・パンッ!
火薬の匂いを連れてお父さんたちが一生懸命走ってくる。カーブに差しかかり、お父さんの左半身だけが見える。ここ!私はここにいるよ!お父さん!お父さん!紙袋の中で自分の声がこもって顔が火照ってくる。バタバタと父親達が駆け寄り必死に自分の子供を探す。父は少しも迷うことなく涼子の腕をとり、二人は先頭を切って手を繋いで懸命に走った。もう片方の手で紙袋が脱げないように押さえながら走っていると自分の荒い息が耳に伝わってくる。ゴールのテープを持つ先生が見える。すると父は涼子を片手でヒョイと抱えてダッシュし、テープを切った。一等だ!
すかさず蒸し暑い空気と共に紙袋が脱がされた。歓声と青空と誇らしさが一斉に身体を包み、涼子は父親の力強い腕に抱き上げられた。お父さん、すぐに私だってわかったんだね!すごい!やったー!一等賞!
 競技が終わってすぐに昼食の時間になった。忘れもしない。その一瞬が来るまでの全てを涼子は憶えている。
二人でテントのところに行って一等の鉛筆をもらった。そのまま母と兄が待つ場所に歩いていくと、レジャーシートにはすでに美味しそうなお弁当が広げられていた。近所のおばさんたちの笑顔も見える。その輪の中に、一等だったよ!と叫びながら涼子は飛び込んだ。みんなの拍手が迎えてくれる。お母さんが作ってくれた、いなり寿司、鶏の唐揚げ、卵焼きの眩しい黄色、タコのウインナーの赤、最高の気分!
「ダンナさんすごかったわねー!顔見えないのに、よくすぐに涼子ちゃんだってわかったわねー!他のお父さんたちは迷ってたのにねー!」
よそのおばさんたちまでもが父に感心していた。父も満足げに笑っていた。涼子はただただ誇らしく、嬉しく、幸せな気分でお弁当を頬ばっていた。
「ほんと、よくわかったね!」
母も弾けるような笑顔だった。そして父が自慢げに、満面の笑みで答えたのだ。
「涼子は腕に傷があるから顔なんか見なくてもすぐにわかるんだ!」



 45分23秒の表示を見て、涼子は深々と溜息をついた。疲れた。長い電話だった。椅子の背に身体を預けて大きく伸びをする。ほわぁ~と大あくびをするとキッチンのクリーム色の天井と蛍光灯の輪っかが目に入った。薄いグレーの蛍光灯カバーを見て思い出した、そうだ去年母が家に来た時に目ざとく汚れを見つけてマジックリンで拭いていったんだっけ、ああ・・・。
 パソコンのデスクの灰皿にはキッチリ根元まで吸った3本の吸い殻が転がっている。母との電話中に落ち着きを取り戻そうと吸ってしまったが、ライターのカチッという音だけは聞こえないように目一杯に腕を伸ばして火をつけたのだった。母は煙草が大嫌いなのだ。不毛な言い争いの火種は無い方がいいに決まっている。
 離れて暮らす歳のいった親と穏やかに話ができる穏やかな大人になれたらどんなにいいだろう。ねえお母さん正月はさすがにそっちは寒いばっかりだから帰れなかったけど暖かくなったら子供たちを連れて帰るわ華織もその頃には受験を終えてるんだし芯一だってワーイワーイって喜ぶに決まってるものそうだ温泉行こうよいいじゃないたまにはお父さんから離れてゆっくり温泉つかって上げ膳据え膳でのんびりしようよそうねえそれもいいわねえでも涼子ダンナさんだって身体具合よくないんでしょ大丈夫なの大丈夫よウチの人ならきっと喜んで行ってこいよって送り出してくれてお小遣いだってくれちゃうわよおアハハそうねえそれじゃあ3月になるのを楽しみにしてようかしらアハハオホホウフフ・・・ありえない。
 コーヒーはすっかり冷め切っていた。珍しく自分のためにだけに丁寧に淹れたのに。もう10年も前から元夫の家で暮らしている娘の華織との電話で温かい気持ちになっていたところだった。学校の模試や塾の都合でしばらく会っていないので、明るい声を聞いて安心した。昨日、私立の推薦入試をまず終えての束の間、解放された気持ちが晴れやかに伝わってきた。涼子は心からゆったりとした気分になり、波乱含みの人生のひとときの安らぎというものを、ひとり噛みしめていたのだった。
 母からの電話はコーヒーを一口飲み終えたところにかかってきた。モシモシの一言だけでピンとくる。酒を飲んでいる時の舌のもつれ具合を顕著にした不穏な第一声を聞いた涼子は、あと少しで完成というところまで並べたドミノが何処からともなく現れた黒猫の後ろ足で無惨にもタタタタと音を立てて崩れゆくイメージに囚われた。猫はいつでも自分がしでかしたことなどお構いなしに尻尾を高々と上げて歩いてゆく。
華織を手放さなければならないと決意した原因の1つが、ほかでもない、母のアルコール依存症だった。夫と別れて母子で暮らすことを最後まで諦められなかった涼子だが、実家という『戦場』に娘を連れて行くことは、どうしても出来なかった。
 話していたのはほとんど向こうなのだが、一体全体、会話のどこら辺から愚痴を聞いてやる気持ちになってしまったのだろう。もしかして取り返しのつかないことを言ってしまったんじゃないだろうか。
カップの中身をシンクに捨ててから湯を沸かす。換気扇のスイッチを入れてフォーン・・・という唸りを聞きながら、涼子は次第に絶望的な気分に陥りそうになってゆく。毎日立っている台所の床にわずかの傾斜を感じる。
とにかく温かいお茶を飲もう。ジャスミンティーの茶葉を急須に入れながら、母はおそらくこれを飲んだことがないだろうと、ふと思ってしまった。こういうの、きっと花柄やレースのカフェカーテンが好きな母は喜ぶのだろう。ああこんな気持ちになってしまうのはきっとアレだ、午前中に聴いたあの歌のせいなのかもしれない。気分転換にHDDに録画していた幾つかの番組を早送りしながらチェックしていて、ついアンジェラ・アキの『HOME』を見てしまった。去年の紅白。再婚してから今の夫との間に生まれた、華織と10歳違いの芯一が大笑いしながらDJOZMAのシーンだけを何度も見ていたために、次の出番だったその歌からのスタートになっていたのだ。普段から切なくなるような歌はなるべく避けていたのに、ついつい聴き入って涙してしまった。
東京郊外に家を新築した兄夫婦の元へ父と母が同居することが、涼子の知らないところで決まっていた。実家は数年後には無くなってしまう。故郷がなくなるということなど実感できずにいた涼子だが、父が昨年前立腺癌を患い、兄のつてで東京の大学病院に手術入院したあたりから事が現実味を帯びてくると、言いようのない寂寞の思いが胸の奥のどこか片隅から染み出してくるのだった。父が癌になった、という母の言葉に涼子は何の感情も抱かなかった。そっかぁと呟いてから言葉が続かなかったのは、親の病気にショックを受けない娘である自分の姿を、興味深く見つめていたからにすぎない。失いたくない自分にとってのHOMEは両親ではなく、帰ることのできる唯一の場所である故郷の馴染みのある風景や友人や、自分の過ごした家という建物そのものかもしれないというシンとした思いを抱いたのだった。
 琴線に触れるものを遠ざけるのは、叶うことの無かった願いや理想へのあきらめに再度向き合って涙するのがあまりにも哀しく、虚しいからでもあろう。
 ヤカンの口がシュンシュンなきだした。火を止める。頼りなく立ち上る湯気がファンに絡め取られてゆく。換気扇を止める。静かだ。今はまだ静かだ。注意深く急須に湯を注ぐと、華やかな茉莉花の香りが優しげにふんわりと広がった。



 「涼子は腕に傷があるから顔なんか見なくてもすぐにわかるんだ!」
記憶はそこで途切れている。
幸せは、父の無神経な一言によって無惨に踏みつけられた。幼いながら、涼子は父の言葉によって頭を殴られたような衝撃を受けていたのだ。運動会のこの競技の初めから父の一言まで。そこだけを鮮明に記憶しているということが全てを物語っている。
 涼子の左肘には13センチ程の、歪(いびつ)な手術跡がある。肌の色より白みを帯び、皮膚よりも薄い皮で覆われて妙にツルツルしていて、縦の線に短く横線が5本入っている。まるでムカデが這っているようだ。勝ち気な性格の涼子ではあったが、半袖の季節になるとやはりいつも腕の傷を晒さねばならないことが辛かった。この傷痕ができたのは父のせいなのだ。
 当時3歳だった涼子は、5歳の兄と共に自転車に乗せられていた。涼子はハンドルに掛けた子供用の補助椅子に、そして兄は父の後ろに。自宅と目と鼻の先にあるスーパーの前で父は自転車を止め、子供たちを乗せたままひとりで買い物に行ったのだ。今や二人の子持ちとなった涼子は思う。父は相当の不注意をしでかした。不注意どころではない、子供を二人乗せたまま自転車を離れるなど涼子にとって考えられないことなのだ。自転車は左側に倒れた。兄は倒れる寸前に飛び降りたという。しかし3歳の子供が危険を察知して一人であの補助椅子から降りられるはずもない。幼い涼子は左肘をアスファルトに打ちつけて腕を複雑骨折した。誰がどう見ても親の不注意による事故だろう。涼子はボロボロになった骨を何カ所も金属のボルトで固定する手術を受け、その後2度も傷口を開かれた。
一度目の手術のあとに水を飲んではいけないと言われて、喉が渇いた、お水が飲みたい、と母に何度も訴えたことを憶えている。母はそのたびに涼子をなだめようとした。
「今ね、断水でお水が出ないの。だから我慢してね。」
3歳の涼子はその時、母にウソだ!と言ったらしい。
「うそ!さっきお水が流れる音が聞こえたもん!」
この時の母に対する漠然とした不信感というのも鮮明に憶えている。不信感という種類の気持ちであることは、もっと大きくなってから涼子自身が当て嵌めたものだろうと思うが、どんなことがあっても守ってくれるはずの母親がなぜ嘘をつくのか、それが見え透いた嘘であることに混乱したのだ。当時の記憶が後々の夢や思い込みなどによって徐々に修正されていったにしても、その時のショックというのは確かに残っているのだった。
 人生で一番最初に自分を傷つけたのは父親であり、人生で一番最初に自分に嘘をついたのは母親だった。

 

 父親の不注意によって怪我をして身体に大きな傷を残したこと。その怪我が父親のせいだと思ってはいけないと何度となく母親に言い聞かされたこと。自分のせいで子供に怪我を負わせ傷痕を残すことになったにも拘わらず人前で傷が目印になったなどと無神経な発言をした父親。一番心細い時に浅はかな嘘で子供を丸め込もうとした母親。
幼い心に宿った親への不信感と、それに続く両親それぞれの、さまざまな場面でその後も感じることとなる道理の矛盾について、涼子は子供時代から思春期、大人になるまで幾度となく考え続けてきた。親に信用がおけない子供である自分自身を解明しなければならなかった。それこそが自分の存在に関わる、存在を左右する、大きな問題であると感じていたからである。
しかし疑問に思うような感覚のズレや正当性をもって自分が信じる意見を父にぶつけたとしても、それは常にうやむやにされて最後には単なる不毛な言い争いになるだけだった。父の皮肉と罵倒、母の涙と嫌悪、涼子と父の喧噪の嵐。兄はというと、いつも一歩離れて客観視しているような印象があったのだが、歳を重ねるごとにそれは単なる狡猾な戦略であったのではないかとも思えるのだった。
 親に憎しみがあることが辛いと思ってきたが、成長するにしたがって、どうにも埋めることができないその隔たりに諦めも感じていた。
 涼子は大人になってから、幼い頃の怪我のことを謝ってほしいと父親に真剣に申し入れたことがある。言い争いの最中に時折、父本人によって糾弾される、涼子という娘が持つ親に対しての冷徹。そこを突かれるたびに涼子は自分の不信が始まった原因を無意識に少しずつ解き明かそうとしていた。ある日、涼子の唐突に口から発せられた言葉によってそれは遂に明らかにされたのだ。
「私を責めるならその前に私に謝って!私の腕に傷をつけたことを心から謝ってよ!」
父は呆れた顔をして、なんと吹き出したのだ。それから蔑むように言った。
「今さら何を言っている。おまえは気が狂っているんじゃないか。そんな昔のことを根に持っているなんて普通じゃない」
一度でも『すまなかった』と謝ってくれたら、と思う気持ちもいつの頃からか薄れ、単なる憎しみと侮蔑に色を変えていった。父は母に対しても涼子に対しても同じ言葉を使ってなじり、母方の親戚を罵倒する時もまた同じであった。おまえらは一緒だな、と。
 人を褒めるということがなく、人の意見を独断で決めつけ、明らかに自分が悪いという時にさえ何かのせいにして謝ろうともしない父親が心底嫌いで、その父親に馬鹿にされながらも子供には父を尊敬しなさいなどとうそぶき、酒に溺れて父に喰ってかかり、酒が切れると何事もなかったかのように振る舞う母親が嫌いなのだった。

 

 「もしもしぃ、りょーこぉ?」
この阿呆のような母の発声を聞くたびに、電話をとらなければよかったと心から後悔する。気持ちに形があるならば、その穏やかな時の滑らかな球形の表面に、一斉に無数の鋭い棘が現れるような感覚と言えばいいだろうか。理性が失われてゆくことを止められない自分の顔を覆いたくなる。
「はいはい」
なんとか返事はするが話しを続ける意志はない。なるべく手みじかに終わらせようとする癖がついている。これは母がアルコール依存症を患っていた時期からの、言うなれば子供としての涼子自身に残った後遺症だ。誰もそんなことは認めてくれないが。
「あのぉ、昨日ねぇ、かおりちゃんにぃ、受験のお守り送ったからぁ、あれぇ届いたぁ?おかしいなぁ、まだかなぁ。」
送ったのは昨日なんでしょ。まだ届かないよ。明日でしょきっと。
「そっかぁ、あのぉ、かおりちゃんにぃ、電話したんだけどぉゆうべねぇ、後ろでぇ、赤ちゃんの声がしたんだけどぉ、私なんにも言わなかったからねー、ホントにぃ気づかないふりちゃんとしたからぁ。」
ああそう。別に声がするネぐらい普通に言ってもいいんじゃないの。
「だってぇ、そんなこと言えませんよぉ、なんでそんなこと言えるのぉひどいよぉ。」
あのね。華織は何であれアッチの家で普通に生活してるんだから必要以上にかわいそうに思ってもらっても困るんだって。いくらパパがフィリピン人と一緒になって赤ん坊が生まれたってことが世間的には到底普通じゃないとしてもそれが華織の日常だってことは事実なんだしね。全部肯定した上で接してやることが愛情ってもんだと私は思いますけど。
「ええーっ、そんなことぉ、だってぇ言えないでしょぉ常識的にぃ、私だってそれくらいのことぉ、ちゃんとぉ、わかってるつもりだかえらぁ、それでぇ、がんばろうねって言ったしぃ。」
・・・・・・なんだよそのあなたの常識ってのは。
「それでぇ、あっちのパパの方にぃ、私もちゃんとお願いしますってぇ、言いたくてぇ、電話してもいいかなぁ。」
はぁ、あのさ、言いたいことがあるのならいちいち私に聞かないで自分で判断して電話すればいいじゃない。
「だってぇ、一応ぉ、りょーこに聞かないとと思ってぇ。」
お願いしますって何をさ。
「かおりちゃん受験だしぃ、これから大変な時期だからよろしくお願いしますってぇ。」
言いたかったら直接電話して普通に言えばいいんじゃないの。
「りょーこはなんでぇ、そんないつも私をばかにしたようなこと言うのぉ、もぉ、もぉお父さんそっくりなんだからぁ、あああああああああああああああああ。」
あの。なに泣くことあるの。バカにしてるわけじゃないでしょ。言いたいことがあるのなら電話すればいいって言っただけなんだけど。
「だってぇ。言えるわけないじゃないのぉ、なんでぇ、私があっちに電話できるのよぉ。」
あの。なんでって。電話したいって言ったのお母さんでしょ?なんで泣くわけ?そういうの支離滅裂って言うと思うんですけど知ってますか?いつも言って悪いんだけど主語とか述語とかわかってますか?
「だってぇ、さっきもぉ、お父さんがぁ、あああああああああああ、あんたたちそっくりだわぁ、あああああああああ。私はどうせバカでぇ。あああああああああああ。」
あのね。話が話になってないでしょ。どうしたいのさ。結局お父さんと喧嘩した愚痴ってことですか。
「愚痴ぐらい私だって言いたい時もあるでしょぉ、なんでぇ、あんたはいつもそう冷たいのぉ、いつもぉ、どうせ私はバカでぇ、あああああああああああ、私だってぇ一生懸命ぃ、今日は久しぶりにぃ、町内の体操教室に行ってぇ、そこで私なんかもう一番歳とってるしぃ、仕事も行ってぇ、お父さんも病気になってからやっぱりぃ、私だって歳だしぃ、愚痴言える人もいないしぃ。」
あの。お母さん。もう歳なんだからいい加減自分のストレスぐらい自分で解消する方法学びなさいよ。お父さんと喧嘩になったら近所に酒でも飲みに行くとかして歌でも唄ってくればいいんじゃないの。ぐじぐじ我慢してるからいつもそうなるって自分でわかるでしょ。
「はっ?なに。私だってストレスあるでしょ。愚痴言いたい時もあるでしょ。りょーこだってそういう時があるでしょ。」

 突然母の口調が変わる。まともに相手をしている意味を見出せなくなり、胸の奥に、とぐろを巻いた蛇が再び鎌首をもたげはじめるのを、はっきりと感じる。お父さんとそっくりだと私を罵る母。お母さんとそっくりだと私を罵る父。蛇が先の割れた真っ赤な舌をチロチロと覗かせる。ところであんた酒飲んでるだろ?と問い詰めたくなる。だが問い詰めたが最後、自分の中の蛇をなだめることはできない。母は母で酒のことを言われたが最後、キッカケを手に入れて本腰入れて酒を飲み出すかもしれない。
こういう瞬間が一番危険なのだ。深呼吸をして、目を閉じ、母の意識を開放に向かわせるため、自分をコントロールするべく、涼子は話し始めた。

あのさ。私にはストレスなんてもん一切ないのよ。悪いけどね。あなたのダンナなんかよりウチのヒトはそれはもう比べモノにならないほど人間ができておりますから。御陰様で私は全く幸せなんですよ。お父さんや兄貴みたいに上からばっかりモノ言って女に言うこときかせようなんていう下品な人間じゃないんでね。
「ハァ~そうなんですか。ふ~ん。そういえばこの前お兄ちゃんところの・・・」

 切り替えが功を奏し、母はそれから調子に乗って嫁の悪口を控え目にではあるが言い始める。思う存分言いたいことを引き出してやろうか、と涼子の気持ちにも少しの余裕が生まれた。

兄貴も自分が努力家で勉強家なもんだから息子が思うような成績じゃないと納得いかないんでしょうよ、きっとガミガミ怒鳴って子供を追い込んでるんじゃないの、嫁さんも嫁さんで口うるさい方だからまったく息子はかわいそうだよガハハハハハハハハハハ自分とこの息子よりこんな私の娘の方が頭いいもんだからますます納得いかなかったりしてゲラゲラゲラいやとにかく兄貴の息子はきっと優しい性格だから言い返せないんだよ本当に気の毒だよああいう子っていうのはほっといてあげればいいのにさ私みたいな奴はホントよくわかるんだよね追い込まれると人間逃げたくなるのが本能ってやつでしょ逃げおおせればまだ救われるってもんだけど最近は逃げ方もわかんない子が多いからそういうとこが怖いんだよなそういうとこ兄貴みたいな優等生には絶対わかんないんじゃないの?まったくアハハハハハハハ。

 涼子は母が乗っかった罵詈雑言満載ストレス発散の舟をエッチラオッチラと漕いでやる。と、突然また母が泣き出す。口調はいつの間にかまた幼児化している。
 結局は父の病気を苦にして不安で一杯になっている自分という存在を理由にして、母はまた隠れて酒を飲んでいるのだ。言いたいことをすべて封じ込める日常が突破口を求めた時に酒の勢いを借りて涼子に電話してくるのだ。自分の思い以外の何もかもを考えることができないでいるのだ。そんな愚かで小さくて情けなく震えている母という老いた人間を冷たくあしらうこともできず、涼子は意味不明の、文章として成り立ってもいない言い分をぼんやり聞きながら煙草にそっと火をつけた。これで少しは救われたと思えるかい?だからおまえは母親のくせに私の子供のように泣くのかい?
 父と母が兄夫婦の元へ行ったとしてもどうせうまくいきっこない。母は再び膨大なストレスを抱えて病んでゆくのだろうし兄嫁は噂のヒステリーを頻繁に起こすことになるだろう。父は誰の言うことも聞かずにジジイの頑固さと狡猾さを増して周りに不愉快さを撒き散らすのだろう。働き盛りのエリートである兄貴は家を空けることも多くなるはずで、無法地帯と化すであろう東京郊外の一軒家に於いて家族という名の元に巻き起こる戦闘の犠牲になるのは、折しも、ちょうど、いや最悪なことに、時期的に思春期の危うさを抱えた兄貴の息子二人であるのだろう。
 800kmを隔てた北方から左耳に送られてくる母の酔いにもつれた発音と会話慣れしていない言葉運びを聞きながら、涼子はここ数日のニュースをつらつらと思い浮かべていた。弟が妹を殴りつけ絞殺しノコギリで切り刻む。妻が夫をワインのボトルで殴り殺し切り刻んでキャリーバッグに詰め込んで捨てる。母親が娘を川に突き落とす。母親が幼い息子をなぶり殺しにする。臍の緒のついたままの嬰児の遺体がドラム缶に投げ捨てられる。息子が家に火を放って家族を焼き殺す。
 
あのさ。お母さん。ウチの人は懸命に仕事して稼いで家を建ててくれるって言ってるから。生きているうちにそれが叶ったら、お父さんやお母さんを呼んでやればいいって言ってくれてるんだからさ。だから余計な心配しないでなんとかお父さんと仲良くして下さいよ。

 あああああああああああこんなことまだ言うつもりじゃなかったのに。母は電話の向こうでありがとうありがとうと言って泣き崩れ、こんなバカみたい私でもとかなんとかまたワケのわからないことを喋っている。あのねえお母さん、女は自分のことを必要以上に卑下しちゃダメなんですよ、わかりますか。すると母はまた突如として豹変し、涼子あんた本当に頭いいわ。なんでこんなに頭いいんだろうか。知らなかった。はあ~凄いわ。涼子は凄い。今日はたくさん話ができて本当によかった。と言って爽やかなセリフと共にやっと電話を切った。頭蓋骨の内側に不透明の細かな泡がびっしりと貼りつくような不快と疲労が襲ってきた。


 時計を見上げて涼子はハッと我に返った。もうこんな時間。冷め切って残り香もないジャスミンティーの残りを一息に飲み干す。できるところまで夕食の準備をして保育所に行かなくては。仕事先の都合で急遽休みになったため今日は少しラクをさせてもらって早めに芯一を迎えに行ってあげようと思っていたのに、結局いつもの時間になってしまった。涼子の顔を見つけて、先生にサヨナラの挨拶をしてから腕の中に飛び込んでくる時の芯一のいつもの笑顔がなぜだか遠く懐かしく感じられて、胸が苦しくなりそうだった。 
 大根をサクサクと銀杏切りしながらも頭の中は暗澹たる思いに絡め取られてゆく意識を引き戻そうともがいている。沸騰しそうな鍋から昆布を取り出してゴボウのささがきと大根を入れる。アルコール依存症の真っ直中にいた頃の母に対する黒々とした憎悪と殺意を思い出す。倒されたソファー、ピアノの椅子、トイレの便座や床に座り込んだままヨダレと垂らして眠る母。炒め物用のニンニクを刻んでおいて小皿に取り置く。階下から猛獣の遠吠えのように父を愚弄する即興の歌を唄ってはケケケケケと笑う声が聞こえていた夜。白菜の漬け物も一株切っておく。勉強の合間に足音を忍ばせて階段を下り浮浪者のようにだらしなくいぎたなく酔いつぶれた母を見る時の絶望。全てを彷彿させる母の幼児性を帯びた話し方に誘い出されようとする黒々とした感情の塊から息をつめて目を逸らす。鍋に鰯のすり身をスプーンで少しずつ落とし込む。酒に酔った母のモシモシの一言を聞いただけで身体中を怒りが駆け回り無言で電話を切った日々を思い出す。そして5年後10年後、その先を思う。その時、自分より一回り以上年上の夫はまだ生きていてくれるだろうか。それとももう既にこの世の人ではなくなってしまっているだろうか。娘は結婚しているだろうか。自分を見下ろすほどの背丈になっているだろう息子は。父親は。母親は。なにより自分は健康でいるのだろうか。弱火にして味噌を溶き入れる。介護生活に疲れ切った自分の皺だらけの顔が目に浮かぶ。ネギを刻んで小皿に移しラップをする。老いぼれた父や母の寝顔を見て涙を流すのだろうかそれともそのドス黒くたるんだ首に手をかけようとする日が自分にも訪れるのだろうか。
 遠ざけてきたはずの呪縛が今度こそ避けようのない人生最後の危機として彼方から音もなく、確実に一歩、自分に近づいてきたような気がした。換気扇の音だけが響き渡る。ふと窓の外を見ると日は暮れかかり、一日じゅう雨雲の灰色に支配されていた空は更に濃い闇の墨汁に塗り潰されようとしている。
 今、やっと。やっと穏やかな自分の家を家族を持つことができたばかりなのだ。この大切な守るべき場所に父と母を招き入れる約束をしたわけじゃない。まだ約束したわけじゃない。換気扇の唸りを止める。静かだ。今はまだ静かだ。
 外の暗雲など遮断してしまえとばかりに涼子はカーテンを勢いよくひいた。左肘の古傷の奥で、遠い昔に辛うじてつなぎ合わされた骨が、ひそかに鈍い音を立てた。