2007/11/02

廃墟の男

 書き留めておかなくては。すぐにでもそうしなければ一日中その風景に囚われ、その世界に閉じこめられてしまいそうな予感がしたのだ。なに、たかが朝方にみた夢だ。夢の中の記憶に過ぎないのだが。
 粒子の粗い、カタカタと背後で微かに音が鳴っているような、8mmフィルムの映像。私は誰かを訪ねて知らない土地を彷徨っている。砂丘だ。赤茶けた砂が延々と続いている。赤茶けているというのもおそらく単なる私の観念であって、私は実際に砂丘というものを見たことがなく、夢の中では全体がぼんやりと薄い膜がかかったような掴みどころのない、心細く頼りないばかりの場所であり、ただそこが砂丘だと思えば少しは気がラクだったからそう思っただけに過ぎない。
 あてどもなく歩き続けているうちに彼方に何か塔の先端のようなものが見え始め、やがてその下に“楼閣”といった風情の輪郭をもって建物の全体像が現れてきた。私は行き先を確かに捉えたことに安堵しながら、砂上を歩く重い足取りを休めて、その建物を眺めた。まるで逆光に遮られているかのように目を細めて額に手をあて、小高い位置にあるその建物を凝視する。あれは…モン・サン・ミッシェル…そう、そんな雰囲気。海と砂の中に突如として現れる、孤高の僧院のようだ、と私はぼんやりと思っている。思いながらも、そんなことをいつ知ったのだろうかとも思い、しかしすぐに別の私が「これは夢だから」と冷静に呟いた。
 不安定な意識がアメーバのように増殖してパニックを起こすことを回避するために、夢の中の自分に「夢だから大丈夫」と言い聞かせることはよくあることだ。そしてそのように思うことによって歩く気力をなんとか取り戻そうとした。何か動いている。ヒラヒラと何かが。手を振っているのか。いや誰かがこちらに向かって、ゆるりと手招きしている。


 ああ、あそこだ。再び歩き始める。私は何故か、前より速度を速めたと相手に気づかれぬように、努めて冷静な足運びを心がけている。少しほっとして弾んでいる心の動きを悟られたくないと思っている。というより不安を感じていたことを知られてはならないと思っているのだった。砂に足をとられているこの緩慢な歩き方を無様であるとも思われたくない。慣れたふうに、顔色も変えず、焦りを見せずに。そう、そうだ、慎重に。時折その誰かを確認しながら楼閣を目指すが、揺らめく影はそのうち奥に引っ込んでしまったようだ。

 失礼な。呼びつけたのなら見守っているべきじゃないか。呼びつけた?自分はその人物に呼びつけられたのかこんな場所に?そうなのか?
 一体今は何時頃なのか、夕暮れ時のような気もするし朝方のような気もする、白夜であるのかもしれない。時のない世界。一瞬そんな思いに囚われ慌てて嗤い飛ばす。嵌められてなるものか。

 近づいていくうちに、その建物が思ったよりかなり小さいだけでなく、寂れきったアパート、いや長屋といった印象の建造物の跡地であることがわかってきた。最初に見えた塔などは、荘厳なイメージとは程遠い、痩せこけた給水塔の化石のようだ。モン・サン・ミッシェルだなんて思い浮かべた自分を嘲笑う。勝手にいいように想像して勝手に騙されたと思い込む単なる馬鹿だ。
 ここはまるで廃墟だ、廃墟どころか、魔窟の九龍城みたいじゃないか。とたんにまた不安が蔦のように足元から徐々にまとわりつきはじめる。蔦を払う剣はない。剣のかわりに私は身を守るべく怒りの感情を持ち出すのだ。腹を立てていることにする。こんな小汚い所へよくも。私は逢うべき男を探している。男。そう私をここへ呼んだのは男だ。
 なんとも心許なく、踏みしめ甲斐のない底なしの砂はやがて、建物のアプローチの存在を足の裏に感じさせる。見上げると砂粒に煙る廃墟は窓の穴だらけの一匹の怪物のようでもある。ゴオオオと穴から穴へ空気が渡る地鳴りのような音がしそうだ。風など1ミリとて吹いていないのだけど。
 おそらく私は自分以外の何か動く存在を求めているのだろう。心に畏れを認めるのが怖いのだ。いけない。あの男に見破られてしまう。自分を奮い立たせて歩むしかないのだ。


 始めに覗いた一室に、男はいた。一室、とはいっても屋根がない。そこは四方ではなく三方が壁(であったと思われる崩れかけた仕切り)であり、足を踏み入れて仰いだ天のフレームは“過去を回想した場面で使われる擦り切れた空の映像”のようであった。その男は長椅子のようなものにゆったりと腰掛けている。白っぽい、簡素な服。襟ぐりは丸く、長袖の袖口は広い。麻だろうか。着心地の良さそうな軽い素材であるようだ。頭からストンと被ってお終い、といった、まるで丈の長いワンピースのよう。そしてその下から伸びる、骨張ってはいるが屈強な素足。
 男の素足というものが、私は苦手だ。苦手ではなく本当は好きだ。例えば男の手の厚み、或いは薄さ、指の長さ、動きといったものに女が性的な魅力を感じることがあるとすれば、素足には表情が乏しいだけに、その人間に隠された素性があからさまに見えてしまうような気がするのだ。何故そう思うのかはわからない。同性の素足には何も感じないのに、何気なく投げ出された男の足を見るたびに私は居たたまれないような羞恥を感じるのだ。その男の素足は、その男の存在感そのものだった。

 「ようこそ。」と聞こえたような気がする。微笑んでいる、いや薄笑いだともいえる…イヤな感じだ。でもきっと、この表情をイヤな感じだと受け止める人はいないだろうと私は思っている。おそらく私だけにはそう見えるのだ。きっとこの男は如何なる場所に居ようとも、こういう風情のままで存在できる種類の人間なのだろう。たとえガンジス河の淵で河に死体を投げ入れる人間がすぐ横で悲しみに暮れていようとも、紫煙とアルコールの饐えた匂いが充満する雀荘であろうとも、一日の終わりを途方に暮れた眼差しで見送る人々で溢れかえる地下鉄の車内であろうとも。いつだって沈黙のままに「ようこそ。」といった優雅な面差しでそこにいるのだろう。
 私はいつの間にかそういう目で男を見ている自分を卑下している。なんて心の卑しい人間なのだ私は。そしてまだ一言も交わしていないというのに私にそう思わせる男の存在感をひどく憎んでいる。まあそこに座りなさい、という柔らかな表情に促されて、自分の座るべき場所を探そうと足元を見る。そして一面に小さな虫螻どもの蠢きを見、総毛立つ。


 私は目覚めてすぐに、今日一日をその夢に支配されそうな暗澹たる気配を感じ、パソコンを立ち上げてメモ帳に書き留めた。


    知らない場所へ、知らない奴に呼ばれて辿りついた

    部屋には天井が無く途中から砂丘に繋がっている

    床は一面紅いダニと灰色のノミに覆い尽くされてた

    おれはふわふわした踏み心地の床で地団駄を踏み

    紅いダニと灰色のノミを砂丘に追いやるのに必死で

    その間中知らない奴はカラカラと嗤っていやがった



 おれ、と書いていた。これは私のみた夢ではない。そう思いたかった。その方がいいような気がしたのだ。私じゃない。この夢をみたのは断じて私ではない。他人の夢。いや架空の夢だ。書き終わって私は満足した。何故ならあの男を『奴』呼ばわりして貶めてやったからだ。夢の中では圧倒的な存在感に気圧されていた。その上、私は滑稽にも蠢く小さな無力なる虫螻どもに「うわあああ」などと上っ滑りした声をあげ、ただジタバタとするしかなかったのだから。
 これで大丈夫だ、助かった。そう思って、思った瞬間、私はかすかに恐怖を感じた。大丈夫だ?助かった、だって?
 いや。もうやめよう。バカらしい。私はほんの少し迷ってから、それに名前をつけて保存し、パソコンの電源を切った。


[2005/9]

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