2007/11/02

相似形

 なあ。なあってばそんな顔してんなよ。悪かったよ遅れてさ。今日はまたモノッ凄い天気いいわ。怖いくらい空が蒼いんだ。そういえばあんた昔っから晴れ男だったんだって?おふくろがよく言ってた。たった一つの取り柄が晴れ男。まるで日本昔話みたいにあんたのこと話してたっけ。
 いつから身体悪かったんだ?ここに来た時はもうボロボロだったんだって?あぁさっきあんたの女だっていう人に会って聞いたんだけどさ、言っちゃ悪いけど最悪じゃねぇか?趣味悪すぎだって。あんたもしかして保険でも掛けられてたんじゃねえの?
 おふくろなら5年前の春に死んじまったよ。くも膜下出血。倒れてからあっという間だった。最後の言葉も何も救急車で病院行って医者に診てもらってオレが呼ばれた時はもうあの世に逝っちまってた。独りで家戻っておふくろのゲロ片付けながら最後に喰ったのがヤキソバだってわかって、オレ泣けたよ。切りつめて切りつめて暮らしててさ。あ、知ってるかあんた?おふくろスシが大好きだったって。でも金ないからガキの頃のオレの誕生日とクリスマスには、家のメシを酢飯にしてタクアンやら卵焼きやらカマボコをネタにした握り作ってくれたんだよ。スシっぽくて豪勢だぁー!なんて言いながら、ずいぶんと安上がりに盛り上がって食べたっけなぁ。
 就職して初めての給料日だったんだその日。オレさ、おふくろにスシ買って帰ったんだよ、特上のやつ。初めて自分の稼いだ金で買って帰って、ただいまーって玄関開けたらおふくろ倒れてたんだ、電話の前で。…わかるか?聞いてんのかよ?なあ?

 それでもおふくろ、あんたのこと話す時なんだかいっつも楽しそうだった。おもしろい人だったってな。そうそう、あんたの屁が異様に臭くて、それが一番オレと似てるとこだとか言っててさぁ。もう腹立つやら可笑しいやら憎たらしいやら泣きたいやら泣きたくなんかないやら、わっけわかんねえよ。そうやっていっつもあんたをネタにしてオレたち笑って暮らしてきたんだよ。エライだろおふくろってさ、バカかもしれねえけどよ、バカがつくほど偉いって思うんだよ今は。
 オレがまだ小さい頃にあんたいなくなっちまったから、あんまり細かいとこは憶えてないんだけど。あんたにタバコの輪っか作ってもらったのはよく憶えてるんだ。上手だったよなぁ。あんなにうまく輪っか作れるヤツいまだに見たことないよ。
 中学の時、隠れてタバコ吸っててさ、ちゃんと部屋の換気したつもりだったんだけど、おふくろが帰ってきていきなり泣くんだよ。それが怒って情けなくてじゃないんだ。あんたの匂いがするって言うんだよ。あんたの懐かしい匂いがするって。そう言って泣くんだよ。オイオイオイオイ泣くんだよ。どうゆんだよそれって。それでさ、オレに「輪っか作れるか?」って聞くんだぜ?ふつー怒るだろ親なら。まいっちゃったよホント。
 …まいったよ、まいった、ホントまいった。あんたがどっかで生きてると思ってたから今まで独りで生きてこれたんだ。やられた。今度こそやられたよ。どうすりゃいいんだよまったく。


 男は父親を見つめていた。大小2枚の白い布を床に落としたまま、長い時間ただ見つめていた。無言で横たわっている、男によく似た男を、茫然と見つめていた。眉毛の長さと流れ具合。眼孔の落ちくぼみ方。両の目頭の距離。逞しい鼻梁。唇の形。思いの外たっぷりとした耳たぶ。少し後退しているM字の生え際。深く刻まれた額の皺の溝。組まれた指の長さと丸みを帯びた爪。しっかりとした厚みをもち、土踏まずがほとんどない、愛嬌のある足。
 声に出すことができなかった言葉達の渦を抱えたまま、男は右の踵で左の靴を押さえて片方脱ぎ、靴下も脱いだ。自分の左の素足を、横たわる男の左足の傍らに乗せ、並べて見つめた。
同じ足が二つ。親指に少し長い毛が生えている。ふと、男は上体を屈めてその本数を数えた。

1,2,3,4,5,6。

自分の足を下ろして、もう一つの、同じ形の、冷たい左足の親指を見つめる。

1,2,3,4,5,6。


 扉の向こうには、歳のわりにはどう見ても明るすぎる栗色に髪を染めた中年女がひとり。疲れ切った顔に、それでも厚化粧をほどこして、素っ気のない黒い長椅子に座っている。霊安室の中から漏れ聞こえる嗚咽を遠くに聞きながら、女は途方に暮れていた。葬式代を男の息子に払わせることができるだろうかとぼんやり考え、それから今日が数社のうちの一社の返済日だったと思い出し、パサついた髪の中に両手をうずめて頭を抱えた。


 そうだ。見せてやるよ。あんたほどじゃないけどさ、オレもうまいんだ輪っか作んの。霊安室って空気まで死んでて動かないんだな。うまくいきそうだ。
 どうだ。うまいだろ。あんたも見せてくれよ、なあ。最後に輪っか作ってみてくれないか。昔みたいにホッペタつついてやってもいい。だからもう一回だけ。


 いつの間にか、その抑えた泣き声は止んでいた。女はゆらりと立ち上がり扉を開ける。何故か片方だけ裸足のまま、男の息子が火をつけた煙草を男の口元にあてがっている。
「なにバカなことやってんのよアンタ!」
男の息子が静かに振り向いた。なんて似てるんだろうか、この息子は。とたんに男への憎しみが息子である目の前の男への憎しみへとすり替わる。
「父親の葬式代くらいは払ってくれるんだろうね!」
そう吐き捨てたとたん女は殴り飛ばされた。顔の左側がガンガンガンガン鳴っている。冷たいリノリウムの床に倒れたまま、女は男の息子を睨みつける。
「イイ気なもんだ!同じ顔して殴りやがって!父親そっくりだよ!」

男は父親を振り返った。なんだよスッとぼけた顔してノンキに寝てやがって。もしかして今、笑っただろ。なぁオヤジ。


[2005/9]

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