2007/11/04

完全なる羽化

 カサリ。乾いた音をたてて、薄茶色の殻の背中を割る。今夜僕は新しい僕に生まれ変わろうとしている。反りかえり反りかえり、全力を振り絞って上半身を反り返らせ、僕は大きく息を吸い込んだ。スウウ。薄緑の葉脈のような線が走る羽はまだひしゃげているし、ふるふると震える生っ白い手足は頼りない。でも薄い膜に覆われてボンヤリとしか見えなかった視界は、まるで霧が晴れるかのように澄みきってゆく。見える見える、これでやっと全てが透明になるんだ、僕は大きく息を吐いてみた。フウウ。一度大きく伸びをしてから武者震いをし、少し離れた場所まで歩み出す。そこから僕の脱いだ殻を眺めてみると、なんとも歪(いびつ)な怪獣のようだ。振りかえり振りかえり、言葉さえ持ち得なかった醜いだけの姿に、今夜こそ別れを告げねばならない。

 
 身体が硬くなるまでの4時間、二度と戻ることの出来ない穴蔵のことを思い出していた。どこまでも暗く孤独な穴の奥底で僕は生きてきた。しかし思い返すとそこはヌクヌクとした居心地の良い羊水の直中であったのかもしれない。誰にも届かぬ呟きの糸を紡ぎ、声にならない言葉の糸に感情の色を染めつけながら、誰にも邪魔されない生暖かい場所で僕にとっての大切な何かを育んでいたのだ。しかし、僕はもう二度と、そこに戻ることができない。
 身体のあちこちがキシキシと鳴る。くしゅくしゅと縮んだ羽が次第に形を整え色濃くなっていく。ゆっくりと指を広げてみると新たな細胞のひとつひとつが産声をあげた。握りしめてみると爪が掌の肉をえぐるほどに力強い。滑らかな腹を撫でてみる。思ったよりも遙かに硬く引き締まった感触に僕は歓喜する。
 そろそろ時間が来たか。僕は僕の抜け殻をもう一度懐かしく見つめた。愛おしい愛おしい僕の抜け殻。僕を優しく包んでくれていた鎧。パックリ割れた背中からは白い糸のようなものが出ている。僕が紡ぎ続けていた魂の糸。一体おまえは、いや僕は、何でできていたのだろう。

 
 もう行かなくちゃ。長いこと閉めきっていた埃っぽい匂いのするカーテンを開け放とう。ああ、なんて美しい朝焼け!僕は施錠を解き、窓を一気に開けた。新鮮な空気が優しく頬を撫でる。神々しいほどの朝だ。僕の旅立ちを祝福してくれている。千年に一度の朝だ。
 僕は今一度、大きく身体を伸ばしてみた。腕も脚も羽も、髪の毛の一本一本までもが、どこまでも果てしなく伸びてゆくような気がする。僕の願うこと全てが今すぐ叶えられる気がする。この世界全てが僕の手中にあるような気がする。
 さあ本当にもう行かなくちゃ。僕には生まれてきた意味があり目的がある。それを遂行するために長い時間を経て成虫になったのだから。そうだ。部屋を出る前に鳴いてみよう。腹に力を込めてみる。

       「ジジジジィィィ~~~」

 僕は部屋の隅に置いてあった金属バットを手にしてスイングしてみた。もう少し。もう少しだけ力が欲しい。そうだ。僕は僕の抜け殻を囓ってみた。カリ。カリカリ。カリカリカリ。ガリガリガリガリガリガリ。バリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリ。全身に力が漲ってゆく。毛細血管や神経の隅々までもが一斉に息を吹き返す。頭のてっぺんから爪先まで物凄いスピードで封じ込めていたものが駆け抜けてゆく。これだ。これこそが俺にとっての正しい生だったのだ。この溢れんばかりのエネルギーこそが生きることそのもの全てだったのだ。


 俺は神に再び与えられた短い命を迷い無く生き、そして必ず全うするだろう。初めてだ。生まれて初めてだ。こんなにも明確な輪郭をもって命の価値を実感するのは。俺は再び金属バットを掴んで力強くスイングしてみる。ブン!と唸りをあげてバットが空を斬った。

 
 何年もの間、たった15cmしか開けたことのなかった部屋のドア。そのドアを少年は内側から思いっきり蹴破った。そしてバットを握り直し、まだ寝ているだろう両親の寝室へと向かって、鮮やかに羽ばたいた。


[2006/8]