2007/11/02

さよならマーチ

 仕事納めの日、あの人はそのまま忘年会に行き、2次会3次会と流れて思う存分ハメを外していたようです。いつの間にか寝入ってしまった私は携帯の密かな振動音で起こされました。
「桜木町のENVYって店にいるから迎えに来い!飲み代足りなくなったから5万持ってこいよ!」
女性達の嬌声と男達の笑い声とまるで爆撃のような音楽が後ろから聞こえて頭がシンと冷え、私は無意識に電話を切り娘の頬に擦り寄ってその甘い香りに包まれました、関係ない関係ない私には関係ないもうこれ以上私に用事を言いつけないで。その現実と夢が混ざり合うような感覚の中で、うつらうつらとまどろみながら、何かが焦げるような匂いに気づいたのです。慌てて飛び起きると台所に向かう途中の廊下には煙が充満していました。もうもうと立ち込める煙を払いつつ台所に向かいガス台の火を消しました。お煮しめの大鍋には無惨にも炭と化した具材が燻っているばかり。急いで台所の窓を開け換気扇を強にして鍋をシンクに置き水をかけました。

      ジュウウウウウウウウウウウウウウウ………

 大量の白い煙が立ち上り、私は噎せかえって何度も咳をし、ボロボロと大粒の涙を流しました。一体今何時なんだろう…あああ…もう午前2時。私は鍋を見つめてただただ茫然としていました。火事になるところだった。火事になってしまえばよかった。
 三角コーナーにはゴボウやニンジンや大根や蓮根や里芋の皮があふれ、ゴミ袋はコンニャクや焼き豆腐やチクワや干し椎茸の空袋で埋め尽くされ、食卓には朝食の残骸や夕食の弁当の殻や娘の小さなお茶碗やスプーンが雑然と散らかっていました。長い長い一日は私が別れを告げる間もなく終わっていたのです。

 朝5時に起きて朝食と離乳食と弁当を作り、乾いた洗濯物を畳みタンスにしまい再び洗濯機を回し、身繕いをしてあの人を起こし着替えを出してあげ朝食を食べさせ私も食べようとしたけれど娘の泣き声が聞こえて娘のオムツを替え抱いて乳を与え、そうしている間にあの人がシャツにアイロンかかっていないと怒り出し、娘を抱いて乳を吸わせたままアイロン台を出して「まったく色気も何もあったもんじゃないな」というセリフを聞き唇を噛みしめてまだオッパイと泣く娘をソファに置き、胸元を隠して急いでアイロンをかけている間に娘がソファから落下して「ちゃんと見てないからこうなるんだ!」と怒られ、また娘を抱えながらなんとかアイロンを済ませて着せながら、あの人の独身の時と変わりなく整えられた髪型と仄かに香るオーデコロンに胸の奥底で理不尽を憶えていると、抱えた娘があの人の胸のあたりに触ろうとして、あの人が「乳臭くなる!」とまた舌打ちしてもういい今夜は遅くなると言い残してサッサと出かけ、私は娘に離乳食を与えて着替えさせ2人分の荷物を準備して娘をおぶって家を出て自転車を飛ばし保育所に娘を預けて駅へと急ぎ、階段でつまづきストッキングの膝を伝線させ満員電車の中で誰かにお尻を撫でられながら会社に向かい、保育所のお迎えになんとか間に合うようにと昼休み返上でデスクの引き出しに買い置きしてある菓子パンを囓りながら伝票の計算処理に追われ、ふと気づくとオッパイがパンパンに張ってしまっていてトイレで母乳を絞り捨てながら乳牛のイメージに囚われ、終業後に課でお疲れさん会でもと華やぐ空気に背を向け電車に揺られ駅前のスーパーで急いで年末年始の買い物をして大きな2つの袋を自転車のハンドルにそれぞれかけて保育所に向かい、石のように硬く強張った背中に娘をおぶって死にもの狂いでペダルを漕いで家に帰り、休む間もなく風呂にお湯を張り娘をテレビの前に下ろし子供用ビデオを見せて、朝の食卓がそのままになっている光景から目を逸らして、そう、ガス台の前に椅子を置いて台所の下のマカロニや高野豆腐を置いてある引き出しの奥の煙草を取り出して、ガスの青い炎に煙草の先端をそっと近づけた時…
 

♪なにが君の幸せ~ なにをして喜ぶ~ 
  わからないまま終わる~そんなのはイヤだ! 
   忘れないで夢を~こぼさないで涙~
    だから君は飛ぶんだ!どこま~でも~♪
 

 居間のテレビからアンパンマンの歌が聞こえてきました。何が私の幸せで何をしたら私は喜ぶのでしょう?わからないまま終わるような気がして私は換気扇のブオオオンという音の下で泣きながら煙草を吸いました。
 それから娘に食事をさせ私は弁当をつつきながら缶ビールを2本空けました。あの人がいなくてよかった。夕食の支度をしなくていいというだけでどんなに心と身体が休まることかあの人は一生知ることなどないでしょう。
 2人でお風呂に入りました。お風呂の中で思いついてアンパンマンの歌を唄ってあげたら娘はバチャバチャとお湯を叩いて喜びました。まだ生まれて5ヶ月だというのに私にはわからない幸せと喜びを知っているのだ。そう思った瞬間娘をお湯に沈めていました。お湯の中で歪んだ娘の顔は一生忘れません。私はすぐに娘を抱き上げて謝りました。
「ごめんねごめんね、ママ手が滑っちゃったの、苦しかったでしょ」
娘は目を白黒させて私にしがみつきました。その時私はかすかに幸せの手応えを感じたのです。無力な者に頼られていることの幸せを。
 シャンプーしてあげながら私は盛大に泡を立てて娘の顔にその泡をわざとこぼしてみました。目に鼻に口元に。娘が手足をバタバタさせて藻掻いている姿を見て慌ててシャワーをかけ洗い流しました。しつこくシャワーをかけていると娘は呼吸ができずにまた苦しみました。私はシャワーを止めて抱き上げ苦しかったでしょうとなだめました。娘が落ち着くまでずっとずっと優しく抱きしめて撫でてあげました。今度は喜びが溢れてきました。喜びの形を確かに捉えました。心が凪いでゆくのを感じたのです。

 娘を寝かしつけながら急激に眠気が襲ってきました。でも寝てしまうわけにはいかなかったのです。台所を片づけなくては。あの人は帰ってきて家の中が片づいていないと不機嫌になるのです。それに明日大晦日にはあの人の実家に行って、今年最後のエステに行くという義母のかわりに大掃除をしなければならないので、どうしてもその夜のうちにお節の準備をしておかなくてはならなかったのです。あの人は出来合いの料理の味付けが甘すぎる辛すぎると言って箸をつけてくれないのですから。
 私は湯冷めしきった上にコチコチに凝り固まった身体に鞭打って起き上がり台所に向かいました。無心で野菜の下拵えをし出汁をとり日高昆布を水に浸し身欠きニシンと数の子を塩出しして漬け汁の味見をしている時…
 

♪もし自信をな~くして~ くじけそうにな~ったら~
  いいことだけいいことだけ思い出せ!
   そうさ空と海を越えて~風のように走れ~
    夢と愛をつれて~地球をひとっとび~ひぃとぉっとび~♪
 

 娘のビデオの歌を思い出していました。いいことだけいいことだけ思い出せ。いいこと。結婚してからいいことなんてあったかしら。そんなことを考えながら、あとはもう少し弱火で煮込むだけにして寝室の娘の横に寄り添って冷えた身体を温めながら、いつの間にか眠っていたのです。
 
 

 焦げた鍋を見つめたまま慌ただしかった一日を思い出してぼんやりしているうちに悪寒がしてきました。居間に置いてある新聞紙で扇ぎ煙を窓の方に追いやり少しおさまったところで寝室に行きました。携帯を見ると8回もあの人からの着信がありました。私は怒られるのを承知で観念してあの人に電話しました。
「ごめんなさい、さっきちょっと台所で…」
「なんなんだよゴチャゴチャうるせーな!もう家出たのか!?」
「いえまだ家にいます」
「バカかおまえはっ!早く迎えにこい!こんな時間じゃタクシーも拾えないんだよ!金忘れるなよ!」
電話が切れる前に「クソ女…」という呟きが漏れ、後ろから「次ケンちゃんの歌だってばぁー」という女の甲高い声が聞こえました。
 朝から晩まで動き回り常に時間に縛られて頭の中で段取りをし、家事保育所仕事買い物保育所家事と何から何までこなし、自転車と満員電車で体力を消耗しクタクタに疲れ果てている私。悠々と身だしなみを整えてから仕事に向かい、休日は昼まで寝てから映画だゴルフだと『気分転換』をしに出かけ、たまには美容院にでも行かないと恥ずかしくて一緒に出かけられないなどと私を嘲笑うあの人。「おいコーヒー」「おい新聞」「おい風呂は」「おい着替え出しておけよ」「おい俺を清潔なハンカチも持たない男にする気かよ」おい。おい。おい。おい、おい、おい、おいおいおい………
 

 お義父さんお義母さん、私ひとりでお邪魔させていただくの、初めてでしたね。話しを聞いていただくのも初めて。あ。名前も一度だって呼んでいただいたことないんですよ。私の名前、御存知でしたか、いえ冗談じゃなくて。私の両親は私が子供の頃、借金を抱えて心中したんです、それも初耳ですよねきっと。
 あの人…憲一さんに口止めされていたんです。言う通りにしなければ結婚してやらないと言われました。憲一さんは家を出たくて結婚したに過ぎないんです。はっきりと私にそう言いました。家政婦だと思ってもいいのなら身重のおまえと結婚してやると。
 お義父さんお義母さん、私は今まで他人様に悩みを打ち明けたことなどないのです。全部自分の胸の中で解決して生きて参りました。でも今回ばかりは聞きたいんです、私が間違っていたのかどうか、自分でもわからないんです。私の両親は私を生かすために死んだのだと施設の先生に言われて育ってきました。だから自分を大事にしなさい。独りでも立派に生きて立派な人と結婚して家庭を持てたなら相手の方の親御さんが貴方の親になるのよ。その時に愛する人の親御さんを本当に自分の親だと思えたなら全てが報われるのよ、と。
ですから私はお義父さんお義母さんを親だと思いたかったのです。私を娘だと思って可愛がってほしかったのです。名前を呼んでいただきたかったのです。

 誰を殺せばよかったんでしょうか。自分を殺せば桃香は頼るべき母親を失う。憲一さんを殺せば桃香は殺人者の娘として一生十字架を背負って生きることになってしまう。可愛い桃香を殺すなんて出来るわけがない。一体誰を殺すのが正解だったのでしょうか。教えて下さい。教えて。教えて。
 
 
 

 「憲一、この人一体どうなってるの?」
「俺にわかるわけねーだろ!迎えに来るって言っときながら来ないもんだからタクシー2時間も待ってさ。やっと帰ってきたと思ったら窓全開の寒くて焦げ臭い部屋ん中こんな格好でブッ倒れてたんだから」
「この人ずっと何かブツブツ言ってるわよ気持ち悪い」
「知らねーよ!びっくりしたのは俺だって!救急車呼ぶにも呼べなかったんだから!」
「そうよね。さすがだわ憲一。これじゃみっともなくて他人様に見せられないわよねぇ」
「ねえパパに頼んで入院させてもらえねぇかなー」
「それこそみっともないわよ!さっきパパが注射してくれたから平気でしょ!ただの風邪みたいだし肺炎の心配ないって言ってたじゃない!もぉ…アナタ面倒みなさいよ!ママは今夜お友達とカウントダウンパーティーに行くからダメ!」
「もぉカンベンしてくれよ!どぉすりゃいんだよ桃香の世話だって!せっかく秋から白馬に予約しておいたのに!」
「だったら桃ちゃんだけでも連れていけばいいじゃない」
「友達と行くんだぜ!?子供なんて連れて行ったら遊べねぇじゃねーかよ!ねぇパパに頼んでよママ!」
「それより大掃除どうしようかしら今からじゃハウスクリーニングも頼めないし…肝心な時に役に立たないんだからもぉ…ホントになんなのよこの顔この格好っ!」

 熱に浮かされて譫言を繰り返し顔を紅潮させている祥子。眉をひそめて妻を見下ろす憲一。孫の桃香を抱いた義母の百合子。祥子の両頬には赤のマジックで丸が描かれ、毛布の下は上下赤のスエット姿である。憲一が祥子を発見した時には、黄色の靴下と黄色の台所用ゴム手袋をして黄色の紐を腰に巻き、首にはまるでマントのように風呂敷が巻かれていた。
「パパの病院っていうよりサッサと家から追い出して精神病院にでも入れた方がいいんじゃないの!?」
百合子が吐き捨てるように言った瞬間、突然祥子の目がカッと見開き、その腕が俊敏に動いた。
「ア~ンパーンチッ!!!ア~ンパーンチッ!!!ア~ンパーンチッ!!!」
不意打ちで顔を殴られてのけぞる憲一と百合子。転んで倒れ泣き叫ぶ桃香。
「ア~ンパーンチッ!!!ア~ンパーンチッ!!!チーズ!パン工場に行ってジャムおじさんに新しい顔を作ってもらうんだっ!」
アンパンマンが台所に向かう。チーズと呼ばれた桃香が泣き叫ぶ。憲一と百合子が顔を押さえて蹲っている。やがてアンパンマンが出刃包丁を持って戻ってきた。
「わああああああん!わああああああん!わああああああん!」
「チーズ!はやくパン工場に行くんだっ!それっア~ンパーンチッ!!!」
 

♪そぉだっうれしぃんだい~きるっよろっこび!
  たとえっ胸の傷がい~たんでも~
 そぉだっうれしぃんだい~きるっよろっこび! 
  たとえっどんな敵があ~いてでもぉ~♪
 

 大晦日、早朝。まだ静まりかえっている住宅街の一角から、バイキンマンとドキンちゃんの断末魔の叫びとチーズの鳴き声、そして正義のヒーローぼくらのアンパンマンの戦いの雄叫びがこだましていた。

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