2007/11/06

白詰草

【5がつ10にち げつようび はれ】 
きょう、がっこうからかえてきたら、ゆきちゃんがあそびにきました。
ゆきちゃんというのわ、このあいだおとなりのおとなりにひっこしてきたおんなのこです。
ゆきちゃんが「よつばのクローバーをさがしにいこう」といったので、いっしよにいきました。
だんちのまえのこうえんのよこの、あきちにいきました。
いっしようけんめいさがしたけど、なかったのでがっくりでした。
ママが5じまでにかえてきなさいといったので、かえりました。

【5がつ11にち かようび はれ】
きょうもゆきちゃんがあそびにきました。
きょうはよつばがみつかるかもしれないよ、とゆきちゃんがいったので、またいきました。いっしようけんめいさがしました。
とちうで、けむしがでてきたので、きもちわるくて、かえろうと、ゆきちゃんにいったら、ゆきちゃんがおこりました。
みゆちゃんしやわせになれなくてもいいのと、おこった。
わたしわびっくりした。

【5がつ12にち すいようび くもりのちあめ】
きょうもゆきちゃんがきました。
ママがみゆ、おねえちゃんがおともだちになてくれてよかったわね、といってわらいました。
おうちであそぼうとゆきちゃんにいったら、ゆきちゃんがわたしの手をつねりました。
つよくつねった。
わたしわこわかったので、げんかんのどあお、しめました。
そしたらゆきちゃんの手お、はさんでしまった。
ゆきちゃんがないたので、ママにおこられました。
みゆちゃんいじわると、ゆきちゃんがおおきいこえでいった。

【5がつ13にち もくようび あめ】
あめふりでおそとにいけないから、まどからおそとみました。
あきちでゆきちゃんみたいなひとがみえました。
きっとよつばのクローバーをさがしているみたいでした。
あめがいっぱいふっているのに、ずっとずっと、おようふくのままさがしているみたいでした。
ゆきちゃんわしやわせになるように、あめふりでもがんばっているからすごいです。

【5がつ14にち きんようび あめ】
ママがおかいものにいってくるからすぐかえてくるから、みゆおるすばんしてねといいました。
げんかんのかぎあけないでねといいました。
ママのつくたホットケーキおたべて、おるすばんしました。
そしたらインタホンがなって、みたらゆきちゃんだった。
わたしわ、おるすばんだから、でませんでした。
ずっとずっとピンポンなってうるさかったです。
ママがかえてきて、「おるすばんだいじようぶだったのと、」いわれて「だいじようぶ。みゆえらい」?といったらママがみゆえらいね、といってくれました。
うれしかったです。

【5がつ17にち げつようび はれ】
きのうからかぜがひいてがっこうおやすみです。
ママがパートにいって、ひとりでねていたらインタホンがなりました。
ゆきちゃんだった。ねていたら、しばらくしたら、しずかになりました。
しんぶんいれにガタンとおとがしたので、みました。
かみがはいていた。
みゆのバカとかいてありました。

【5がつ18にち かようび はれ】
きょうはかぜがなおたばっかりだから、がっこうがつかれました。
かえるとき、おうちにかえるまえに、すこしあきちにいきました。
わたしわほんとわ、よつばさがしより、しろつめくさのお花のくびかざりをつくるのがだいすきです。
ママにつくってあげてかえろうかなとおもいました。
ながくあんで、わっかにするとき、ゆきちゃんがきました。
わたしのくびかざりをとりました。
おはなをぜんぶとった。とってから「はいみゆちゃん。」とかえした。
わたしがないたらゆきちゃんわ、わらっていました。

【5がつ19にち すいようび はれ】
かえるときあきちにゆきちゃんがいました。
わたしわみつからないようにきおつけて、おうちにかえりました。

【5がつ20にち もくようび あめ】
あめふりだから、まどからおそとみてました。
またあめなのにゆきちゃんがいました。
あかいくるまがきて、めがねかけて、あたまがはげたおじさんがきて、ゆきちゃんがすぐくるまにのりました。

【5がつ21にち きんようび はれ】
きょうはだんちに人がいっぱいいました。
でもゆきちゃんわいなかった。わたしわあんしんしました。
わたしわひとりで、くびかざりお、いっぱいいっぱいつくりました。
すごくさいこうにたのしかったです。
ママとパパに、たくさんずつ、くびにかけてあげました。
とてもうれしそうでした。
きょうは、いままででいちばん、たのしい日だなあとおもいました。


【5がつ24にち げつようび はれ】
パパとママがおはなししています。みゆひとりでこうえんとあきちにいたらだめよ。
ゆうかいさつじん、と、テレビでいていました。
もくげきしゃがいません。じようほーおまちしております。
ゆきちゃんわ、よつばのクローバーがさがせなかったから、しやわせになれなかったのかな。
わたしみたいに、しろつめくさのくびかざりつくったら、パパもママもよろこんで、しやわせになれたのに。
ゆきちゃんのバカ。


[2004/5]

2007/11/04

完全なる羽化

 カサリ。乾いた音をたてて、薄茶色の殻の背中を割る。今夜僕は新しい僕に生まれ変わろうとしている。反りかえり反りかえり、全力を振り絞って上半身を反り返らせ、僕は大きく息を吸い込んだ。スウウ。薄緑の葉脈のような線が走る羽はまだひしゃげているし、ふるふると震える生っ白い手足は頼りない。でも薄い膜に覆われてボンヤリとしか見えなかった視界は、まるで霧が晴れるかのように澄みきってゆく。見える見える、これでやっと全てが透明になるんだ、僕は大きく息を吐いてみた。フウウ。一度大きく伸びをしてから武者震いをし、少し離れた場所まで歩み出す。そこから僕の脱いだ殻を眺めてみると、なんとも歪(いびつ)な怪獣のようだ。振りかえり振りかえり、言葉さえ持ち得なかった醜いだけの姿に、今夜こそ別れを告げねばならない。

 
 身体が硬くなるまでの4時間、二度と戻ることの出来ない穴蔵のことを思い出していた。どこまでも暗く孤独な穴の奥底で僕は生きてきた。しかし思い返すとそこはヌクヌクとした居心地の良い羊水の直中であったのかもしれない。誰にも届かぬ呟きの糸を紡ぎ、声にならない言葉の糸に感情の色を染めつけながら、誰にも邪魔されない生暖かい場所で僕にとっての大切な何かを育んでいたのだ。しかし、僕はもう二度と、そこに戻ることができない。
 身体のあちこちがキシキシと鳴る。くしゅくしゅと縮んだ羽が次第に形を整え色濃くなっていく。ゆっくりと指を広げてみると新たな細胞のひとつひとつが産声をあげた。握りしめてみると爪が掌の肉をえぐるほどに力強い。滑らかな腹を撫でてみる。思ったよりも遙かに硬く引き締まった感触に僕は歓喜する。
 そろそろ時間が来たか。僕は僕の抜け殻をもう一度懐かしく見つめた。愛おしい愛おしい僕の抜け殻。僕を優しく包んでくれていた鎧。パックリ割れた背中からは白い糸のようなものが出ている。僕が紡ぎ続けていた魂の糸。一体おまえは、いや僕は、何でできていたのだろう。

 
 もう行かなくちゃ。長いこと閉めきっていた埃っぽい匂いのするカーテンを開け放とう。ああ、なんて美しい朝焼け!僕は施錠を解き、窓を一気に開けた。新鮮な空気が優しく頬を撫でる。神々しいほどの朝だ。僕の旅立ちを祝福してくれている。千年に一度の朝だ。
 僕は今一度、大きく身体を伸ばしてみた。腕も脚も羽も、髪の毛の一本一本までもが、どこまでも果てしなく伸びてゆくような気がする。僕の願うこと全てが今すぐ叶えられる気がする。この世界全てが僕の手中にあるような気がする。
 さあ本当にもう行かなくちゃ。僕には生まれてきた意味があり目的がある。それを遂行するために長い時間を経て成虫になったのだから。そうだ。部屋を出る前に鳴いてみよう。腹に力を込めてみる。

       「ジジジジィィィ~~~」

 僕は部屋の隅に置いてあった金属バットを手にしてスイングしてみた。もう少し。もう少しだけ力が欲しい。そうだ。僕は僕の抜け殻を囓ってみた。カリ。カリカリ。カリカリカリ。ガリガリガリガリガリガリ。バリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリ。全身に力が漲ってゆく。毛細血管や神経の隅々までもが一斉に息を吹き返す。頭のてっぺんから爪先まで物凄いスピードで封じ込めていたものが駆け抜けてゆく。これだ。これこそが俺にとっての正しい生だったのだ。この溢れんばかりのエネルギーこそが生きることそのもの全てだったのだ。


 俺は神に再び与えられた短い命を迷い無く生き、そして必ず全うするだろう。初めてだ。生まれて初めてだ。こんなにも明確な輪郭をもって命の価値を実感するのは。俺は再び金属バットを掴んで力強くスイングしてみる。ブン!と唸りをあげてバットが空を斬った。

 
 何年もの間、たった15cmしか開けたことのなかった部屋のドア。そのドアを少年は内側から思いっきり蹴破った。そしてバットを握り直し、まだ寝ているだろう両親の寝室へと向かって、鮮やかに羽ばたいた。


[2006/8]

2007/11/02

6&9

 「ルコちゃん、ルコちゃん、」
ん…あ…呼んでる。
「ルコちゃん、ねぇルコちゃん、トイレ行きたい」
うん…はい…いま起きる。壁の時計を見るとまだ4時半。体調が良いからって調子に乗ってお酒飲んだからなぁ。でも久しぶりに楽しく飲んだんだから、まぁいいや。アタシは大きく身体を伸ばして手をグーパーグーパーさせて頭を左右に振って首の骨をグギグギいわせてからヌクヌクした布団を思い切って跳ね飛ばした。
「はい、起き上がろうね、んんん、」
布団を敷いて寝ているアタシの左側のパラマウントベッドの上半分をグイイインと斜めに起こしてから、シンさんの上半身に背中をくっつけて左腕を回してもらって、オンブする要領でそっとシンさんを起こして畳に足をつかせてあげた。あとはシンさんがどうにかゆっくり歩いてトイレに向かう。
「どう?間に合った?」
「おう。間に合った。」
1980円の電気ストーブを一晩中つけてるけど、それでも今夜は底冷えがするようで、アタシはドアの前で腕を組んで足踏みしつつシンさんを待った。ジョジョ…ジョボジョボ…ジョ…ジョジョ…おお出てる出てる。うまいこと出てるな。シンさんのオシッコの音を聞きながらアタシは嬉しくなる。それから一緒に寝室に戻り、またオンブの姿勢になって寝かせようとしたら、シンさんが言った。
「ルコちゃん悪い、前、ちょっと濡れちゃった。」
「あ、ホントだ、着替えようか。」
タンスから洗い上がったのを出してきてから屈んでパジャマのズボンとパンツを脱がせてあげて、履き替えさせようとしたら、シンさんが足を上げない。
「寒いから早く履きかえようね」
そう言ってシンさんを見上げたら、シンさんが静かな目でアタシを見下ろしていた。
「ルコちゃん、ちょっとしゃぶってくれないかなあ」
あはは、シンさん、いたずら小僧みたいな顔をしている。
「いいよ、座る?」
左手をついて、シンさんがヨッコラショ、とベッドに座った。
「寒くない?」
「大丈夫」
アタシは、すっかり痩せてしまったシンさんの足の間に跪いて、シンさんの先っちょを少し舐めた。
「しょっぱい」
「あ、ごめんごめん」
「いいよ。血圧上がったからちょうどよかったよ」
低血圧なアタシは朝がツライ。シンさんは笑ってくれた。よかった。

 静かな夜だなぁとか夜じゃないなもう朝かとか思いながら、アタシは丁寧にシンさんのを舐めたり含んだり力を込めたり抜いたりした。シンさんは不自由に震える右手でアタシの頭を撫でたり耳を触ったりしてくれた。
「ああ…気持ちいいなあ…」
「キモチイイ?もっと強くしようか?」
「いやこのままでいいよ、ルコちゃん、ずっとくわえててよ」
いいよ。ずっとしてあげるよ。足が寒くないかと思ってアタシはシンさんの両足を腿のあたりから下へゆっくりさすってあげると爪先や踵がやっぱり冷たい。
「シンさん、ベッドに横になってしようよ、足冷え切っちゃうよ」

 シンさんを寝かせて毛布をかけてベッドをフラットにしてからアタシも毛布に潜った。先に足を擦ってあげて、シンさんの足が少し温かくなるまでの間、ふとアタシはシンさんに話しかけた。
「ねえシンさん、アタシ時々独りでする時さ、シンさんと寝た時のこと思い出してやるんだよ」
「・・・・・・」
「寝ちゃった?」
「・・・・・・」
「寝ちゃったの?」
するとシンさんの低い声がまじめに言った。
「ルコちゃん」
「寝ちゃったかと思った」
「ルコちゃんのも舐めてあげるよ」

 何度かシンさんのが少しイイ感じになりかけて、アタシはそのたびにアタシの身体の中に入れてあげようとしたけど、やっぱり無理だった。どこからか救急車のサイレンが聞こえてくる。あぁ遠い地球から聞こえてくるなぁ、って思った。アタシは何度かちゃんとイッた。シンさんがあんまり一生懸命してくれるからアタシはなんだか切なくなった。だからシンさんがイクまでは時間がかかっても続けてあげようと思った。
「ルコちゃん」
「・・・・・・ん?・・・・・・」
「ルコちゃん、他にオトコつくってもいいんだぞ、いいんだからな」

シンさんはアタシをなめながら、静かに呟くように言った。アタシはシンさんをくわえながら、泣いて頭を左右に振った。


[2005/1]

廃墟の男

 書き留めておかなくては。すぐにでもそうしなければ一日中その風景に囚われ、その世界に閉じこめられてしまいそうな予感がしたのだ。なに、たかが朝方にみた夢だ。夢の中の記憶に過ぎないのだが。
 粒子の粗い、カタカタと背後で微かに音が鳴っているような、8mmフィルムの映像。私は誰かを訪ねて知らない土地を彷徨っている。砂丘だ。赤茶けた砂が延々と続いている。赤茶けているというのもおそらく単なる私の観念であって、私は実際に砂丘というものを見たことがなく、夢の中では全体がぼんやりと薄い膜がかかったような掴みどころのない、心細く頼りないばかりの場所であり、ただそこが砂丘だと思えば少しは気がラクだったからそう思っただけに過ぎない。
 あてどもなく歩き続けているうちに彼方に何か塔の先端のようなものが見え始め、やがてその下に“楼閣”といった風情の輪郭をもって建物の全体像が現れてきた。私は行き先を確かに捉えたことに安堵しながら、砂上を歩く重い足取りを休めて、その建物を眺めた。まるで逆光に遮られているかのように目を細めて額に手をあて、小高い位置にあるその建物を凝視する。あれは…モン・サン・ミッシェル…そう、そんな雰囲気。海と砂の中に突如として現れる、孤高の僧院のようだ、と私はぼんやりと思っている。思いながらも、そんなことをいつ知ったのだろうかとも思い、しかしすぐに別の私が「これは夢だから」と冷静に呟いた。
 不安定な意識がアメーバのように増殖してパニックを起こすことを回避するために、夢の中の自分に「夢だから大丈夫」と言い聞かせることはよくあることだ。そしてそのように思うことによって歩く気力をなんとか取り戻そうとした。何か動いている。ヒラヒラと何かが。手を振っているのか。いや誰かがこちらに向かって、ゆるりと手招きしている。


 ああ、あそこだ。再び歩き始める。私は何故か、前より速度を速めたと相手に気づかれぬように、努めて冷静な足運びを心がけている。少しほっとして弾んでいる心の動きを悟られたくないと思っている。というより不安を感じていたことを知られてはならないと思っているのだった。砂に足をとられているこの緩慢な歩き方を無様であるとも思われたくない。慣れたふうに、顔色も変えず、焦りを見せずに。そう、そうだ、慎重に。時折その誰かを確認しながら楼閣を目指すが、揺らめく影はそのうち奥に引っ込んでしまったようだ。

 失礼な。呼びつけたのなら見守っているべきじゃないか。呼びつけた?自分はその人物に呼びつけられたのかこんな場所に?そうなのか?
 一体今は何時頃なのか、夕暮れ時のような気もするし朝方のような気もする、白夜であるのかもしれない。時のない世界。一瞬そんな思いに囚われ慌てて嗤い飛ばす。嵌められてなるものか。

 近づいていくうちに、その建物が思ったよりかなり小さいだけでなく、寂れきったアパート、いや長屋といった印象の建造物の跡地であることがわかってきた。最初に見えた塔などは、荘厳なイメージとは程遠い、痩せこけた給水塔の化石のようだ。モン・サン・ミッシェルだなんて思い浮かべた自分を嘲笑う。勝手にいいように想像して勝手に騙されたと思い込む単なる馬鹿だ。
 ここはまるで廃墟だ、廃墟どころか、魔窟の九龍城みたいじゃないか。とたんにまた不安が蔦のように足元から徐々にまとわりつきはじめる。蔦を払う剣はない。剣のかわりに私は身を守るべく怒りの感情を持ち出すのだ。腹を立てていることにする。こんな小汚い所へよくも。私は逢うべき男を探している。男。そう私をここへ呼んだのは男だ。
 なんとも心許なく、踏みしめ甲斐のない底なしの砂はやがて、建物のアプローチの存在を足の裏に感じさせる。見上げると砂粒に煙る廃墟は窓の穴だらけの一匹の怪物のようでもある。ゴオオオと穴から穴へ空気が渡る地鳴りのような音がしそうだ。風など1ミリとて吹いていないのだけど。
 おそらく私は自分以外の何か動く存在を求めているのだろう。心に畏れを認めるのが怖いのだ。いけない。あの男に見破られてしまう。自分を奮い立たせて歩むしかないのだ。


 始めに覗いた一室に、男はいた。一室、とはいっても屋根がない。そこは四方ではなく三方が壁(であったと思われる崩れかけた仕切り)であり、足を踏み入れて仰いだ天のフレームは“過去を回想した場面で使われる擦り切れた空の映像”のようであった。その男は長椅子のようなものにゆったりと腰掛けている。白っぽい、簡素な服。襟ぐりは丸く、長袖の袖口は広い。麻だろうか。着心地の良さそうな軽い素材であるようだ。頭からストンと被ってお終い、といった、まるで丈の長いワンピースのよう。そしてその下から伸びる、骨張ってはいるが屈強な素足。
 男の素足というものが、私は苦手だ。苦手ではなく本当は好きだ。例えば男の手の厚み、或いは薄さ、指の長さ、動きといったものに女が性的な魅力を感じることがあるとすれば、素足には表情が乏しいだけに、その人間に隠された素性があからさまに見えてしまうような気がするのだ。何故そう思うのかはわからない。同性の素足には何も感じないのに、何気なく投げ出された男の足を見るたびに私は居たたまれないような羞恥を感じるのだ。その男の素足は、その男の存在感そのものだった。

 「ようこそ。」と聞こえたような気がする。微笑んでいる、いや薄笑いだともいえる…イヤな感じだ。でもきっと、この表情をイヤな感じだと受け止める人はいないだろうと私は思っている。おそらく私だけにはそう見えるのだ。きっとこの男は如何なる場所に居ようとも、こういう風情のままで存在できる種類の人間なのだろう。たとえガンジス河の淵で河に死体を投げ入れる人間がすぐ横で悲しみに暮れていようとも、紫煙とアルコールの饐えた匂いが充満する雀荘であろうとも、一日の終わりを途方に暮れた眼差しで見送る人々で溢れかえる地下鉄の車内であろうとも。いつだって沈黙のままに「ようこそ。」といった優雅な面差しでそこにいるのだろう。
 私はいつの間にかそういう目で男を見ている自分を卑下している。なんて心の卑しい人間なのだ私は。そしてまだ一言も交わしていないというのに私にそう思わせる男の存在感をひどく憎んでいる。まあそこに座りなさい、という柔らかな表情に促されて、自分の座るべき場所を探そうと足元を見る。そして一面に小さな虫螻どもの蠢きを見、総毛立つ。


 私は目覚めてすぐに、今日一日をその夢に支配されそうな暗澹たる気配を感じ、パソコンを立ち上げてメモ帳に書き留めた。


    知らない場所へ、知らない奴に呼ばれて辿りついた

    部屋には天井が無く途中から砂丘に繋がっている

    床は一面紅いダニと灰色のノミに覆い尽くされてた

    おれはふわふわした踏み心地の床で地団駄を踏み

    紅いダニと灰色のノミを砂丘に追いやるのに必死で

    その間中知らない奴はカラカラと嗤っていやがった



 おれ、と書いていた。これは私のみた夢ではない。そう思いたかった。その方がいいような気がしたのだ。私じゃない。この夢をみたのは断じて私ではない。他人の夢。いや架空の夢だ。書き終わって私は満足した。何故ならあの男を『奴』呼ばわりして貶めてやったからだ。夢の中では圧倒的な存在感に気圧されていた。その上、私は滑稽にも蠢く小さな無力なる虫螻どもに「うわあああ」などと上っ滑りした声をあげ、ただジタバタとするしかなかったのだから。
 これで大丈夫だ、助かった。そう思って、思った瞬間、私はかすかに恐怖を感じた。大丈夫だ?助かった、だって?
 いや。もうやめよう。バカらしい。私はほんの少し迷ってから、それに名前をつけて保存し、パソコンの電源を切った。


[2005/9]

ファミレスで逢いましょう

 「お待たせしましたぁこちらココナッツグリーンカレーになりまぁす」
クソ面白くもなさそうにバイトの女子高生は“で?どっちに置けばいいワケ?”とでも言いたげな表情でテーブルを見つめるだけなのだった。俺はちょうどクラッシュアイスと水を口に含んでいて、右下の奥歯に凍みるのがイヤで氷の粒を噛み砕けずに、そっちに置いてと言ってあげたくても喋れない状態。このテーブル担当なのであろうこの子が最初にお冷やのグラスを乱暴に置いた時点で彼女は少し片眉をつり上げていた。私のです、とか、こっちです、とか一言言ってあげさえすればこの場が丸く治まるのはわかっているだろうに、彼女は何故黙っているのだろう。
「あのぉ…ココナッツグリーンカレーになりますがぁ」
テーブルに広げた資料に目を通しながら視線を上げないままで彼女がやっと口を開いた。
「いつよ。」 
「はぁ?」
「だからいつココナッツグリーンカレーになるのよ。」 
「はぁ?」
「ココナッツグリーンカレーになるんでしょ?なってから持ってきてほしいわね。」
さすがに何を言われているか気づいたのだろう。チェリーピンクのグロスをたっぷりと塗り込めた金魚のクチビルをもつ結構カワイイ女子高生は、ムッとした顔でカレー皿を彼女の前に置いてスタスタと厨房の方へ立ち去った。アイボリーの皿は彼女が見ている資料の上に乗っかっている。俺はとりあえずタバコでも、と尻ポケットを探ろうとしたが、彼女が待っていたこの席が禁煙ブースであったことを思い出して、行き場を失った手で仕方なく首の後ろあたりを意味あなくポリポリ掻いてみるしかない。

「お待たせ致しました。昭和の懐かしライスカレーです。お客様のご注文でございますか」
今度はまたどうしてこんな所で働いているのだろうと思えるほど品の良さそうなパートの奥さんがやって来た。俺の目を見て柔らかな微笑みで確認してから、そっと音を立てないように銀色の楕円の皿を置く。女子高生からヘルプ要請が入ったんだなきっと。
 その時彼女がやっと顔を上げた。昔の彼女を彷彿させるような華やいだ微笑みを見て、俺は少し安心した。しかし、仕事の邪魔にならぬよう髪を後ろに引っつめている薄化粧のパートの奥さんに、彼女は丁寧にこう話しかけた。
「ありがとう。美味しそうね。これ見て下さる?」
彼女は資料の上に乗っかったままの皿を指した。
「さっきの女の子がここに置いていったのよ。大事な仕事の資料の上に。」
彼女は微笑んだままだ。
「申しわけございません!」
パートの奥さんは慌ててその皿に手を伸ばしかけたが、彼女は制止した。
「いいの。このままにしておいて。この店の店長を呼んで下さる?」

 俺がしたことといったら、噛み砕けないクラッシュアイスが溶けてしまうのを待ちながら昭和の懐かしライスカレーを福神漬けとのバランスを考えながらゆっくり食べたこと。食べながらコトの一部始終を一応聞いていたこと。バイトの子がふて腐れながら店長の横で頭を下げるのを気の毒に思ったこと。店長がドランクドラゴンの塚地に似ていると思ったこと。パートの奥さんが晴れ晴れした顔でその様子をバックヤードの脇から覗いているのが見えてしまい、なんだかゲンナリしてしまったこと。食べ終わってからもまだ氷が残っていたので注意深く上唇で除けながら水を飲んだこと。頼んでもいないのに食後に出されたデザートの洋梨のグラニテっていうやつの飾りのミントの葉を彼女にあげてからグラニテってなんだ?と彼女に聞けないまま、それを口の中の左側でシャリシャリと食べたこと。食べられることのなかったココナッツグリーンカレーの行方はゴミ箱だろうか厨房のバイトの腹の中だろうかと想像したこと。そんな感じかな。どんな感じだよって言われてもそんな感じでしたとしか言いようがない。
 彼女は店長からのサービスのキャラメルラテを飲んでいる。その横にはこのチェーンの1000円分の食事券が3枚。
 カレー皿の下敷きになった資料を示しつつ、彼女が熱意をもって俺に説明している内容というのは、簡単に言えばどうやら彼女が所属する団体への勧誘らしい。3日前に高校の同級生だった彼女から突然俺の実家に電話があった。上品で丁寧な彼女の話しぶりに好感を持った母親がつい俺の携帯番号を教えてしまったのだ。その知らせに少し怒りながらも彼女からの連絡を待ってオレがついウキウキしてしまったことは事実だ。
 まぁなんつうか。カモにされた、って結末らしいな。俺は俺に耳打ちして笑ってしまった。その笑いのタイミングがちょうど彼女の話のどこかに合致していたと気づいたのは、彼女の次のセリフを聞いた後だった。
「ね、綾瀬クンもそう思うでしょ?世界にはね、今この瞬間も食糧難で餓死している子供達が何千万人もいるのよ。私達がこうしている間にも、どこかでたくさんの人々が亡くなっているの。どう?私と一緒に一人でも多くの子供達を救うために頑張ってみない?」
俺は微笑んだ。凄いね。おまえスゲー頑張ってるよ正しいよ。彼女も微笑んだ。ありがとう。綾瀬クンと一緒ならもっと頑張れそうよ私。俺は彼女に手をさしのべた。彼女が頷いて満足げに握手してくれた。相変わらずやっぱりキレイだった。
「今日はさんきゅ。ごちそうさん。これもらってくよ。俺も飢えたガキだからさ」
 店を出る時に押した木のドアの上から、カランコロンとのどかな牧場の音がした。店に入る時はきっとこの音に気づかないほどワクワクしてたんだな、と思うとちょっぴり切なくなった。高校時代、陸上部の男はみんな彼女に惚れていたっけ。その頃の彼女の可憐な笑顔を思い出そうとしてみたけどうまくいきそうにもない。3000円分の食事券を握りしめてふと空を仰ぐと、最後の大会の日みたいな澄み渡った青が眩しい。第2駐車場の一番奥を目指して俺は思いっきり走り始めた。

相似形

 なあ。なあってばそんな顔してんなよ。悪かったよ遅れてさ。今日はまたモノッ凄い天気いいわ。怖いくらい空が蒼いんだ。そういえばあんた昔っから晴れ男だったんだって?おふくろがよく言ってた。たった一つの取り柄が晴れ男。まるで日本昔話みたいにあんたのこと話してたっけ。
 いつから身体悪かったんだ?ここに来た時はもうボロボロだったんだって?あぁさっきあんたの女だっていう人に会って聞いたんだけどさ、言っちゃ悪いけど最悪じゃねぇか?趣味悪すぎだって。あんたもしかして保険でも掛けられてたんじゃねえの?
 おふくろなら5年前の春に死んじまったよ。くも膜下出血。倒れてからあっという間だった。最後の言葉も何も救急車で病院行って医者に診てもらってオレが呼ばれた時はもうあの世に逝っちまってた。独りで家戻っておふくろのゲロ片付けながら最後に喰ったのがヤキソバだってわかって、オレ泣けたよ。切りつめて切りつめて暮らしててさ。あ、知ってるかあんた?おふくろスシが大好きだったって。でも金ないからガキの頃のオレの誕生日とクリスマスには、家のメシを酢飯にしてタクアンやら卵焼きやらカマボコをネタにした握り作ってくれたんだよ。スシっぽくて豪勢だぁー!なんて言いながら、ずいぶんと安上がりに盛り上がって食べたっけなぁ。
 就職して初めての給料日だったんだその日。オレさ、おふくろにスシ買って帰ったんだよ、特上のやつ。初めて自分の稼いだ金で買って帰って、ただいまーって玄関開けたらおふくろ倒れてたんだ、電話の前で。…わかるか?聞いてんのかよ?なあ?

 それでもおふくろ、あんたのこと話す時なんだかいっつも楽しそうだった。おもしろい人だったってな。そうそう、あんたの屁が異様に臭くて、それが一番オレと似てるとこだとか言っててさぁ。もう腹立つやら可笑しいやら憎たらしいやら泣きたいやら泣きたくなんかないやら、わっけわかんねえよ。そうやっていっつもあんたをネタにしてオレたち笑って暮らしてきたんだよ。エライだろおふくろってさ、バカかもしれねえけどよ、バカがつくほど偉いって思うんだよ今は。
 オレがまだ小さい頃にあんたいなくなっちまったから、あんまり細かいとこは憶えてないんだけど。あんたにタバコの輪っか作ってもらったのはよく憶えてるんだ。上手だったよなぁ。あんなにうまく輪っか作れるヤツいまだに見たことないよ。
 中学の時、隠れてタバコ吸っててさ、ちゃんと部屋の換気したつもりだったんだけど、おふくろが帰ってきていきなり泣くんだよ。それが怒って情けなくてじゃないんだ。あんたの匂いがするって言うんだよ。あんたの懐かしい匂いがするって。そう言って泣くんだよ。オイオイオイオイ泣くんだよ。どうゆんだよそれって。それでさ、オレに「輪っか作れるか?」って聞くんだぜ?ふつー怒るだろ親なら。まいっちゃったよホント。
 …まいったよ、まいった、ホントまいった。あんたがどっかで生きてると思ってたから今まで独りで生きてこれたんだ。やられた。今度こそやられたよ。どうすりゃいいんだよまったく。


 男は父親を見つめていた。大小2枚の白い布を床に落としたまま、長い時間ただ見つめていた。無言で横たわっている、男によく似た男を、茫然と見つめていた。眉毛の長さと流れ具合。眼孔の落ちくぼみ方。両の目頭の距離。逞しい鼻梁。唇の形。思いの外たっぷりとした耳たぶ。少し後退しているM字の生え際。深く刻まれた額の皺の溝。組まれた指の長さと丸みを帯びた爪。しっかりとした厚みをもち、土踏まずがほとんどない、愛嬌のある足。
 声に出すことができなかった言葉達の渦を抱えたまま、男は右の踵で左の靴を押さえて片方脱ぎ、靴下も脱いだ。自分の左の素足を、横たわる男の左足の傍らに乗せ、並べて見つめた。
同じ足が二つ。親指に少し長い毛が生えている。ふと、男は上体を屈めてその本数を数えた。

1,2,3,4,5,6。

自分の足を下ろして、もう一つの、同じ形の、冷たい左足の親指を見つめる。

1,2,3,4,5,6。


 扉の向こうには、歳のわりにはどう見ても明るすぎる栗色に髪を染めた中年女がひとり。疲れ切った顔に、それでも厚化粧をほどこして、素っ気のない黒い長椅子に座っている。霊安室の中から漏れ聞こえる嗚咽を遠くに聞きながら、女は途方に暮れていた。葬式代を男の息子に払わせることができるだろうかとぼんやり考え、それから今日が数社のうちの一社の返済日だったと思い出し、パサついた髪の中に両手をうずめて頭を抱えた。


 そうだ。見せてやるよ。あんたほどじゃないけどさ、オレもうまいんだ輪っか作んの。霊安室って空気まで死んでて動かないんだな。うまくいきそうだ。
 どうだ。うまいだろ。あんたも見せてくれよ、なあ。最後に輪っか作ってみてくれないか。昔みたいにホッペタつついてやってもいい。だからもう一回だけ。


 いつの間にか、その抑えた泣き声は止んでいた。女はゆらりと立ち上がり扉を開ける。何故か片方だけ裸足のまま、男の息子が火をつけた煙草を男の口元にあてがっている。
「なにバカなことやってんのよアンタ!」
男の息子が静かに振り向いた。なんて似てるんだろうか、この息子は。とたんに男への憎しみが息子である目の前の男への憎しみへとすり替わる。
「父親の葬式代くらいは払ってくれるんだろうね!」
そう吐き捨てたとたん女は殴り飛ばされた。顔の左側がガンガンガンガン鳴っている。冷たいリノリウムの床に倒れたまま、女は男の息子を睨みつける。
「イイ気なもんだ!同じ顔して殴りやがって!父親そっくりだよ!」

男は父親を振り返った。なんだよスッとぼけた顔してノンキに寝てやがって。もしかして今、笑っただろ。なぁオヤジ。


[2005/9]

泣く

 夢うつつのまま、紘子は遠く足音を聞いた。がん、トン、がん、トン、がん、トン、優一が登ってくる音。小さな足を一段上に踏み出してからもう一方の足を揃える可愛らしい足音。部屋の中からこの音を聞くことは滅多にない。いつもなら自分が一緒に階段を登るのだから。ドン…ドン…ドン…ドン…ドン…彼が階段を上がってくる力強い足どり。一歩ずつ確かめるようにゆっくり登ってくる聞き慣れた足音。さすがに少し疲れているのかもしれない。滅多に子供と二人で外出することなどないのだから。
 やがて鍵を開けようとする会話がドア越しにくぐもって聞こえる。
「ゆうちゃんできるから!かして!バルタン星人のとこについてる鍵だからね!」
チャリン。あ、鍵おとした。ガガッ…コン!よし、できたね。
「お母さん寝てるから静かにしなさい」
彼の声が低く響く。優一の返事はないが、二人がこちらの寝室に入ってくる気配はない。紘子は毛布を頭まで被り、壁側を向いた。ベッドの中の温まった空気の層が緩く崩れ、微かにオードトワレが薫った。(お願いだから来ないで。私を放っておいて)祈るように紘子は思った。ひとりにして。そうして再び、心地良い眠りという唯一の逃げ場に墜ちてゆくのだった。

 うぅ…ううぅ…自分がうなされている声に気づく。熱はそう高くはないのにどうしてこうも苦しいのだろう。関節のあちこちが鈍い音を立てて軋んでいるようだ。たかが37度3分の微熱でうなされるなんて…と思いながらも自然と声が出てしまう。不思議なことに唸っていると少しラクになるような気がする。手負いの動物も発熱した赤ん坊も幼い子もみんなみんな唸るんだもの、やっぱり抑えなくていいよねぇ、とウツラウツラしながら紘子は自分を慰めた。
 居間からは時折彼と優一の声がするのだけど一体何をしているのだろう。父親と2人でいる時の優一がどんな風に喋ってどんな表情をするのか見てみたいと、ふと思う。「ぼくねぇ…なんだよ」「お父さん、アノ…」よく聞こえない。
 優一は退屈していないだろうか。仕事場に連れて行ってもらって嬉しかったのだろうか。楽しいことは何かあっただろうか。彼はそのうちいつものように椅子に座ったまま寝てしまうだろう。そしたら優一は私のところへ来るだろうか。そんなことを思ったまま、またウトウトと眠りに引き込まれてしまう。

 パタ、パタ、パタ…廊下に足音がする。そぉーっとベッドに近づいてくる気配。
「おかあさん…ただいま…」
優一が小さな声で呟いた。胸が痛んだ。幼いながらに風邪で寝込んでいる母親に気を遣っているのだ。胸が詰まる。紘子はギュッと目を閉じた。しばらくベッドの横で様子を窺っていた優一は、やがて諦めたように遠ざかる。「お母さんやっぱり寝てる」と遠くで声がする。紘子は一瞬泣きそうになる。ごめんなさいごめんなさい。ごめんね。でも…邪魔しないで。そばに来ないで。お願いだからあっちへ行ってて!

 何度目覚めて何度眠りに墜ちただろうか。今いったい何時だろう。彼と優一はどこかで食事してきたのだろうか。微かにTVの音だけが聞こえる。二人して寝てしまったのだろうか。ヒーターはつけっぱなしだろう。ソファベッドの電気敷布は子供には熱すぎるだろうに、彼はきっといつも通り適温より高くしたままなのだろう。優一は汗をかいているのじゃないかしら。それでも起きあがる気力はなかった。寝続けているうちにくったりと力と名のつくものが全て削げ落ちてしまったように思えた。
 なんとかしてみて、なんとかしてみなさいよ、私が世話を焼かなくてもたまには二人きりで過ごしてみたらどうなのよ。いつの間にか彼に対するさまざまな小さな怒りまでもが脈絡も無しに次々と鎌首をもたげてくるのだった。
 私が何もしないですって?アナタが具合悪い時に看病したのはどこの誰だっていうのよ?酔っぱらって人前で私の悪口言うのはやめてよ!どうして籍を入れてくれないのよ?そんなに好きでもないなら何故一緒に暮らしてるのよ?私を…もう私を解放してよっ!!!
 …嘘だ。解放されたいなんて思っていない。そんなこと望んでいない。なんとか人並みに暮らしてゆけるのは彼のおかげなのだから。このままでいいと思っている。きちんと離婚という決着をつけたはずの彼が私と再婚する意思のないことはわかっている。他人に何と言われようが実家に罵倒されようが、私が彼を信頼してこうして一緒に暮らしているのだから。
 そういえば彼は最近、紘子を褒める時がある。おまえのおかげで優一はいい子に育ってくれている。おまえの教育がいいからだよ。それを聞くたびに紘子は片頬で笑うしかないのだった。
 わかっている。彼は決して紘子を一人の女として可愛がってくれてはいない。その罪滅ぼしのために言っているだけなのだ。おそらく、この辺で少し褒めておいてやらないと紘子がキレるかもしれないという危機感から。それなら勝手にキレさせておけばいいが、母親のそんな姿を優一には見せたくない。父親と母親が言い争いをしているところなど見せたくない。それだけのことなのだ。時々飴玉を口に放り込んでおけば、少しはもつだろう、と。そんな上っ面を撫でるような言葉なんていらないと思うたびに、やさぐれた匂いを身に纏ってしまうような不快感がし、何故かフッと気が遠くなりそうになる。
 熱が高くなってきたように感じる。薬が飲みたい。でも薬箱は居間にある。居間に行ってしまえば独りきりの時間は終わってしまう。行けない。行きたくない。今は誰も受けいれたくない。受けいれるものか。もはや何に対して自分が意地を張っているのかもわからくなっている。ただ涙が涙腺ギリギリにまで迫り上がってきては、出口を見つけ出せずに泡立ち、ふるふるとただ藻掻いている。グラスの縁に盛り上がった水の表面張力、それが今の自分の姿だと紘子は思う。こぼれてしまいたい。

 あの人は今頃、何処にいて何をしているのだろう。あの人の夢をみる。何度も何度でも、細切れにカットされた映画のフィルムのように夢をみる。私を抱きしめてあげたいと書いてくれた、たった一人の人。疲れた溜息をひとつ、またひとつ、と落とすように、インターネット上に日々の他愛ない出来事を綴っている紘子にコメントしてくれた男。いや本当は男ではないかもしれない。同じ境遇にある女性が、たまたま気まぐれで書いただけなのかもしれなかった。
【わかるよ。抱きしめてあげたい。】
それだけだった。紘子はその夜、その文字を長いこと見つめていた。自分の中の凝り固まってしまったくだらない不平不満の塊がスルスルとほぐれてゆくのが感じられた。抱きしめられたかったのだ。ただそれだけ。紘子はやっと自分を少しずつ蝕んでいる病の病巣を探り当てたような気がした。
 ある朝、早くから目が醒めた紘子は、優一がぐっすり眠り込んでいるのを確かめてから居間のソファベッドで眠っている彼の元へ行った。遮光カーテンをひいてある薄暗い部屋で、彼は穏やかな寝息を立てていた。部屋中に彼の匂いが立ちこめている。彼の体温を感じたいと痛切に思った。身体の芯から冷え切ってしまうような淋しさを感じていた。毛布を除け、狭いスペースに分け入って無理矢理彼の横に滑り込んだ。あぁ…あったかいなぁ…そう思った時、彼が驚いて目を覚まし、困り果てたようにこう言った。
「やめてくれよ。頼むよ寝かせてよ。勘弁してくれよ」
その瞬間、怒りの言葉が紘子の口をついて出てしまった。
「なに?こうしてるだけでもダメなの?さわるだけでもダメなの?私のこと嫌いなの?夜でもダメ朝でもダメ?じゃあ一体いつだったらいいのよ!あなたから私に触ってくれたことなんかないじゃない!やっぱり嫌いなんじゃない!」
とたんに涙がこぼれた。と同時に自分がまるで聞き分けのない子供のように思えてちょっと笑い出しそうになってしまった。ヤダ!買って買ってコレ買ってぇっ!と地団駄を踏む子供みたいじゃないか。バカみたい!バカ丸出し!
 自分の口から出た自分の言葉に冷めていた。なんで泣くんだ。彼はそう呟いて不思議そうな顔をした。まるで見たことのない虫でも見るような顔つきだった。或いはお手上げ、といった。何粒かの涙はあっという間に乾いてしまい、残された悲しみはヒラヒラと音もなく澱のように沈んでいってすぐに見えなくなった。
 紘子は打ちひしがれたような表情を顔に貼りつかせて自分の寝室に戻り、優一の傍に冷えたままの身体を横たえた。心の中では彼に詫びてもいた。彼の持病のせいなのだ。身体が弱っているんだから。健康体じゃないんだから。彼が悪いわけじゃないんだから。でも…この底なしの空洞は一体どうやって埋めたらいいのだろう。
 ここ数年来、年に何度か重苦しい痛みを伴ってあらわれる微熱は、或いは、この空洞を渡る風の温度なのかもしれない。

 いつしか紘子は、【抱きしめてあげたい】と書いたきた誰かもわからない人物を頭の中で理想の男に仕立て上げていた。そしてその男が残していった、たった一つの言葉に依存している自分を恥じた。恥じながら夢の中でその男に抱きしめられて深い安堵の溜息をつく。溜息はいつしか熱を帯びた嘆息になってゆく。顎に優しく手を添えて男は紘子の顔を上げさせる。男の顔はよくわからない。慈悲深いまなざしだけが靄のかかった夢の中で柔らかな光を放つ。男の唇が紘子の唇に触れるか触れないかのうちに紘子はもう溶けている。男の唇の柔らかな感触は瞬時に信号となり明瞭にデジタル化されてブレることなく病巣を貫く。すぐに滑らかな舌先が入り込んできてそれは言葉もないままに刺々しい塊となった心の中のしこりをあっという間に解きほぐしてゆくのだった。そんな口づけを最後にしたのはいつだっただろう。
 自分が放つ甘い匂いに噎せかえりそうになりながらとうとう下着の中に手を忍ばせる。夢の中の男の大きな手が紘子の手に重なり、一緒にそこを探ろうとする。閉ざされているその扉をそっと開けると、もうどうしようもないほどに濡れているのだった。かわいそうに、かわいそうに、こんなに泣いてたんだ。グラスの縁から溢れることができないままの涙は、そうやってグラスの底のひび割れからドクドクと滲み出してくるのだった。あとからあとから止めどなく溢れてくる涙を、夢の中の男は掬い上げては飲み込んで、また撫でては掬ってくれた。紘子は温かな男の懐に包まれながら、身体中を駆け巡る濁った体液が少しずつ浄化されてゆくような感覚に、ただただ身を任せていた。やがて男は紘子のもので濡れた指先を差し出した。男の目は泣きそうにも笑っているようにも見えた。紘子は目を閉じてその指をそっと舐めた。涙の味がした。

 どれくらいの時間眠っていたのだろう。つい壁の時計に目をやったが、いつか保険屋のおばさんに貰ったそのディズニーの時計は、そういえば数日前から3時45分で止まったままだった。秒針の音がしない方が気が休まると思ってそのままにしてあった。不毛な時が自分だけを置き去りにして目の前をただ通過してゆくイメージが恐ろしかったのだ。
 ドアが開いて、眠り込んだ優一を抱え、彼がつらそうにベッドの脇に運んできた。
「だいぶ重くなったな…」
彼は独り言のようにそう言って、ダランと力の抜けた優一の身体を紘子の横にそっと降ろした。ありがと、そう呟いて笑顔を作ろうとしたがうまくいかなかった。ごめんね、そう言いたかったけれど言葉にならなかった。
「今何時?」
おそらく今日初めて人に向かって発した、かすれた声で紘子が呟く。壁のミッキーとミニーをチラリと見やり、電池入れとけよ、と彼は何かを諦めたような、しかし穏やかな声で言ってから「11時半」と静かに言い残して寝室を出ていこうとし、ふと思いついたように向き直って紘子の額に手をあてた。
「熱、ないな。パソコンなんかしてないでちゃんと寝ろよ」
彼が最後に私に触れてくれたのは、一体いつだっただろう。思い出せない。熱はあるよ、あるんだよ、ちゃんと触ってみてよ、微熱だけど確かに熱があるんだよ。だからこんなに辛いんじゃないの。

 穏やかにすやすやと眠っている優一に、そっと水色の毛布をかけてやった。今日一日、一度も抱きしめてあげることができなかった。優一が生まれてからたぶん初めてのことだ。きっとたくさん我慢していたのだろう。泣きもせずに。オデコを撫でると、清潔で幾分ひんやりとした感触のなかに温かな熱を感じた。「クフン…」と動物の子のような微かな鼻声をあげて、優一は毛布の奥に沈み込んだ。母親の涙の匂いで溢れているだろう毛布に抱かれて、優一が深く息を吸い込み、そして安堵の息を吐いた。

さよならマーチ

 仕事納めの日、あの人はそのまま忘年会に行き、2次会3次会と流れて思う存分ハメを外していたようです。いつの間にか寝入ってしまった私は携帯の密かな振動音で起こされました。
「桜木町のENVYって店にいるから迎えに来い!飲み代足りなくなったから5万持ってこいよ!」
女性達の嬌声と男達の笑い声とまるで爆撃のような音楽が後ろから聞こえて頭がシンと冷え、私は無意識に電話を切り娘の頬に擦り寄ってその甘い香りに包まれました、関係ない関係ない私には関係ないもうこれ以上私に用事を言いつけないで。その現実と夢が混ざり合うような感覚の中で、うつらうつらとまどろみながら、何かが焦げるような匂いに気づいたのです。慌てて飛び起きると台所に向かう途中の廊下には煙が充満していました。もうもうと立ち込める煙を払いつつ台所に向かいガス台の火を消しました。お煮しめの大鍋には無惨にも炭と化した具材が燻っているばかり。急いで台所の窓を開け換気扇を強にして鍋をシンクに置き水をかけました。

      ジュウウウウウウウウウウウウウウウ………

 大量の白い煙が立ち上り、私は噎せかえって何度も咳をし、ボロボロと大粒の涙を流しました。一体今何時なんだろう…あああ…もう午前2時。私は鍋を見つめてただただ茫然としていました。火事になるところだった。火事になってしまえばよかった。
 三角コーナーにはゴボウやニンジンや大根や蓮根や里芋の皮があふれ、ゴミ袋はコンニャクや焼き豆腐やチクワや干し椎茸の空袋で埋め尽くされ、食卓には朝食の残骸や夕食の弁当の殻や娘の小さなお茶碗やスプーンが雑然と散らかっていました。長い長い一日は私が別れを告げる間もなく終わっていたのです。

 朝5時に起きて朝食と離乳食と弁当を作り、乾いた洗濯物を畳みタンスにしまい再び洗濯機を回し、身繕いをしてあの人を起こし着替えを出してあげ朝食を食べさせ私も食べようとしたけれど娘の泣き声が聞こえて娘のオムツを替え抱いて乳を与え、そうしている間にあの人がシャツにアイロンかかっていないと怒り出し、娘を抱いて乳を吸わせたままアイロン台を出して「まったく色気も何もあったもんじゃないな」というセリフを聞き唇を噛みしめてまだオッパイと泣く娘をソファに置き、胸元を隠して急いでアイロンをかけている間に娘がソファから落下して「ちゃんと見てないからこうなるんだ!」と怒られ、また娘を抱えながらなんとかアイロンを済ませて着せながら、あの人の独身の時と変わりなく整えられた髪型と仄かに香るオーデコロンに胸の奥底で理不尽を憶えていると、抱えた娘があの人の胸のあたりに触ろうとして、あの人が「乳臭くなる!」とまた舌打ちしてもういい今夜は遅くなると言い残してサッサと出かけ、私は娘に離乳食を与えて着替えさせ2人分の荷物を準備して娘をおぶって家を出て自転車を飛ばし保育所に娘を預けて駅へと急ぎ、階段でつまづきストッキングの膝を伝線させ満員電車の中で誰かにお尻を撫でられながら会社に向かい、保育所のお迎えになんとか間に合うようにと昼休み返上でデスクの引き出しに買い置きしてある菓子パンを囓りながら伝票の計算処理に追われ、ふと気づくとオッパイがパンパンに張ってしまっていてトイレで母乳を絞り捨てながら乳牛のイメージに囚われ、終業後に課でお疲れさん会でもと華やぐ空気に背を向け電車に揺られ駅前のスーパーで急いで年末年始の買い物をして大きな2つの袋を自転車のハンドルにそれぞれかけて保育所に向かい、石のように硬く強張った背中に娘をおぶって死にもの狂いでペダルを漕いで家に帰り、休む間もなく風呂にお湯を張り娘をテレビの前に下ろし子供用ビデオを見せて、朝の食卓がそのままになっている光景から目を逸らして、そう、ガス台の前に椅子を置いて台所の下のマカロニや高野豆腐を置いてある引き出しの奥の煙草を取り出して、ガスの青い炎に煙草の先端をそっと近づけた時…
 

♪なにが君の幸せ~ なにをして喜ぶ~ 
  わからないまま終わる~そんなのはイヤだ! 
   忘れないで夢を~こぼさないで涙~
    だから君は飛ぶんだ!どこま~でも~♪
 

 居間のテレビからアンパンマンの歌が聞こえてきました。何が私の幸せで何をしたら私は喜ぶのでしょう?わからないまま終わるような気がして私は換気扇のブオオオンという音の下で泣きながら煙草を吸いました。
 それから娘に食事をさせ私は弁当をつつきながら缶ビールを2本空けました。あの人がいなくてよかった。夕食の支度をしなくていいというだけでどんなに心と身体が休まることかあの人は一生知ることなどないでしょう。
 2人でお風呂に入りました。お風呂の中で思いついてアンパンマンの歌を唄ってあげたら娘はバチャバチャとお湯を叩いて喜びました。まだ生まれて5ヶ月だというのに私にはわからない幸せと喜びを知っているのだ。そう思った瞬間娘をお湯に沈めていました。お湯の中で歪んだ娘の顔は一生忘れません。私はすぐに娘を抱き上げて謝りました。
「ごめんねごめんね、ママ手が滑っちゃったの、苦しかったでしょ」
娘は目を白黒させて私にしがみつきました。その時私はかすかに幸せの手応えを感じたのです。無力な者に頼られていることの幸せを。
 シャンプーしてあげながら私は盛大に泡を立てて娘の顔にその泡をわざとこぼしてみました。目に鼻に口元に。娘が手足をバタバタさせて藻掻いている姿を見て慌ててシャワーをかけ洗い流しました。しつこくシャワーをかけていると娘は呼吸ができずにまた苦しみました。私はシャワーを止めて抱き上げ苦しかったでしょうとなだめました。娘が落ち着くまでずっとずっと優しく抱きしめて撫でてあげました。今度は喜びが溢れてきました。喜びの形を確かに捉えました。心が凪いでゆくのを感じたのです。

 娘を寝かしつけながら急激に眠気が襲ってきました。でも寝てしまうわけにはいかなかったのです。台所を片づけなくては。あの人は帰ってきて家の中が片づいていないと不機嫌になるのです。それに明日大晦日にはあの人の実家に行って、今年最後のエステに行くという義母のかわりに大掃除をしなければならないので、どうしてもその夜のうちにお節の準備をしておかなくてはならなかったのです。あの人は出来合いの料理の味付けが甘すぎる辛すぎると言って箸をつけてくれないのですから。
 私は湯冷めしきった上にコチコチに凝り固まった身体に鞭打って起き上がり台所に向かいました。無心で野菜の下拵えをし出汁をとり日高昆布を水に浸し身欠きニシンと数の子を塩出しして漬け汁の味見をしている時…
 

♪もし自信をな~くして~ くじけそうにな~ったら~
  いいことだけいいことだけ思い出せ!
   そうさ空と海を越えて~風のように走れ~
    夢と愛をつれて~地球をひとっとび~ひぃとぉっとび~♪
 

 娘のビデオの歌を思い出していました。いいことだけいいことだけ思い出せ。いいこと。結婚してからいいことなんてあったかしら。そんなことを考えながら、あとはもう少し弱火で煮込むだけにして寝室の娘の横に寄り添って冷えた身体を温めながら、いつの間にか眠っていたのです。
 
 

 焦げた鍋を見つめたまま慌ただしかった一日を思い出してぼんやりしているうちに悪寒がしてきました。居間に置いてある新聞紙で扇ぎ煙を窓の方に追いやり少しおさまったところで寝室に行きました。携帯を見ると8回もあの人からの着信がありました。私は怒られるのを承知で観念してあの人に電話しました。
「ごめんなさい、さっきちょっと台所で…」
「なんなんだよゴチャゴチャうるせーな!もう家出たのか!?」
「いえまだ家にいます」
「バカかおまえはっ!早く迎えにこい!こんな時間じゃタクシーも拾えないんだよ!金忘れるなよ!」
電話が切れる前に「クソ女…」という呟きが漏れ、後ろから「次ケンちゃんの歌だってばぁー」という女の甲高い声が聞こえました。
 朝から晩まで動き回り常に時間に縛られて頭の中で段取りをし、家事保育所仕事買い物保育所家事と何から何までこなし、自転車と満員電車で体力を消耗しクタクタに疲れ果てている私。悠々と身だしなみを整えてから仕事に向かい、休日は昼まで寝てから映画だゴルフだと『気分転換』をしに出かけ、たまには美容院にでも行かないと恥ずかしくて一緒に出かけられないなどと私を嘲笑うあの人。「おいコーヒー」「おい新聞」「おい風呂は」「おい着替え出しておけよ」「おい俺を清潔なハンカチも持たない男にする気かよ」おい。おい。おい。おい、おい、おい、おいおいおい………
 

 お義父さんお義母さん、私ひとりでお邪魔させていただくの、初めてでしたね。話しを聞いていただくのも初めて。あ。名前も一度だって呼んでいただいたことないんですよ。私の名前、御存知でしたか、いえ冗談じゃなくて。私の両親は私が子供の頃、借金を抱えて心中したんです、それも初耳ですよねきっと。
 あの人…憲一さんに口止めされていたんです。言う通りにしなければ結婚してやらないと言われました。憲一さんは家を出たくて結婚したに過ぎないんです。はっきりと私にそう言いました。家政婦だと思ってもいいのなら身重のおまえと結婚してやると。
 お義父さんお義母さん、私は今まで他人様に悩みを打ち明けたことなどないのです。全部自分の胸の中で解決して生きて参りました。でも今回ばかりは聞きたいんです、私が間違っていたのかどうか、自分でもわからないんです。私の両親は私を生かすために死んだのだと施設の先生に言われて育ってきました。だから自分を大事にしなさい。独りでも立派に生きて立派な人と結婚して家庭を持てたなら相手の方の親御さんが貴方の親になるのよ。その時に愛する人の親御さんを本当に自分の親だと思えたなら全てが報われるのよ、と。
ですから私はお義父さんお義母さんを親だと思いたかったのです。私を娘だと思って可愛がってほしかったのです。名前を呼んでいただきたかったのです。

 誰を殺せばよかったんでしょうか。自分を殺せば桃香は頼るべき母親を失う。憲一さんを殺せば桃香は殺人者の娘として一生十字架を背負って生きることになってしまう。可愛い桃香を殺すなんて出来るわけがない。一体誰を殺すのが正解だったのでしょうか。教えて下さい。教えて。教えて。
 
 
 

 「憲一、この人一体どうなってるの?」
「俺にわかるわけねーだろ!迎えに来るって言っときながら来ないもんだからタクシー2時間も待ってさ。やっと帰ってきたと思ったら窓全開の寒くて焦げ臭い部屋ん中こんな格好でブッ倒れてたんだから」
「この人ずっと何かブツブツ言ってるわよ気持ち悪い」
「知らねーよ!びっくりしたのは俺だって!救急車呼ぶにも呼べなかったんだから!」
「そうよね。さすがだわ憲一。これじゃみっともなくて他人様に見せられないわよねぇ」
「ねえパパに頼んで入院させてもらえねぇかなー」
「それこそみっともないわよ!さっきパパが注射してくれたから平気でしょ!ただの風邪みたいだし肺炎の心配ないって言ってたじゃない!もぉ…アナタ面倒みなさいよ!ママは今夜お友達とカウントダウンパーティーに行くからダメ!」
「もぉカンベンしてくれよ!どぉすりゃいんだよ桃香の世話だって!せっかく秋から白馬に予約しておいたのに!」
「だったら桃ちゃんだけでも連れていけばいいじゃない」
「友達と行くんだぜ!?子供なんて連れて行ったら遊べねぇじゃねーかよ!ねぇパパに頼んでよママ!」
「それより大掃除どうしようかしら今からじゃハウスクリーニングも頼めないし…肝心な時に役に立たないんだからもぉ…ホントになんなのよこの顔この格好っ!」

 熱に浮かされて譫言を繰り返し顔を紅潮させている祥子。眉をひそめて妻を見下ろす憲一。孫の桃香を抱いた義母の百合子。祥子の両頬には赤のマジックで丸が描かれ、毛布の下は上下赤のスエット姿である。憲一が祥子を発見した時には、黄色の靴下と黄色の台所用ゴム手袋をして黄色の紐を腰に巻き、首にはまるでマントのように風呂敷が巻かれていた。
「パパの病院っていうよりサッサと家から追い出して精神病院にでも入れた方がいいんじゃないの!?」
百合子が吐き捨てるように言った瞬間、突然祥子の目がカッと見開き、その腕が俊敏に動いた。
「ア~ンパーンチッ!!!ア~ンパーンチッ!!!ア~ンパーンチッ!!!」
不意打ちで顔を殴られてのけぞる憲一と百合子。転んで倒れ泣き叫ぶ桃香。
「ア~ンパーンチッ!!!ア~ンパーンチッ!!!チーズ!パン工場に行ってジャムおじさんに新しい顔を作ってもらうんだっ!」
アンパンマンが台所に向かう。チーズと呼ばれた桃香が泣き叫ぶ。憲一と百合子が顔を押さえて蹲っている。やがてアンパンマンが出刃包丁を持って戻ってきた。
「わああああああん!わああああああん!わああああああん!」
「チーズ!はやくパン工場に行くんだっ!それっア~ンパーンチッ!!!」
 

♪そぉだっうれしぃんだい~きるっよろっこび!
  たとえっ胸の傷がい~たんでも~
 そぉだっうれしぃんだい~きるっよろっこび! 
  たとえっどんな敵があ~いてでもぉ~♪
 

 大晦日、早朝。まだ静まりかえっている住宅街の一角から、バイキンマンとドキンちゃんの断末魔の叫びとチーズの鳴き声、そして正義のヒーローぼくらのアンパンマンの戦いの雄叫びがこだましていた。

受容の、穏やかな末路

予期された末路の日 わたしは蛹になっていた
土の中はどこまでも生温く
風も雨も陽ざしも涼やかな木陰もなく
遠い耳鳴りだけがいつまでもこだまして 
パリパリと乾いた甘露の膜の内側では 
足の小指の先から順に壊死がはじまっていた


かたくなな傭兵がいて
或る半月の晩 
馴染んだ鎧を脱いだとしよう その夜を越えるためだけに
わたしは湖のほとりにいて
わたしに弱められることだけを望む男を待っていた
来るべき者がそこに来て 
迎えるべきわたしという者がそこにいて
そうして夜を渡る小舟を漕いでやった
(・・・ダレニモ言ワヌ、コノ舟ハ恥ノ舟)


甘噛みし
舌を差しいれ
掻き混ぜてやり
膿を吸い出しては
新たな生き血を注ぎ
ひからびた唇を幾度となく丁寧に愛した


小舟と水面の触れ
「ちゃぷ。ちゃぷ。」と繰り返す、かすかなトレモロ
時折の梟の鳴く声、夜鷹のおおげさな羽音、淡水魚の跳ねる水音、
夜だけがみせる息づかいに見守られて
わたしの乳房と腰に両の手のひらの痣をくっきりと残しつつ
傭兵は声帯を閉じたまま、ただそのからだを震わせた


眼を光らせて、夜鷹が、ふたたび羽ばたく


消息は途絶えた
静寂の湖畔、そして森だけがあり、
生爪を剥がしながら土を掘りすすめたわたしは
横たわるための窪みをしつらえて躰を置き
やがてしずかに蛹になっていた
たった一人の男を弱めて一夜を渡る小舟を漕いでやり
夜明けの岸辺であろう湖の向こうへと連れ出した
生の役目を終えた壮大なわたしだけの充実
爪先から順に命を腐らせながら
飴細工のような蛹の硬膜に守られたわたしがここにいる
「予期された末路の日」を受容して
こうしてただ、ここにいる

殺意の谷

 ほんのまばたきの間に、短い悲鳴を残して少女は谷底に消えた。
夕陽の歪んだ輪郭の一部が、もうすぐ向こうの山の稜線に触れようとしている。カタンカタン、カタンカタン、カタンカタン・・・遠く、急行電車の窓灯りが右端から夕刻を縫って過ぎてゆく。車窓にある幾つもの顔は、誰かの知っている顔によく似ているのかもしれない。各駅停車しか止まらないこの小さな村のありふれた風景の一角、小高い山の中腹を切り裂くように口をあけた深い谷の底に、一人の少女が湿った腐葉土にまみれて転がっている。




 「ただいまぁ!お留守番ありがとねぇ!」
真希子は慌ただしく玄関のドアを開けた。夕飯の支度の途中で、生姜を切らしていたことに気づいた。今夜はパパの好物のイカの刺身だというのに、生姜がなければ始まらないではないか。のどかな村とはいえ、こんな時間にお兄ちゃんにちょっと自転車で行ってきてとは頼めない。真希子は息子たちに留守番を頼んで、スーパーまで車を飛ばしてきたのだ。
 居間の方からゲームの大音量が聞こえてきて、健児の不満げな声が重なる。
「おにいちゃんズルイ!もう代わってってば!ねー!ねーってば!」
この春から健児は年長さん、裕太は3年生。3つ離れた兄に理不尽な意地悪をされて怒ってみたところで健児が敵うはずもない。サンダルを脱いで買い物袋をそっと置き、開けっ放しの居間のドアから中の様子を盗み見ると、健児が地団駄を踏みながら裕太の背中を叩いている。裕太はビクともせずに画面を見つめたままゲームに熱中している。画面ではウルトラマンとゼットンが戦っている。自分の誕生日に買ってもらったばかりのゲームを兄の裕太が独り占めしているのだから、健児が怒るのも無理はない。それに音量がいつもより相当大きい。普段は物わかりのいい素直なお兄ちゃんでも、親の見えないところでは弟に横暴な振る舞いをしたりするのだろうか。すぐに踏み込もうとする気持ちを抑えて、真希子は2人がどうするのか見てみようと思った。
「おれのなんだからな!ママがいないからってズルイぞ!返せ!」
裕太は服を引っぱられて揺すられようがお構いなしにゲームを続けている。真希子は不安になってきた。もうそろそろ限界ではなかろうか。
 健児が不意にテーブルの方へ向かった。何かの紙をビリビリと破りはじめる。
「もういい!おにいちゃんなんかキライだ!こうしてやる!」
裕太が弾かれたように振り向き、驚いて立ち上がる。破られたのはプリントだろうか、見る間に顔が真っ赤になってゆく。
「なにすんだ!明日の宿題なんだぞ!弁償しろ!」
「おにいちゃんが悪いんだ!ざまあみろ!」
そのとたん、裕太が弟の横腹を思いっきり蹴り飛ばした。真希子は絶句した。思いもよらぬ息子の激しさを見て、気が動転してしまった。
「わあああああああああ!おにいちゃんのバカああああああああ!」
裕太は続けて手をあげようとしている。真希子は飛び出して健児に駆け寄った。蹴られた脇腹を押さえて涙でグチャグチャになっている。
「裕太!今あんた思いっきり蹴ったでしょ!」
「・・・やってない」
「嘘つきなさい!ママ見てたんだから!」
裕太は唇を噛みしめてうつむいている。
「なんで嘘つく!謝りなさい!裕太!」
両手をグッと握った裕太は、弟を憎々しげに見下ろして叫んだ。
「ケンジなんて死んじまえ!」
真希子は凍りついた。頭が真っ白になる。なんだかわからないうちにスタスタとTVの前に行き、テレビゲームのコードを力任せに引っこ抜いて居間の窓からゲーム機を外に投げ捨て、裕太の目の前に立ち、その頬を平手打ちした。
「もう一度言ってみなさい。」
手の平がジンとする。怒りが過ぎて自分でも驚くほど冷静な声が出た。叩かれたことが信じられない、というような顔で裕太が頬を押さえている。
「もう一度言ってみなさい裕太。」
裕太の二重の大きな目から涙がボロボロとこぼれ落ちた。真希子はそれを見ても怒りが収まらない自分を感じていた。弟を思いっきり蹴った時の容赦の無さが許せない。健児は張りつめた空気の中、痛みを忘れたように身体を起こして2人を見つめている。
「裕太!」「クソババア!」
叫びが一緒になった。ハッとして一瞬見つめ合い、気づいたら真希子は裕太を抱えて居間の窓から外へ投げ出していた。
「そんなにゲームがやりたいなら一晩中外でやってなさい!もう家に入ってこなくていい!」
真希子は窓をビシャッと閉めて鍵をかけた。カーテンを一気に引いてから玄関に走って、玄関の鍵も閉めた。頭の中には「死んじまえ!」と「クソババア!」がグルグル回っている。健児が息を詰めてぺたりと座り込んでいる。




 裕太は投げ出されたそのままの格好で茫然としていた。裸足だった。目の前には自分と同じように投げ出されたゲーム機が転がっている。辺りは薄暗い。友達と遊んで帰ってきて、ママに言われて居間のテーブルで宿題をしながら、横目でゲームをやっている健児を忌々しい気持ちで見ていた。音が気になってなかなか集中できない。うるさいぞ、とそれでも控え目に言うと健児は振り向いてアッカンベーをしたんだ。ムカつく。
「やったー!ママ見て!バルタン倒したよ!」
ママは台所の手を止めて健児の頭を撫でに来た。スゴイねーケンジ!上手だねー!裕太はイライラして弟を睨みつけた。パパもママもいつも弟ばっかり可愛がっているように感じていた。ママが買い物に行った直後にゲームを奪って、それからずっと渡してやらなかった。口もきいてやらなかった。だっていつも健児ばっかり甘やかされて、健児ばっかり可愛がられて、ケンジばっかり、ケンジばっかり・・・。
 左のほっぺたがジンジンしていた。悔しかった。裕太は袖で涙を拭って立ち上がり、ゲーム機を拾って裸足のまま歩いた。道路の脇の側溝に捨ててやろうと思ったのだ。家が見えなくなる手前でちょっと振り返って見てみた。玄関の灯りと窓のオレンジ色の灯りが暖かそうで、また涙が出そうになった。隣の家からはテレビの音と赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。どこからか、カレーの匂いが漂ってきた。かすかに醤油の焦げたような香ばしい匂いも混じっている。おなかすいたなぁ。すると腹がグウと鳴った。ケンジ腹痛かっただろうなぁ。さっき思いっきり蹴っ飛ばしてしまったことを後悔していた。謝ればよかったのだろうけど、悔しくて悔しくて、できなかった。おまけにクソババアと言ってしまった。これでもう完全に嫌われてしまった、と思った。もう家には帰れない。どうしよう。裕太は心細くなってきた。捨ててやろうと思ったゲーム機を見つめているうちに、また悲しくなってきた。どこに行けばいいんだろう。足が冷たい。




 まるで何事もなかったかのように、切り立った谷の淵は、ただ静かに口を開けていた。その静寂の淵に能面の女がしゃがみ込んでいる。根元から5センチほども黒く伸びてしまっている赤茶けた髪を無造作に、というより乱雑に束ねている頭が、谷底を覗き込んでいる。谷の口には雑草やシダ類の葉が残光を拒むように生い茂っていていて、奥には闇が広がるばかりだ。どこ行った?どこに墜ちた?どこに消えた?女は狂ったように目を凝らした。暗い、暗い暗い暗い、暗くて暗くて怖い。女の背中に黒い静寂が張りついたかと思うと、とたんに足元からも恐怖が這い上がってくる。女は目を剥いて起きあがり、背後を見た。刻々と夕暮れが迫る。もうすぐ日没、辺りは闇に溶ける。女は、やにわに走って近くの木に抱きついた。何かに捕まらなければ今の私も消されてしまう。たった今、谷底に消えた少女は、子供の頃の私かもしれない。木肌に頬をつけて「ああ」と女は小さく声を出した。ああ、あああ、あああ。太い幹に背中をつけてそのまま座り込み、後ろ手で木を抱きしめる。まばたきするのが怖かった。だって、まばたきの間に少女は消えたのだ。無意識にまばたきするものかと目を見開き、耐えきれなくなると自力で目を思いっきり閉じてすぐ開いた。息が、息がうまくできない。吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて、そうだ、落ち着いて、吸って、吸って、吐いて、そう吸って、吐いて。そうそう。吸って、吸って、吐いて。何度か繰り返すうちに、いつの間にかそれがラマーズ法の呼吸になっていることに気がついた。ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ああ、少し、少し、ラクだ。ここは分娩台なんだと女は思った。そうだあの時、看護婦さんたちが私の味方になってくれた!そうそう上手、上手だよ、もう少し、もう少しだよがんばって!がんばって!がんばって!ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、嬉しかった、私あの時すごく嬉しかった、だって初めてだったから。誰かが私を励ましてくれるなんて。上手だよって、頑張ってって。フーッ、フーーーッ、いきんで、いきんで、いきんで!そう上手!そう!そう!

 山の輪郭を溶かして夕闇が朽ち果ててゆく。カラスがアー、アー、と啼きながら渡っていった。女は静かに木の根元に抱かれていた。とりかえしのつかないことをしてしまった。とりかえしのつかないこと。とりかえしのつかない。あぁいつかこれと全く同じ思いをした時があった。あの時だ・・・彩音を産んだ時!女はこの感情の符合を見、生まれて初めて自分というものを理解した。何を考えているのかわからない奴だと罵られ続けているうちに、いつの間にか自分で自分がよくわからなくなってしまった。でも今だけはわかる。私はたった今、自分がわかる、という結果を産み出したのだ。あの少女を犠牲にして。子供の頃の自分を犠牲にして。女は大きく息を吐いた。
 あの時、私は一人の人間をこの世に送り出してしまった。その存在を勝手に消し去ることなど出来ないのだと思って私は泣いた。死んだ方がマシとさえ思うほどの苦しみに半日のたうち回り、自分の身体が宇宙に飲み込まれていくような痛みの末に生まれたものは、一生私を縛りつけるであろう一人の人間だった。もうどこへも逃げられない。私は絶望の直中に放り出された。生まれたばかりの娘は、その血だらけの猿のような顔を一瞬見せた後に別室へ連れていかれ、私は腹を押され子宮の中をかき回され膣を縫われ、腹部に氷嚢を置かれたまま分娩室横の薄暗い控え室のストレッチャーの上にたった独り置き去りにされた。祝福は私にではなく、産まれ出でた新しい命に降り注いだのだった。
「あああ…あああ…あああ…」
私は阿呆のように声を出し続けた。誰か助けて。産む間際まで手を貸して助けてくれたように。初めて他人を信じて助けてもらえたというのに、子供を産んだ瞬間、私だけが置き去りにされた。やっぱり罠だったんだ。どうせこの先も誰も私を助けてくれやしないのだ。
 私はそれまでいろんなことをギリギリどうにかでも乗り越えてきたのだ。独りだったから。面倒なことに一切目を背けてから。でもこれからはもうその方法が使えないのだ。逃げるにも何をするにも降ろすことのできない『子供』という重い十字架を背負ってしまったのだ。私がその存在を自分の手で消さない限り一生くっついて離れないものを、産み落としてしまった。
 私は束縛の刑に処されたのだ。夫だけでも面倒だというのに、赤ん坊はいつもいつもいつもどんな時も私を縛り続けた。私の身体が赤ん坊の食べ物で、私の身体が赤ん坊の布団で、私の身体が赤ん坊の全世界。赤ん坊は私の休息を絶対に許さない生き物。それでも可愛いと感じる時があった。それは赤ん坊が寝ている時だけだ。寝ている間は愛らしいヌイグルミと一緒だから。泣かないし欲しがらないし、私がいようがいまいが息をしているのだから、私は自らの手を施さずに母親としての責務を果たしているという実感に浸ることができたのだ。私は赤ん坊が寝ている間だけ自由になれた。寝ている間に酒を飲みに行き、誰かとセックスし、思う存分パチンコをし、外食をしに出かけた。夫だった男はとっくの昔にいなくなった。いなくなってせいせいした。私を縛りつける人間がひとりいなくなってくれたというだけのこと。
 いっそのこと赤ん坊のままならよかったのだ。子供は大きくなると要求を正確に言葉に出して、前よりもっと私を縛り始めた。赤の他人より始末が悪い。腹が減ったらその辺のものを適当に喰ってればいい。風呂になど入らなくても死にはしない。私がこうして生きてきたように。いつでも人が自分の言うことを無条件に受け入れてくれるなんてどうして思うのだろう。生意気な。だから子供は餓鬼と呼ばれるのだ。勝手に息をして勝手になんとか喰いつないで勝手に遊んで勝手に寝てくれれば私にだって子供を愛することができるはずだった。子供の寝顔は最高に可愛らしいのだから。友達なんていらないに決まっている。他人はいつでも自分の損得だけで生きているものなのだから、自分もそうやって自分の損得で生きていけばいいのだ。それをいちいち友達にいじめられたとか喋ってくれないとかグズグズ言っているから泣きを見るのだ。こっちから無視してやればいいのに。寂しくなったら適当に入り込んでいってその時だけの機嫌をとってやれば済む。簡単なことだ。使いっ走りになってやったり褒めてやったりしていれば他人はいくらか優しくしてくれるものなのだ。それでまた気まずくなったら離れればいい。どうせ一生関わる人間でもない。彩音は頭が悪い。きっと夫だったあのバカな男に性格が似ていたのだ。かわいそうな彩ちゃん。

 遠く電車の音が聞こえる。カァ、カァ、とカラスの啼き声がする。カラス、なぜなくの、カラスは山に。かわいいななつの子があるからよ・・・ななつの子、七つの、七つの。女は愕然とする。7歳。かわいいかわいいとカラスはなくの。そうだ。可愛い7歳の子が待っている。彩音がいる。あの少女はやはり私だったのだ。放心していた女の目に生気が戻った。帰らなきゃ。女はスッと立ち上がり、少女が消えた谷を振り向きもせず歩き始めた。林道の脇に黒の軽自動車が止めてある。車に乗り込むとポケットから携帯を取り出して時間を確認し、電話をかけた。
「もしもしお母さん、私。そっちに彩ちゃん行ってない?そっか。いい。お友達のとこに聞いてみる。じゃあ。」
エンジンをかけてセブンスターに火をつける。ウインドーを少し下ろして鼻から煙を吐き出し、助手席を見た。彩ちゃんったら、こんな時間までどこ行ってるんだろう。探しに行かなきゃ。そうだ、そういえば宿題で『春を探しにいこう』っていうのがあるって言ってなかったか?女はジャージのポケットを探った。まだ蕾の、薄緑のフキノトウが1つ入っていた。




 「ねえママ、おそと寒いんじゃないかな。」
健児が遠慮がちな声で冷蔵庫の陰から顔を覗かせた。真希子はキャベツを刻む手を止めて時計を見た。裕太を閉め出してから20分経っている。きっとメソメソと泣きながら玄関先にでも座り込んでいるだろう。母親としてやらなければならないことだったのだと自分に言い聞かせてはみたものの、真希子は心のどこかで裕太に手をあげてしまったことを後悔し始めてもいた。それでもやはり『死ね』と『クソババア』の二言は、あまりにもショックだった。
 いつもならパパの帰りを待たずに3人で楽しく食卓を囲んでいる時間だ。健児もまた幼いながら兄の宿題のプリントを破ってしまったことを後悔しているのだろう、一人でおとなしくしていた。テレビは消したままだった。
「ぼく、おにいちゃんにあやまる。」
途中から涙声になった。ハッとして見ると、手にプリントを持っている。胸がつまった。セロハンテープで貼りつけてある。うまく張り合わされてはいないが、健児なりに一生懸命元通りにしようと努力していたのだ。真希子は小さな身体を抱きしめた。
「蹴られたとこ痛くない?」
話しかけた声が涙声になっていた。健児はしゃくり上げながら大きく何度もうなずく。
「待ってなさい。おにいちゃん中に入れてあげよう。」
エプロンの裾で目元を押さえながら玄関に向かった。ドアの覗き窓から外を見てみる。しかし外灯に照らされた玄関ポーチに裕太の姿はなかった。ドアを開けて呼んでみた。
「裕太?どこ?ごめんねママも悪かった。裕太!」
辺りはしーんとしている。
「裕太!ゆうた!出ておいで!ゆうた!」
家の周りを回ってみた。裕太はいない。玄関に戻ってみると、健児が心配して出て来ていた。
「おにいちゃんは?」
「ちょっとその辺見てくるね。」
「ぼくも行く!」
真希子はいったん家に入って急いでカーディガンを羽織った。ふと見ると、テレビの前に裕太の靴下が2つ丸まって脱ぎ捨ててある。裕太は裸足のままなのだ。真希子は激しく自分を責めた。二人の上着、靴、それにタオルを持って、健児に上着を着せて手を繋いだ。小さな手はとても温かい。




 裕太は裸足のままトボトボと歩いていた。足が冷たい。こんな時間に友達の家に行くわけにもいかない。とりあえず近所の公園に行こう。公園ならコンクリート山の下にトンネンルがある。あそこにいれば、そのうちママも探しに来てくれるかもしれない。家を出てから少しすると高田彩音の家の前を通った。近所の人の話によると、彩音は時々、遅い時間だというのに一人で家の前で縄跳びをしていたり、公園にいることもあるという。何やら悪い噂があって、母親が家に男の人を入れている時は、彩音が外へ追い出されていると聞いたことがあった。彩音は、この春1年生になったばかりだ。集団登校で毎朝一緒に歩くが、あまり親しく話したことはない。こういうのはあまりよくないので誰にも言ったことはないが、彩音は周りからあまり好かれてはいないような感じがした。でもそのわりに妙に人懐こいところもあって、たまにひょっこりと裕太の家に遊びに来るのだった。そういう時は年上の自分より、弟と一緒に遊んでいる。裕太の家はハムスターを飼っているので、彩音は決して自分から見せてとは言わないが、それを見に来るというのが目的のようだった。なぜかいつも玄関ではなくて窓から覗いては、こちらが先に気づいて声をかけるのを待っているところも、なんとなく好きになれなかった。それと、これも誰にも言ったことはないけれど、いつだったかハムスターを触らせている時、ハムスターの足をつねっていたことがあったのだ。あれは間違いなく、つねっていたと思う。肌色の小さな足先を持つ彩音の爪の先が白くなっているのが見えたから。ちょっと驚いていると、彩音はハッとした顔で裕太を見上げてなぜかニッと笑ったのだ。あれは気持ち悪かった。どうしてかこっちが気まずくなって、痛くするなよと言うと、すぐにウンと頷いてやめたけど。
 高田彩音の家には電気がついていなかった。車もなかった。出かけているのかな。もしこんな時に彩音が一人で外にいたら、ちょっとは気晴らしに話しかけるぐらいできたのにな、ついそう思ってしまった。本当のことを言えば、彩音の家に上がらせてもらうことを期待していたのかもしれなかった。彩音の家には父親がいないからというのもあった。今ゲーム機を持っているからというのも。彩音の家にもゲームはあるらしいが、ママのだから触らせてもらえないと言っていた。裕太は実はそんなふうに考えていた自分が情けなくなった。
 いないのならしょうがない。というより、いなくてよかったのだ。裕太はまた歩き始めた。公園に行こう。やっと腹が据わったような気がした。そのうちきっとママが探しに来てくれて、心配したよ、ごめんね、と言ってくれる。そしたら僕もちゃんと謝ろう。裕太は少しだけ元気になってきた自分に安心した。公園まではあと5分くらいだ。ちょっと心細いけど、少しの辛抱だ。そう自分を励まして歩いていると、コンクリート山が見えてきた。




 女は小さな商店街に一軒だけあるコンビニに立ち寄った。
「うちの彩音、今日ここに来なかった?」
レジの男が顔を上げたが、女を見てハァ?というような顔をした。彩音はよく一人でここに来るので店員に覚えられている。買い物するでもなく長い時間いることもあるので苦情を言われたこともあったが、そんなことをいちいち気にしていたらこの小さな村では生きていけない。まあそれにもう苦情を言われることはない。なぜなら先月の夜中に彩音を母親に預けてフラリと町のスナックに出かけた時、ここの店長にバッタリ出くわし、酔った勢いもあって「いつも迷惑かけてスミマセンうち父親がいないものですから子供にいろいろと淋しい思いもさせてるんです」と、ちょっとコナをかけたら簡単に店長がノッてきて、そのまま家に連れてきて関係を持ったからだ。目が覚めたらもう店長は消えていたが、それ以来、徹底的に女を避けている。気の小さい男だ。
「あぁえっと、来てないと思いますけど。」
バイトの男は素っ気なく答えただけだった。それでもしつこく、アンタ今日何時から仕事に来てるの?と聞くと、3時からずっといるという。それなら間違いないか。やっぱり彩音は来ていないのだ。女は肉まん2つとレトルトカレーの甘口と辛口を買った。もしかしたら彩音は先に帰っているかもしれない。ご飯だけは炊飯器に残っているはずだが、おかずが何もない。
 車に乗り込んで、あちこち周りを見ながら家に向かった。最後の曲がり角の公園の前に来た時、男の子がひとりで歩いているのが見えた。あれはたしか、裕太君だ。どうしたんだろうこんな時間に。女は車を止めて、ウインドウを開けた。
「裕太君?」
男の子がうなずいた。女は道端に車を止めて降りた。裕太は裸足で、なぜかゲーム機を持っていた。
「どうしたの?裸足で。あ、私わかるよね、彩音のママ」
裕太は困ったような顔をして、家で怒られて閉め出されたことをボソリと呟いた。実際、裕太は当惑していた。恥ずかしかったのもあるが、彩音の母親が喋るとやけにイヤな臭い匂いがしたので困った。煙草の匂いと、それになんだかわからない口臭のようなものが混ざっていて、具合が悪くなりそうだった。
「裕太君、今日うちの彩ちゃん見なかった?」
「朝しか見てません。」
「ほんとに?」
「はい。」
裕太はイヤな感じがした。嘘なんかつくわけないのに。それになんだか妙に迫ってくるので、ちょっと後退った。
「どこに行ったんんだろう・・・」
知らないよそんなこと。
「じゃあね。ちゃんと家に帰りなよ。」
彩音の母親はそう言い残すと小走りで車に戻り、車はあっと言う間に走り去った。裕太は呆気にとられていた。話しかけられて驚いたしイヤな感じもしたけど、車に乗せて家まで送ってくれることになるのだろうと少し思っていた。なんだか普通じゃないような気がする。やっぱりおかしい。それに比べて僕のママはキレイだしちゃんとしてるし・・・そのママにクソババアなんて言っちゃったんだっけ。また悲しくなった。ママ、ケンジ、ごめんあんなこと言っちゃって。また涙が溢れてきそうになった。悲しい気持ちでいっぱいになった。公園には常夜灯がついていて、充分明るかった。その灯りに励まされて、裕太はコンクリート山のトンネルに向かっていった。ママはきっとすぐに迎えにきてくれる。そう信じた。




 「ゆうたー!」「おにいちゃーん!」
真希子は半ば焦ってた。もし裕太の身に何かあったら・・・そう思うと全身から汗が噴き出してきそうだった。
「ママ、おにいちゃんさ、きっと公園にいるよ。」
健児が急に立ち止まって言った。絶対、公園にいるよ。コンクリート山のトンネルにいる。
「健児が言うんだもん、そうだね、きっといるね。」
真希子は泣きながら答えた。
「ママ泣かなくてもいいから!おにいちゃん絶対いるから!」
「うん。公園に行こう。」
小さくても男の子なんだな、と真希子は心強く感じた。
 その時、前方から車が来て、真希子たちの右の家の前に滑り込んだ。高田さんだ。黒の軽自動車は中途半端に斜めに止まり、中から彩音の母親が降りてきた。
「あ、宮下さん!」
「こんばんは。」
「あの、うちの彩音、遊びに行きませんでした?」
「え?あ、いいえ、今日は来てませんけど・・・」
「私、夕方ちょっとだけ寝てしまって、起きたら彩音がいなくて、今までずっと車で探してたんです。まだ帰ってきてないみたい。家真っ暗だし。」
「そうなんですか?他のお友達のところに連絡されました?」
「それがえっと、連絡網の紙なくしちゃったんで。」
「じゃあ学校に問い合わせて彩音ちゃんのクラスの連絡網をFAXで家に送ってもらいましょうか?まだ誰か学校にいると思いますし。」
「・・・」
「あとで届けにきますから。あの、実はうちの裕太もちょっと見えなくて・・・途中で裕太見かけませんでした?」
「え!じゃあ裕太君と彩音、もしかして一緒にいるんじゃないですか?」
「いえ、30分ほど前まで家にいましたから、一緒じゃないと思いますが。」
「なんでそんなことわかるんですか!もしかしたらってこともあるかもしれないじゃないですか!」
真希子はその剣幕に驚いた。だがこっちも急いでいるのだ。公園に行かなくては。
「とにかく裕太を探してから、お宅に連絡網を届けますから。」
不満げな彩音の母親を残して、真希子と健児は走った。




 部屋の電気をつけた。乱雑に散らかった部屋が照らし出される。男が暴れて滅茶苦茶にしていったことを思い出した。まだ出しっぱなしのコタツの周りがひどい。カップラーメンの殻やカップ、雑誌、ドライヤー、化粧品、落書き帳、色紙・・・あらゆる物が散らかっている。それに裏表ひっくり返ったままのTシャツ、乾いたあとの洗濯物の山、口の開いたポテトチップスの袋やベビーラーメンのかけら、ラベルのない幾つものビデオテープ・・・疲れた。片付ける気力もない。女はコタツに足を入れた。暖かい。スイッチを消し忘れていてよかった。コンビニの袋から肉まんを一つ取り出して夢中で食べた。転がっていたペットボトルのぬるいウーロン茶をゴクゴク音を立てて飲み、もう一つ食べようとして女はふと動きを止めた。彩音の分。その時、携帯が鳴った。女は能面の顔で携帯を開いた。
「ああ。今あちこちかけてるとこだから。え。来なくていい。つか来んな。忙しいから切る。」
女の母親からだった。携帯を閉じて部屋の隅に投げ、そのまま倒れ込む。コタツってなんて暖かいんだろう。コタツが好き。この世で一番好き。バカ親より大好き。女は伸びをした。脇腹が痛い。服を捲ってみると内出血していて少し腫れている。肉まんとウーロン茶をいきなり流し込んだ腹がキュルキュルと鳴った。むくり、と女は起きあがった。彩音の分の肉まんを手にとって、じっと見つめる。
「・・・帰ってくるわけねーべ。」
女は大きく口を開け、その半分ほどを一度に囓りとった。




 「いた!おにいちゃん!」
ケンジだ!裕太はトンネルから這い出た。後ろでママがしゃがみ込んでいる。
「おにいちゃん、ごめんね、寒かった?」
「ケンジ、ごめんな、おなか大丈夫か?」
2人が真希子に走り寄った。真希子はへたり込んだまま裕太と健児を抱きしめた。
「ごめんね、ごめんね、足冷たかったでしょ、ケガしてない?」
「ママ、ごめんなさい、ごめんなさい。」
真希子は泣きながら裕太の足をタオルで拭いてやって、靴を履かせた。公園の前に一台の車が止まり、クラクションが短く鳴った。
「あ!パパだ!パパ帰ってきた!」
健児が飛び跳ねながら笑顔で叫んだ。
 
 いつもより遅い夕食。家族4人の食卓は賑やかだ。
「なんかよくわからんけど、とにかく裕太は大変だったらしいな。」
パパがイカの刺身にたっぷりと生姜のすり下ろしをつけている。
「健児が言った通り裕太が公園にいたんだもの、もうホッとして力が抜けちゃったわ。」
子供たちはモノも言わずにメンチカツにかぶりついている。相当お腹がすいたのだろう。その様子を見て夫婦は笑い合った。
「それにしても彩音ちゃん帰ってきたかしら。」
真希子は壁の時計を見た。もうすぐ8時だ。パパの車でみんなで帰って来てからすぐに学校に電話をかけて1年2組の連絡網をFAXしてもらい、彩音の家に走った。チャイムを何度押しても彩音の母親が出てこないので、ドアを開けて玄関の乱雑さに少なからず驚きながら「高田さん、高田さん、」と呼んでみた。それでも出てこないので、戸惑いながらも部屋に上がってみて・・・思わず息を呑んだ。足の踏み場もないほど散らかっている。その真ん中のコタツに足を突っ込んだまま、彩音の母親は口を開けて眠りこけていた。声をかけると母親は飛び上がるほど驚いて、疲れてしまって、とかなんとか言い訳をした。電話するのを手伝おうかと申し出てみたが、家の電話は止められていると言う。とにかくFAXを渡して帰ってきたが、彩音ちゃんは無事なのだろうか。あまりいい噂は聞いてなかったけれど、あれほど家の中が酷い状態だとは思わなかった。真希子は時々遊びに来る彩音にあまり良い印象を持っていなかったが、母親があれじゃ無理もないだろうと同情する気持ちにもなり、彩音の汚れた袖口や襟元や毛玉だらけのトレーナーや食べ物のシミがついたままのスカート、脂っぽい髪の毛などを思い出していた。
「そういえば僕、公園に行く途中で彩音ちゃんのお母さんに会ったよ。」
裕太の言葉に真希子は驚いた。裕太を見かけなかったかと聞いた時、あの母親はそんなことは言ってなかったのだから。
「裕太、それホントなの?」
「うん。途中っていうか公園の前だけど、車でバーッと来て、彩ちゃん見なかった?って。それで朝しか見てないって言ったら、早く家に帰りなさいって言って車に乗って行っちゃた。僕さ、ちょっと気持ち悪かった。」
真希子は思わずゾッとした。以前、彩音に家のことを尋ねた時の返事に首をかしげたことを思い出した。自分の家の中がお城のようになっているとか、ピアノがあるとか、ドレスを買ってもらったなどと無邪気に微笑みながら答えていたのだ。
「おい、彩音ちゃんのお母さん、裕太を見てないって言ったのか?」
パパが顔を曇らせた。
「見てないどころか、裕太もいなくなって、って言ったら、それじゃ彩音と一緒なんじゃないですか?って。まるで裕太が彩音ちゃんを連れ出したみたいな言い方で怒ったのよ。」
「なんかおかしいな。」
「ねえパパ、ちょっと様子、見て来てくれない?」
「そうだな。電話番号も知らないんだから見てくるしかないか。」
パパは急いで出て行くと、あっという間にドタドタと帰ってきて叫んだ。
「おい!あそこんちの前にパトカー止まってたぞ!」




 家の周りのどこを探しても『小さな春』はどこにもなかった。
 生活の時間に『身のまわりの小さな春をさがしてみよう』という宿題が出された。実際に春の証拠を誰か明日持ってきてくれる人!と先生が言った瞬間、彩音も手をあげてしまった。これなら簡単にできると彩音は思った。普段の国語や算数の宿題はやったりやらなかったりだけど、何か見つけて持ってくればみんなに見直されるかもしれない。先生にも褒られてみたい。帰りの会が終わると、手をあげた子はそれぞれ仲の良い同士で放課後一緒に探しに行く約束をしている様子だったが、彩音に声をかけてくれる子は誰もいなかった。
「おまえどうすんだよ。持ってこなきゃ嘘つきだからな!」
いつも意地悪してくる拓也が大声で言った。他の子は遠巻きに見ているだけだ。
「ママと一緒にいーこおっと!」
彩音は誰にともなく、独り言としては大きすぎる声でそう言い、いそいで教室を出た。後ろから拓也の声と女の子たちの嘲笑う声が追いかけてきた。
「おまえのかーちゃんパチンコ屋!おまえのかーちゃんプータロー!」
 
 帰ってみると家の前にまたあの男の人の車があった。戸を開ける前から男の人の怒鳴る声とママの怒鳴る声がしたので、玄関先にランドセルをそっと置いて一人で外に出た。その辺を探してみたがこれといって収穫はなく、公園の方に行こうとしたらクラスの女の子が何人もいて、彩音はいそいで踵を返した。健児君のところにも行ってみようかと思ったけど、ハムスターと遊んでいたらきっとすぐ夕方になってしまいそうなので、やっぱりやめた。河原の方に向かってみたが、今度は拓也たちの姿があった。彩音は慌てて走り去った。
 家に戻ると男の人の車はなかった。部屋の中はメチャメチャに荒れていて、ママが泣いていた。彩音は黙ってしばらく様子を伺ってからママに言ってみようと思った。
 恐る恐る宿題のことを告げると、怒られるかと思ったけど、ママは「車に乗りな。」と言った。彩香がウンと頷いて上着を着ると、ポケットにミルキーが1つ入っていた。この前、健児君のママにもらったやつの残りだ。




 運転席の母親の横顔を、彩音は盗み見た。不機嫌そうに煙草をくわえてハンドルを握っている。どこに連れていってくれるんだろう。さっき彩音がラジオのスイッチを入れたら女の人の歌がかかっていて、それが「あいしてる~あいしてる~」と歌っていたけど、ママは無言でラジオを消してしまった。きっとあの男の人とケンカして悲しいんだろう。かわいそう。しばらく走ると、ママが始めて口をきいた。
「あとちょっとで着くから。ママ子供の頃あそこの山の谷のところでフキノトウとったから。」
「フキノトウって?」
「いいからそれ持っていきな。」
なんだかわからないけど、きっとそんなの誰も持ってこないような気がする。すごい!きっとみんなビックリする!先生も褒めてくれる!彩音は嬉しくなった。そうだ、ポケットにミルキーが入ってたんだった。彩音はそれを口に入れた。甘く優しい味が広がった。そういえばママも子供の時に食べたって言ってたな。ミルキーはママの味、っていう歌があったって。なんだかウキウキしてママの横顔を見たが、相変わらず無表情だった。彩音は黙って口の中のミルキーを転がした。




 「ママ、あった?」
彩音の心配そうな声。たしかこの辺りにあったはずだ。女は一応、足元をあちこち探してみた。あの日は自分の母がこうやって下を見ていた。あの時、母は本当に探す気があったのだろうか。もしかして偶然見つけただけではないか。足元を見ているうちにその考えが確信に変わってきた。私はあの時、谷を見下ろしてこう聞いたんだった。
「お母さん、ここ、深そうだね。」
母は無表情に呟いた。深いよ。落ちたら死ぬよ。あの頃、母は父によく殴られていた。私も母に時々殴られていた。私はあの時、ぽっかりと口を開けて獲物を待っているような谷底の暗闇を見て、怖いね、とは言えなかった。本当に怖かったから。母が。

 あ。女はしゃがみ込んだ。男に殴られた脇腹のあたりがクッと痛む。あった。薄緑色のまだ固そうな蕾が、柔らかい葉に包まれている。女はそれを採った。振り返ると彩音が谷を見つめていた。女は娘を見て、急に愛おしい気持ちになった。
「彩ちゃん、あったよ。」
彩音は顔を輝かせて母親に駆け寄った。
「わあ!すごいすごい!ママありがとう!」
手を繋いで谷の淵へ歩き、暮れかかった空を仰いだ。もうすぐ陽が沈みはじめる。歪んだ太陽が、向こうの山の曇り空に、くすんだ茜色をにじませていた。
 手を繋いだのは久しぶりだった。小さな手は少し冷えている。肩を抱いてやると彩音が顔をあげて嬉しそうに微笑んだ。
「ママ、ここ、深そうだね。」
少女の右上の奥歯の溝に、車の中で食べたミルキーがくっついている。母親に守られているという安心感から心持ち前のめりになって谷を覗き込みながら、奥歯を舌でなぞった。甘く優しい味が残っている。少女の肩を抱いていた女の手が、不意にその背を押した。

2007/11/01

きみから学ぶべきことは何もない

 積み木の城を、破壊するためだけに作ったのだ。手を下す権利は私だけにあった。砂の城を、潮にさらわれるためだけに作ったのだ。たった独りで看取る歓びをあなたに分けてやるつもりはない。あぁ人を排除するのはなんと簡単で神経が麻痺するのはもはや快感で排除されるに至ってはなんという快楽なのだろう。嫌われて嫌われて嫌われて疎まれて。それでも十指で弾けない楽譜をわざわざ差し出してやるのだ。鍵盤を叩き壊してもいい、弾いてみなさいと柔らかく微笑んで、肘や頭や膝や足を使うことまで考えが及ばないおまえが小利口で実につまらない人間だということを思い知らせてやるのだ。春夏秋冬春夏秋冬春夏秋冬ぐるぐるぐるぐる回りながらあなたが繰り返し繰り返し人生に同じ嘘をついてきたことは誰にも知られることはないだろう。ただし!ベッドの下の1オクターブ分の空間から、押し入れのフスマ上半分の斜行した隙間から、閉じたはずのカーテンの合間から、この私が常にあなたを嗤っていると思っていただきたいのです。いつまでも水平線を眺めていられる種類の、暮れてゆく空を仰いで感慨に耽る種類の、生温い凡庸をあたかも絹織物のように仕立てては偽りの自分にひとりごちている種類の、あなたはそういう男なのだとただ純粋に伝えたいのです。お伝えしたいのです。
 雨とか海とか空とか愛とか雪とか波とか雲とか恋とかそういう漠然とした対象を当て馬にして切ない男の胸の内を遠吠えしてこれからもモテてください。雹とか桜とか風とか夢とか霰とか桃とか嵐とか幻とかすべてになぞらえてどれだけでも黄昏れてください。偽物で理想で借物で盗品で醜悪で丁寧であなたはだからなにをやっても真実ではないのだっとコリャコリャ。そぉ~ら偽物が胸張って行進してらぁ!理想が皮被って笛吹いてらぁ!借物が絹羽織って太鼓叩いてらぁ!盗品が色塗られて指揮棒降ってらぁ!醜悪が偽善背負って講演してらぁ!張り子の虎が御丁寧に教祖崇めてチンドン行列してらぁ!


 嗚呼どうか教えて下さい誰をも慈悲深く包み込んで下さるはずのあなたが立場のある御方様であるあなたが人々を導いてくださる御方様であるあなたが、人生始まって以来唯一心から愛してくれたのはキミだけだと告白したそのキミであるこの私を、なぜ捨てた。
 私は携帯の無味無臭の四角い画面を凝視していました。信じられませんでした。あのひとが私に別れを告げるだなんて。一瞬で目の中に飛び込んできたその文字列を私は何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も見直したのです。なにかの間違いじゃないかしら。誰か知らない人がアドレスを間違えて見ず知らずの私にメールを送信してしまったのじゃないかしら。でも何度見てもそこにはこう書いてあるだけでした。もう終わりにしよう。その方がいい。今までずっとありがとう。

 
『もう終わりにしよう。その方がいい。今までずっとありがとう』

 
 だそうです奥さん。ハイ!ということで本日は別れたい女の逆ギレに対する牽制を含んだ一見優しげな美しいサヨナラメールの紹介ですカカカカカ。頭のテッペンでおだんごにした金髪に突き刺した鼈甲のカンザシを引き抜いて頭皮をツクツクと刺激しているうちに故意に誤ってブスリとしたくなってきて私どうにもたまらなくなりました。ツワモノどもがツワモノどもがツワモノどもが夢のあとにぃの独り佇みぃの勝手に悦に入りぃの遠いまなざしで哀愁しぃのイイ気になっていやがってキイイイッ。こうなったら徹底的に叩きのめす。取り戻してから捨ててやる。怒りの感情によってだけムクムクと闘志を燃やす輝ける稀少民族なのです私は。忘れましたかあの日々を。こういう時の私をさんざん楽しんでたおまえ!おまえだよ!なに後ろ見てんだおまえだよおまえおまえおまえ!テメエだよ!まさかあの神々しいまでの敵意が自分に向けられる日が来るとは思わなかったでございましょ。イカンねぇ~こりゃいかんよキミぃ~こういうのが私のような人間に通用するとでも思っているのかねぇ~いやむしろ逆効果だってことわからないかねぇ~、あ佐藤クンもう一杯お茶ね、さっきのは沸騰したお湯使ったね、今度はちゃんとしてくれよ、せっかくの玉露が台無しなんだよウンウン、いいんだいいんだこういうことは一度言われたらそれで覚えられるだろ、何事もカラダで覚えなくちゃならんよウンウン。あぁそれにしてもあの佐藤朱美って子はいいケツしてると思わないかねキミいやそう思うだろキミ。それでなんの話だったかな。そうそう、あーーーだから無自覚というのは罪なもんさってことか。困った。さあ困ったぞ。キミはワシを本気で怒らせてしまったからねえ・・・・・・・・・・・・で。決めた。おまえの神経殺したるわ。誠にお気の毒さまでございますが今覚悟を決めました。興奮のあまりバスバスバス肺胞から泡が噴くヌワアンと瞳孔が開く音だってするズサササと髪が逆立つ音もする。ということで『男から別れを告げられた悔しさをドス黒い憎悪に変えた上で男にすがる女を演じてみるテストそんであらためてた~っっっぷり惚れ込ませたところで無惨に捨ててみましょう計画』を実行することにしたのです。ええしたのですハイ今日はここまで。日直!

 
 この際、はっきり言うことに致します。もちろんこれはあなたのためではなく私の心のすこやかな安定を保つためなのです。このようにして私は私なりに心のほこりを払って清々しい心になることすなわち『たんのう』をしようと努力しているのです。キミノタメとかオタガイノタメなどとあなたのように卑怯な言葉は使いません。ただ、あなたが嫌いだという、それだけを丁寧にお伝えします。そんなことはわかっていたなどとあなたは杖を持つ手に力を込めるでしょうけど。杖など持っていない?嘘をおっしゃい。あなたは人に頼ることが出来ない弱い人間なのだから幾分かの心の重みを預けるためにいつだって人一倍頑丈そうなやつを持っていたじゃないの相変わらず自分の不甲斐なさを認めない男だわねえ。
 あなたは精一杯の自惚れと理想を着て生きている御方。その優しい声色を使って誰にでも苦しみを打ち明けさせ、他人様を救ってやることで自分の澱を攪拌しているだけの卑怯者です。混ぜても混ぜても薄まってはいなくてよ。何一つ自分で決められない臆病をかかえた貧弱な躰を必死に隠しておいて懐いてくれる人達だけに温情をばらまいて生きている。そんなあなたが人を祈り人に施しをしているだなんて呆れてものも言えません。私のような人間があなたのような人種を嫌うことは当然だと今になってみればそう思えるでしょう。自分を捨て去ったような顔をして実のところ人から捨てられることに怯えるだけの人乞食。御褒美という名の施しを受けたがっているあなたのような人間が常日頃は誰かに施しを与えているだなんて。そうだ一度くらい托鉢でもしてみればよいのじゃないかしら。
 人はよく自分は過去何々をしていましたとか実は何々なのですとかいう類の告白を鼻を膨らませてするけれど、そういう時は人の評価が欲しくて欲しくてたまらない乞食の顔をしているのだと思うのよ。ありのままの裸の自分に足りない何かをかざしておいて、見えないところで「くれ!くれ!」と両手でこさえた空っぽの器にこっそりこんもり憧れられて優越したがっている情乞食。
 あなたは私が恐ろしいのだ。暴き出されてしまうだろう自分の本性が怖いのだ。あなたという人間を覆っている良心の薄皮を、日焼けの背中の皮をできるだけ広範囲で剥くように嬉々として爪の先でピリピリと私に剥がされるのがこわくてこわくてたまらないのだ。「ホラこんなに大きくむけたわ!」と無邪気に見せつけてやりたかった。そしてその薄茶の皮膚の残骸を灰皿に集めて燐寸の香りでもってジリジリと焼いてやりたかった。あなたはその箱庭の火葬場の匂いを嗅ぐべきだったのだ!私たちは笑い声をあげながらそれをすべきだったのだ!そうして熱く抱擁をかわして許し合うべきだったのだ!
 なのに臆病なあなたは目を背けたのです。そうされる前にすごすごと後退って物陰に隠れたのです。可哀想な人。私に嫌いだとさえ言えない小心者。それでも君を傷つけたくなかったなどと斜め下を見つめて呟くだけの偽善者。
 あなたは私を避けるべきだったのです。保護色の中で生きている、たかが臆病な一匹の虫であるあなたが、擬態を見破った私を怖れるのも無理はないのですから。あなたが思うよりずっと以前から私はあなたのことが嫌いになっていたのです。いいえ嫌いだというのは適切ではない。すっかり軽蔑していたわ。アラそれもわかっていたなどと仰いますか。それならこう言わねばなりません。その、もっと、ずっと前からであると。私はあなたからの最後の(結局それは最後にはならなかったけれど)メールを読んだ瞬間、その先細りした一見善人の苦渋を漂わせているかのような言葉を見た瞬間、飲んでたコーヒー噴きましたブーーーッ!!!

 跳ねあがるんだピョン♪えんやこら台所の薄い引き出しをあけて二種類の砥石を取りだしカンザシの先端を丁寧に研ぎ始めましょう。イシシシイシシシ流しの下の骨をみろ。おまえが喜んで喰らっていたあの鍋の美味い肉は誰のものであったのか。存分に思い知って胃袋ひっくり返るまで、あ、胃袋でちゃった、まで吐き続けるといいのだわ。
 煉瓦色の砥石で粗研ぎをして灰色の砥石で研ぎ澄まし「ツプリ」と頭のつむじに刺してみると「ゥヲッ」そして溜息が洩れました。かなしいわ、ほんとのほんとうに、わたし。
 次に腕まくりをしてなまっちろいウナギの腹みたいな腕を見下ろして静脈と動脈どちらに刺してみようかと梅毒にかかった牢屋の女郎の空っぽな笑顔をペタリと貼りつけた自虐にクケケケと身を捩りました。うまく捨てたい女の手のひら返しの狂気に狼狽えるおまえの引きつった顔が目に浮かんでカナーリ愉快だおおおおおおおおおおおっ!ほんとのほんとは、かなしいわ、あなた。 
 
 
 さて私は10歳か11歳ごろに亡くした、あの肌色の陰嚢を引きずった愛らしいオスのハムスターとの別れの夜を思い出して涙ぐむよう努力してみるのです。
 あいつはやけに可愛らしかった時々食べてしまおうかと思うほどに。あぁでも名前なんていったっけ。とにかくいつでも服のポケットに入れて出かけたのです自転車に乗って近所を徘徊する時だって。少女漫画の主人公になりきって髪をなびかせるためにコマーシャルでみた苺の香りのするシャンプーだってなけなしのお小遣いで買っていたのです。だっていつ好きな男の子に出会うかわからないじゃない女の子って常に気を抜けないのよ。千載一遇のチャンスをモノにするために身を粉にしてでも自分を最高の状態に保っておくなんて今のあたしじゃ到底出来ないわ。まあそれでハムスターをポケットに入れて片手運転しながら時々思い出したように触ってみるってわけなのね。すると生温かくてふよふよとした小動物の感触とともにハムスターをポケットに入れて風を斬って疾走する苺の香りの髪をもつ慈悲深くもオチャメさんな少女自分!ってものが脳内で映像化されてそれはそれはもぉうっとりするのです。いいえもう好きな男の子になんか偶然会わなくたっていい、もういいのそんなもの。私の姿を見て誰か知らない男の子が通り過ぎてゆく夢のように可憐な少女に恋する瞬間があるかもしれないじゃないですか!しかもその男の子の大人びた陰のある切れ長の目元といったらもう!とかなんとか好き放題に美化してみることのなんというエクスタシー!
 とにかくそのいつでも私と一緒だったハムスターがコロリと死んだ。一応、脳腫瘍で死んだことにしています。いつだったか近所の公衆電話からクラスの人気者の女に無言電話をかけていた時に、面白半分でハムスターをあの右下の釣り銭が出てくる透明なプラスティックの蓋が内側に向けてだけ開く受け皿みたいなところに入れてしまったのはいいけど、出てこれなくなって尻尾をムリヤリ引っぱって出したことが原因じゃないかってことは秘密なのよ、キイイイイイイイッてすごい勢いで啼きわめいていたのだけど。そして実はその翌日に死んだのだけど。あぁどうしてもハムスターの名前は思い出せないわ。よし、それならたった今名前をつけてあげましょう、それがいいわ、あなたの名前。
 その愛おしい、か弱き者が亡くなって、私はその晩かなしみのあまり夕食も喉を通らなかったのです。断固として喉を通すべきではないと思ったので実践したのです。芝居は芝居がかっているうちに芝居ではなくなるということを少女は知っておりました。そんな私を家族の誰も本心から心配などしてくれなかったけれど。それで私は私なりに自分本来の姿に目覚め心も身体も使って自分を『てびき』してやることしか出来なかったのです。私は独りでお通夜をしてあげました。柔らかな肌色の、いつもズリズリ引きずっていた陰嚢に、はじめてゆっくり触れることができました。少し嬉しかった。嬉しがっている自分を私は戒めました、死者への冒涜であると。子供だってそんなことくらい感じます。いいえ子供だからこそ感じるのです。袋の中に、たしかにコリッとした感触の玉があることを知って、私はその神秘を心にそっと大切にしまいました。そしてその最後の夜に添い寝をしたのです。尻から出た汚物も洗浄綿で綺麗にぬぐってあげて、外国船に乗ってた親戚のおじさんからもらった美しいクッキーの缶にガーゼのハンカチを2枚敷いて亡骸を横たえてあげました。その親戚のおじさんは大嫌いでした。なぜかっていつも妙にいやらしい目で私を見ていたから。あいつきっとペドフィリアなんじゃないかしら今だに独身だし気持ち悪い。おじさんのことが嫌いだって母に言ったのよ、すると人を嫌いだなんて言ってはいけないとひどく怒られたわ。おじさんは母の弟なのだけど、母だっておじさんのことを決して好きではないことくらい私は肌で感じていましたから、母のことを嘘つきだって思いました。娘である私よりも自分の弟の立場を守るような人間であるとして失格の烙印を押し、同時に何を信じて生きればいいのかという不安に苦しみました。まったく以て『いんねん』というものは。
 クッキーの缶からはまだバターやバニラエッセンスの甘い匂いが漂っていたから気分が良かったわ。後悔したのよ生きているうちからこういうベッドに寝かせてあげればよかったって。それはもう、私の寝床じゃないことが悔しくて嫉妬するほど素晴らしい貴族のベッドになったわ。私、とても誇らしかった。誇らしくて悲しくて、悲しくて完璧で、私はその状況に感動して泣けました。それで両親に見せにいったのです。私の純粋無垢とともに「ステキでしょ」って。
 ふと何度か目覚めるたびに亡骸を触ってみました。だんだんと固くなっていくのがわかったわ。それであたし亡骸に話しかけるのをやめたの。冷たく固くなってゆく小さな白いカラダの約30cm上あたりにむけて話しかけるようにしたのよ。だって人間なら幽体離脱すると寝ている自分を見下ろす距離って天井のちょっと下くらいだって言うじゃない、だからハムスターならそれくらい上かなって。そして一緒に暮らした日々の想い出を語りながら泣きました。しずしずと泣いたの。なるべく綺麗に。絵にならなきゃだめなのよ何事も。
 その時のことを思い出して泣いてやることにしたのよあなたのために。あなた知っているでしょう、私が実はどんなに純真であるかを。だから私のことを好きになったのだと言ってくれたわね。ありがとう可愛い人。それなのによくもよくも。悲しいわ。ほんとうに悲しくなってきたわどうしよう。どうしよう、ではないわね。かなしみに身を任せてどこかへ運んでいってもらいましょう。


『それでも私には愛してくれる人が必要でした。私はあなたを追いつめたのでしょうか。もういいわ。いっそあなたの心の中で一思いに殺して下さい。さようなら。さようならは悲しいわほんとうに。出逢ったことさえないのに別れなければならないなんて。私は余程あなたを辛い目にあわせたのでしょう。私はひどい人間なのね。こんなに愛しているのに。逢えないことが何より苦しかったのです。自分を責めないでください。ついに逢えなかった私にあなたはもう二度と逢えない。それだけのこと。さようならは、なんという簡単な手続きなのでしょう。』


 これでなにもかも終わりになるのかしら。そんなのイヤッ。イヤやあらへんがなホレさっさと送ったれ送信や送信。あぁできない震えちゃう。もしもこの賭けに負けたら私はどうなるのでしょう。屈辱と憎悪が倍増するあまりに本当に殺しに行ってしまうのではないでしょうか。怖いわ。コワイわこの女。誰か止めて。誰が止めるのだ。誰が止めるっつんだよ止めるかボケ。リアル殺傷いやいやいやいやまぁ餅つけ深呼吸深呼吸。いいから信じなさいっての私を。とにかく送信や送信エエイじれったいやっちゃ。押せ。押さんかこのアマが。もぉまったく私を誰だと思ってんだ自分アそれポチっとな。
 そして案の定、あなたは私の偽りの哀しみにほだされて手のひらを返したのです。いったん覚悟を決めたはずの別離をあっさりと屑籠に投げ捨てた。私がその時どう思ったかなんて想像もつかないでしょうね『悲しい思いをさせてごめんね』腹イテー。私はそれを見て心底あなたを嘲笑った。なんてきたない男なんだってね。嗚呼でもあなたはこうして私を救って下さったのです。あなたを愛するあまり苦しみに身を窶した私が八つの『ほこり』を身につけてしまったことを赦して下さったのですね。そら見たことか私もついに泥まみれのこの精神に真理というものを宿し、ほしいまま金と銀の喝采を掻き集めてはくす玉に詰め込んでエイやっ!と紐を引き我が身にパラパラパラパラふりかけて、輝かしい未来の灯火を荒野の彼方に見出したのだ。あなたは私を取り戻し、私はあなたを取り戻した。スローモーションで砂浜を駆け抜けよう。つかもはや私の独壇場だぜゴォォォォォォォォォォォォーーーーーーールッ!!!


 え。ウンそれからしばらくはたっぷり餌あげてたよ。で3ヶ月後に捨てた。じゃそゆことで。

 
 私はこうして薄情にもあなたの尻尾をブツリと切ってしまったけれど、大丈夫またすぐにでも同じ尻尾が生えてくることでしょう。お幸せなことでよろしかった。あなたはあなたで私の尻尾といわず存在そのものを斬り捨てたのだと安堵なさい。これからはあなたと無関係に生きてゆく私をどうぞ好きなだけ憐れんで唾を吐き、私を知る以前の平穏無事なあなたのままで光りの中を生きてゆくがいいのです。どうかどうかお元気で。ああいつまでも御陽気で。いつの日にか私が天下のバチアタリとしてすべての人間から捨てられてしまったら、あなたがいつか仰ったあの大きな門の下に行けば宜しいのですね。もし拾って下さる御方がいればの話ですが、その時はその方を親だと思って生まれ変わりましょうぞ。そうしてあのハムスターにつけたあなたの名を泣きながら叫びましょう。
 こうして私は学ぶものが何もなかったあなたから、あなたに捨てられあなたを捨てたあとに自分についての全てを学びました。あなたという架空の存在によって与えられた架空の時間から、自力で地道に的確に。あなたはあなたで私から学んだことでしょう、私から学ぶことなど何ひとつなかったことを。そして人の心が悪意に変わる過程という、あなたのような人間にとって最も不必要なものを。アそーだ、ねえ、そういえばあなたのお宅は一年三百六十五日年がら年中いつでも鍵をかけていないのでしたね。ナンピトたりとも拒むことなく受け入れるという素晴らしい教えに習って従って。すごーいマジ尊敬しちゃう。一度でいいから逢ってみたいわ。そんな男に。