2007/11/02

泣く

 夢うつつのまま、紘子は遠く足音を聞いた。がん、トン、がん、トン、がん、トン、優一が登ってくる音。小さな足を一段上に踏み出してからもう一方の足を揃える可愛らしい足音。部屋の中からこの音を聞くことは滅多にない。いつもなら自分が一緒に階段を登るのだから。ドン…ドン…ドン…ドン…ドン…彼が階段を上がってくる力強い足どり。一歩ずつ確かめるようにゆっくり登ってくる聞き慣れた足音。さすがに少し疲れているのかもしれない。滅多に子供と二人で外出することなどないのだから。
 やがて鍵を開けようとする会話がドア越しにくぐもって聞こえる。
「ゆうちゃんできるから!かして!バルタン星人のとこについてる鍵だからね!」
チャリン。あ、鍵おとした。ガガッ…コン!よし、できたね。
「お母さん寝てるから静かにしなさい」
彼の声が低く響く。優一の返事はないが、二人がこちらの寝室に入ってくる気配はない。紘子は毛布を頭まで被り、壁側を向いた。ベッドの中の温まった空気の層が緩く崩れ、微かにオードトワレが薫った。(お願いだから来ないで。私を放っておいて)祈るように紘子は思った。ひとりにして。そうして再び、心地良い眠りという唯一の逃げ場に墜ちてゆくのだった。

 うぅ…ううぅ…自分がうなされている声に気づく。熱はそう高くはないのにどうしてこうも苦しいのだろう。関節のあちこちが鈍い音を立てて軋んでいるようだ。たかが37度3分の微熱でうなされるなんて…と思いながらも自然と声が出てしまう。不思議なことに唸っていると少しラクになるような気がする。手負いの動物も発熱した赤ん坊も幼い子もみんなみんな唸るんだもの、やっぱり抑えなくていいよねぇ、とウツラウツラしながら紘子は自分を慰めた。
 居間からは時折彼と優一の声がするのだけど一体何をしているのだろう。父親と2人でいる時の優一がどんな風に喋ってどんな表情をするのか見てみたいと、ふと思う。「ぼくねぇ…なんだよ」「お父さん、アノ…」よく聞こえない。
 優一は退屈していないだろうか。仕事場に連れて行ってもらって嬉しかったのだろうか。楽しいことは何かあっただろうか。彼はそのうちいつものように椅子に座ったまま寝てしまうだろう。そしたら優一は私のところへ来るだろうか。そんなことを思ったまま、またウトウトと眠りに引き込まれてしまう。

 パタ、パタ、パタ…廊下に足音がする。そぉーっとベッドに近づいてくる気配。
「おかあさん…ただいま…」
優一が小さな声で呟いた。胸が痛んだ。幼いながらに風邪で寝込んでいる母親に気を遣っているのだ。胸が詰まる。紘子はギュッと目を閉じた。しばらくベッドの横で様子を窺っていた優一は、やがて諦めたように遠ざかる。「お母さんやっぱり寝てる」と遠くで声がする。紘子は一瞬泣きそうになる。ごめんなさいごめんなさい。ごめんね。でも…邪魔しないで。そばに来ないで。お願いだからあっちへ行ってて!

 何度目覚めて何度眠りに墜ちただろうか。今いったい何時だろう。彼と優一はどこかで食事してきたのだろうか。微かにTVの音だけが聞こえる。二人して寝てしまったのだろうか。ヒーターはつけっぱなしだろう。ソファベッドの電気敷布は子供には熱すぎるだろうに、彼はきっといつも通り適温より高くしたままなのだろう。優一は汗をかいているのじゃないかしら。それでも起きあがる気力はなかった。寝続けているうちにくったりと力と名のつくものが全て削げ落ちてしまったように思えた。
 なんとかしてみて、なんとかしてみなさいよ、私が世話を焼かなくてもたまには二人きりで過ごしてみたらどうなのよ。いつの間にか彼に対するさまざまな小さな怒りまでもが脈絡も無しに次々と鎌首をもたげてくるのだった。
 私が何もしないですって?アナタが具合悪い時に看病したのはどこの誰だっていうのよ?酔っぱらって人前で私の悪口言うのはやめてよ!どうして籍を入れてくれないのよ?そんなに好きでもないなら何故一緒に暮らしてるのよ?私を…もう私を解放してよっ!!!
 …嘘だ。解放されたいなんて思っていない。そんなこと望んでいない。なんとか人並みに暮らしてゆけるのは彼のおかげなのだから。このままでいいと思っている。きちんと離婚という決着をつけたはずの彼が私と再婚する意思のないことはわかっている。他人に何と言われようが実家に罵倒されようが、私が彼を信頼してこうして一緒に暮らしているのだから。
 そういえば彼は最近、紘子を褒める時がある。おまえのおかげで優一はいい子に育ってくれている。おまえの教育がいいからだよ。それを聞くたびに紘子は片頬で笑うしかないのだった。
 わかっている。彼は決して紘子を一人の女として可愛がってくれてはいない。その罪滅ぼしのために言っているだけなのだ。おそらく、この辺で少し褒めておいてやらないと紘子がキレるかもしれないという危機感から。それなら勝手にキレさせておけばいいが、母親のそんな姿を優一には見せたくない。父親と母親が言い争いをしているところなど見せたくない。それだけのことなのだ。時々飴玉を口に放り込んでおけば、少しはもつだろう、と。そんな上っ面を撫でるような言葉なんていらないと思うたびに、やさぐれた匂いを身に纏ってしまうような不快感がし、何故かフッと気が遠くなりそうになる。
 熱が高くなってきたように感じる。薬が飲みたい。でも薬箱は居間にある。居間に行ってしまえば独りきりの時間は終わってしまう。行けない。行きたくない。今は誰も受けいれたくない。受けいれるものか。もはや何に対して自分が意地を張っているのかもわからくなっている。ただ涙が涙腺ギリギリにまで迫り上がってきては、出口を見つけ出せずに泡立ち、ふるふるとただ藻掻いている。グラスの縁に盛り上がった水の表面張力、それが今の自分の姿だと紘子は思う。こぼれてしまいたい。

 あの人は今頃、何処にいて何をしているのだろう。あの人の夢をみる。何度も何度でも、細切れにカットされた映画のフィルムのように夢をみる。私を抱きしめてあげたいと書いてくれた、たった一人の人。疲れた溜息をひとつ、またひとつ、と落とすように、インターネット上に日々の他愛ない出来事を綴っている紘子にコメントしてくれた男。いや本当は男ではないかもしれない。同じ境遇にある女性が、たまたま気まぐれで書いただけなのかもしれなかった。
【わかるよ。抱きしめてあげたい。】
それだけだった。紘子はその夜、その文字を長いこと見つめていた。自分の中の凝り固まってしまったくだらない不平不満の塊がスルスルとほぐれてゆくのが感じられた。抱きしめられたかったのだ。ただそれだけ。紘子はやっと自分を少しずつ蝕んでいる病の病巣を探り当てたような気がした。
 ある朝、早くから目が醒めた紘子は、優一がぐっすり眠り込んでいるのを確かめてから居間のソファベッドで眠っている彼の元へ行った。遮光カーテンをひいてある薄暗い部屋で、彼は穏やかな寝息を立てていた。部屋中に彼の匂いが立ちこめている。彼の体温を感じたいと痛切に思った。身体の芯から冷え切ってしまうような淋しさを感じていた。毛布を除け、狭いスペースに分け入って無理矢理彼の横に滑り込んだ。あぁ…あったかいなぁ…そう思った時、彼が驚いて目を覚まし、困り果てたようにこう言った。
「やめてくれよ。頼むよ寝かせてよ。勘弁してくれよ」
その瞬間、怒りの言葉が紘子の口をついて出てしまった。
「なに?こうしてるだけでもダメなの?さわるだけでもダメなの?私のこと嫌いなの?夜でもダメ朝でもダメ?じゃあ一体いつだったらいいのよ!あなたから私に触ってくれたことなんかないじゃない!やっぱり嫌いなんじゃない!」
とたんに涙がこぼれた。と同時に自分がまるで聞き分けのない子供のように思えてちょっと笑い出しそうになってしまった。ヤダ!買って買ってコレ買ってぇっ!と地団駄を踏む子供みたいじゃないか。バカみたい!バカ丸出し!
 自分の口から出た自分の言葉に冷めていた。なんで泣くんだ。彼はそう呟いて不思議そうな顔をした。まるで見たことのない虫でも見るような顔つきだった。或いはお手上げ、といった。何粒かの涙はあっという間に乾いてしまい、残された悲しみはヒラヒラと音もなく澱のように沈んでいってすぐに見えなくなった。
 紘子は打ちひしがれたような表情を顔に貼りつかせて自分の寝室に戻り、優一の傍に冷えたままの身体を横たえた。心の中では彼に詫びてもいた。彼の持病のせいなのだ。身体が弱っているんだから。健康体じゃないんだから。彼が悪いわけじゃないんだから。でも…この底なしの空洞は一体どうやって埋めたらいいのだろう。
 ここ数年来、年に何度か重苦しい痛みを伴ってあらわれる微熱は、或いは、この空洞を渡る風の温度なのかもしれない。

 いつしか紘子は、【抱きしめてあげたい】と書いたきた誰かもわからない人物を頭の中で理想の男に仕立て上げていた。そしてその男が残していった、たった一つの言葉に依存している自分を恥じた。恥じながら夢の中でその男に抱きしめられて深い安堵の溜息をつく。溜息はいつしか熱を帯びた嘆息になってゆく。顎に優しく手を添えて男は紘子の顔を上げさせる。男の顔はよくわからない。慈悲深いまなざしだけが靄のかかった夢の中で柔らかな光を放つ。男の唇が紘子の唇に触れるか触れないかのうちに紘子はもう溶けている。男の唇の柔らかな感触は瞬時に信号となり明瞭にデジタル化されてブレることなく病巣を貫く。すぐに滑らかな舌先が入り込んできてそれは言葉もないままに刺々しい塊となった心の中のしこりをあっという間に解きほぐしてゆくのだった。そんな口づけを最後にしたのはいつだっただろう。
 自分が放つ甘い匂いに噎せかえりそうになりながらとうとう下着の中に手を忍ばせる。夢の中の男の大きな手が紘子の手に重なり、一緒にそこを探ろうとする。閉ざされているその扉をそっと開けると、もうどうしようもないほどに濡れているのだった。かわいそうに、かわいそうに、こんなに泣いてたんだ。グラスの縁から溢れることができないままの涙は、そうやってグラスの底のひび割れからドクドクと滲み出してくるのだった。あとからあとから止めどなく溢れてくる涙を、夢の中の男は掬い上げては飲み込んで、また撫でては掬ってくれた。紘子は温かな男の懐に包まれながら、身体中を駆け巡る濁った体液が少しずつ浄化されてゆくような感覚に、ただただ身を任せていた。やがて男は紘子のもので濡れた指先を差し出した。男の目は泣きそうにも笑っているようにも見えた。紘子は目を閉じてその指をそっと舐めた。涙の味がした。

 どれくらいの時間眠っていたのだろう。つい壁の時計に目をやったが、いつか保険屋のおばさんに貰ったそのディズニーの時計は、そういえば数日前から3時45分で止まったままだった。秒針の音がしない方が気が休まると思ってそのままにしてあった。不毛な時が自分だけを置き去りにして目の前をただ通過してゆくイメージが恐ろしかったのだ。
 ドアが開いて、眠り込んだ優一を抱え、彼がつらそうにベッドの脇に運んできた。
「だいぶ重くなったな…」
彼は独り言のようにそう言って、ダランと力の抜けた優一の身体を紘子の横にそっと降ろした。ありがと、そう呟いて笑顔を作ろうとしたがうまくいかなかった。ごめんね、そう言いたかったけれど言葉にならなかった。
「今何時?」
おそらく今日初めて人に向かって発した、かすれた声で紘子が呟く。壁のミッキーとミニーをチラリと見やり、電池入れとけよ、と彼は何かを諦めたような、しかし穏やかな声で言ってから「11時半」と静かに言い残して寝室を出ていこうとし、ふと思いついたように向き直って紘子の額に手をあてた。
「熱、ないな。パソコンなんかしてないでちゃんと寝ろよ」
彼が最後に私に触れてくれたのは、一体いつだっただろう。思い出せない。熱はあるよ、あるんだよ、ちゃんと触ってみてよ、微熱だけど確かに熱があるんだよ。だからこんなに辛いんじゃないの。

 穏やかにすやすやと眠っている優一に、そっと水色の毛布をかけてやった。今日一日、一度も抱きしめてあげることができなかった。優一が生まれてからたぶん初めてのことだ。きっとたくさん我慢していたのだろう。泣きもせずに。オデコを撫でると、清潔で幾分ひんやりとした感触のなかに温かな熱を感じた。「クフン…」と動物の子のような微かな鼻声をあげて、優一は毛布の奥に沈み込んだ。母親の涙の匂いで溢れているだろう毛布に抱かれて、優一が深く息を吸い込み、そして安堵の息を吐いた。

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